2―13 ようやく開かれた城門
ハッシュの見た虚界はユライアスやエムロウから聞いた光景そのものだった。
山もなく海もなく、地面すらない世界にハッシュは浮いていた。といっても自分の身体はこの世界にない。視界だけが虚界にあった。
足下から頭上まで周囲一帯に大小の雲が浮かんでいた。それらは朝焼けの雲のように、また、燃え盛る炎のように見えた。奏術師が「島」と呼ぶこれらの物体が虚界の地形であった。
島々の背景に空が見え、空には虚界の太陽が輝いていた。その光は弱々しく、現実世界の太陽のように空を青く照らし出す強さはなかった。虚界の空は仄かに青みを帯びた夜空のようであった。
夜空を背景に朝焼けの雲のように輝く島が点々と無数に浮かんでいるのが虚界の当たり前の景色だった。
ハッシュはこの奇妙な風景にしばらく見入った。
美しさに見とれたというよりは安堵の気持ちが彼の心を満たしていた。
奏術の道を志してから数ヶ月、彼の技は一向に上達しなかった。種を植えたものの全く芽生える気配のない植木鉢を毎日眺めているようなものだった。もしくは固く閉ざされ呼べど応えのない城門を虚しく叩く日々だった。
もう半ば以上諦めていた。エムロウの上達をすぐ隣で見ていれば自分には先が無いと思ってしまうのは当然だった。
それがこの日突然、何の予兆もなく変化したのである。
種は土を割って芽を出し、城門は開かれ彼を迎え入れた。
ハッシュは緋鱗館の二階の窓から外の方を向いて虚界を眺めていた。窓の桟に肘をついて大きく息を吐いた。そして、先が見えないまま努力した長い日々を振り返った。辛い経験を肯定的に思い出せるのは目標に到達した人に与えられる報酬である。
「ああ、長かったな…。」
しばらく感傷に浸った後、ハッシュは虚界の中にいくつか光る点を見つけた。虚力を蓄えた晶石が虚界の中で光って見えるのである。館のあちこちでそれは見られた。動いている点、静止している点、赤い点や黄色い点と様々だった。
そしてハッシュは館の石塀の外にこちらに近づいてくる赤い光点を見つけた。実界の事物に意識を集中するとハッシュの視界の中で虚界の景色は薄くなっていき、いつもの牧場の風景を見ることができた。近づいて来たのはエムロウだった。
エムロウは石塀の手前で立ち止まってハッシュを見上げた。ハッシュも窓からエムロウをじっと見つめた。距離が離れていたのでお互いに細かな表情は分からない。
ハッシュは罰を受けている手前、大きな声を出すことは憚られたし、かけるべき言葉が整理されていなかった。詫びたい、礼を言いたい、エムロウの勇気を称えたい、虚界が見えたと伝えたい。話したい事はたくさんあったがハッシュはエムロウを見つめることしかできなかった。それでも見つめるだけで気持ちは伝わる。二人は長い間お互いを見ていた。真っ直ぐに相手の瞳を見られること、それは二人の信頼に如何程も傷が付いていないことの証左だった。
「皺肌って、どこを見ておっしゃっているのかしら。」
鏡を見ながらニッセは昨日辺境伯から言われたことに一人不満を漏らしていた。
「その上老女ですって。私より御屋形様の方がよっぽど…」
そこにハッシュが入ってきた。
ハッシュは虚界を見たことをニッセに知らせに来たのである。
嬉々として努力の成果を報告するハッシュにニッセも我が事のように喜んだ。初めはハッシュが奏術の道を志したことに少なからず抵抗を感じていた彼女も、ハッシュの上達の遅さ(というより全く進まなかった)にハッシュ以上に気を揉むようになっていた。
「まあ、まあ、今夜はご馳走にしないといけませんね。」
ハッシュの離れに笑顔が戻った。
翌日もその翌日も、毎日飽きずにハッシュは虚界を覗いた。
意識の集中の仕方、というよりは気持ちのあり方で虚界への入りやすさやその見え方が変わった。
ユライアスが言うには、それは調と呼ぶらしく、虚獣を従えるのも虚力を操るのも調の作用であって、詞や律を唱えるのは調を整えるための前段階の作業に過ぎないという。
しかし、ようやく虚視を得たばかりのハッシュにはよく分からなかった。
続けてユライアスは言った。
「心の姿が歪であったり不均衡である者ほど奏力が強いと言われています。」
「どういうこと?」
「孤独を感じやすい人とか、たくさん悩みを抱えている人とか、他人と関わるのが苦手な人とか、強い奏術師にはそういった人が多いのです。」
ハッシュは合点がいかなかった。ポウトレクやユライアス、エムロウがそんな不幸せそうな人にはとても見えなかったからである。
「もちろん皆がそうだということではありません。そういう傾向があるということです。いずれにせよ奏術とは、律のうまさや瞳の使い方よりも根本的なところで術者の性格に深く依存する技なのです。」
やはりハッシュにはよく分からなかった。
が、何となく腑に落ちるところもあった。あれだけ練習しても身につかなかった虚視が、辺境伯に対峙した翌朝、嘘のように簡単に会得できた事実である。あの恐ろしい夜のことが奏力を芽生えさせたのだろうか。そう考えるとハッシュはなぜか不気味なものを感じてしまった。
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