第五章 すれ違いの末路

第1話 精霊の微睡

 湖への外出からひと月ほど。日差しに夏の気配を感じ取るようになるころ。


 精霊祭が近づき、準備で忙しくなったソルを見送ったあと、私も大神殿へ向かうために支度を整えていた。いつも通りのワンピースに袖を通し、薄手のベールをクローゼットから取り出す。


 姿見の前でベールをつける直前、ふと、このところ毎日のように囁かれている甘い言葉が蘇った。


 ――綺麗な碧い瞳を見せて。恥ずかしがらずに。


 ――今日も誰より可愛いよ、エステル。


 湖から帰ってきてからというもの、彼は宣言通り今までにもまして甘い言葉で私を翻弄していた


 これまでの私であればお世辞だと一蹴していたはずなのだが、彼と一晩共に眠ってからというもの、そこにひとかけらくらいは本当の彼の気持ちもまじっているように錯覚してしまって、彼の言葉を無下に扱えなくなっている。おかげで、心臓が休まらない毎日だ。


 ……いけないわ。こんなに浮かれてしまって。


 ベールで顔を覆ってから、ぎゅ、と胸もとを押さえる。


 ソルのことを考えるだけで、胸が苦しい。それと同じくらいに、残り一年を切った契約結婚生活のことを考えると、胸の奥が抉られるように痛む。


 ……だめよ、ちゃんとソフィアに彼を返さないと。


 そういう、約束なのだ。彼が私のものになったことなど、一瞬たりともないのだと、何度も何度も言い聞かせなければみじめに執着してしまいそうだった。


 でも、とテーブルの上に置かれた聖典の写本に視線を移す。


 ……私が進むべき道は、このままでいいのかしら。


 ソルとの契約は別として、このまま「精霊の微睡」を迎える準備を続けていいものか、迷いが生まれていた。それもこれも、ソルの魔法のような言葉があったおかげだ。


 ――君が生きていてくれてよかった。僕も精霊エルヴィーナに感謝するよ。明日からはもっと敬虔な信者になる。


 ……彼はあんなにすてきな言葉をくれたのに、それを自ら打ち捨てるような道を選んでいいのかしら。


 そんな心の揺らぎが生じているせいか、このところ、ちっとも聖典の書き写しが進まない。普段であれば写本を二冊は持って大神殿に向かうというのに、今回は一冊しか準備できなかった。


 分厚い写本を片手で胸に抱き、杖をついて部屋を出る。こつこつと杖の音が響くだけで、使用人たちは手を止めてその場で礼をした。


 この屋敷には、私を蔑ろにするひとはいない。それは一年経っても変わらなかった。


「奥さま、お出かけですか」


 ふと、鈴の転がるような可憐な声に話しかけられ、顔を上げる。見れば、廊下の先で粗末なワンピースを纏ったソフィアが窓を磨いていた。


 ……今日も、なんて綺麗なのかしら。


 亜麻色の髪をくたびれたりぼんでひとまとめにしただけの姿でも、彼女は飾り立てた私より遥かに美しかった。窓から差し込む夏の日差しをめいっぱい浴びて、ひまわりのように輝いている。作業をしていたせいで額に薄く浮かんだ汗すらも、きらきらと煌めいていた。


 誰が命じたわけでもないのに、彼女は物作りの作業の合間にこうして他の使用人たちの仕事を手伝っている。何もせずにこの屋敷に滞在するのは性に合わないそうだ。


 見目だけでなく心根も美しい彼女は、だんだんと使用人たちにも受け入れられているようだ。このところは若いメイドたちと会話に花を咲かせている場面をよく見かける。


「神殿に行かれるのですね。……付き添いはいないのですか?」


 以前はサラを連れて行っていたが、慣れた道だ。近ごろはソルがいないときには、ひとりで礼拝へ行くこともすくなくない。


「ええ。サラも屋敷で仕事があるし、毎日のように連れ回すのは悪いもの」


 今日も、精霊祭で私が纏うドレスの準備をしてくれているはずだ。仕立て屋と綿密な打ち合わせをしているようだったから、今年もすばらしいものができあがるだろう。


 馬車を待たせていることだし、そろそろ立ち去ろうかと考えたそのとき、ふとソフィアが何かを言いたそうに視線を彷徨わせていることに気がついた。


「……どうかした?」


 私に指摘されたことで、ソフィアはわずかに頬を赤らめた。ちょっとした表情の変化すらも、人の視線を奪うのだから、ソフィアはやはり絶世の美女だ。


「その……もしご迷惑でなければ、わたしがお供してもよろしいでしょうか……?」


 うっかりしていた。精霊祭を来週に控えた今、この国の民ならばいちどは礼拝に赴き、あらかじめ精霊エルヴィーナに感謝を捧げておこうと考えるのはごく当たり前のことなのに。


「ええ、一緒に行きましょう」


 ソフィアもいるならば、護衛を何人かつけたほうがよさそうだ。彼女を我がものにしようと企む輩がまだうろついているかもしれない。


「そのワンピースでは出かけられないから、支度をしてくるといいわ」


 ソフィアはぱっと表情を輝かせ、何度も頷いた。


「はい! 三分……いえ、二分で支度して参りますのでお待ちください!」


 ソフィアはぺこりと簡単なお辞儀をすると、彼女に与えた客室に向かって駆け出して行った。ワンピースの裾が翻り、力強く床を蹴る白い両足が覗く。


 ……いいわね、あんなふうに走ることができるなんて。


 彼女は私にはない何もかもを持っている。美貌も、どこへでも駆け出せる健康な足も、好きなひとから愛される幸福も。


 加えて心の根の優しい淑女とあっては、彼女を憎んだり嫉妬したりするほうが難しかった。


 出会ったときは彼女に感情を掻き乱されることもあったけれど、今ではほとんど平常心で接することができる。私とはまるで違う生き物として、眩しく思えるようになった。


「奥さま! お待たせいたしました!」


 ソフィアが告げた二分も経たないうちに、彼女は息を切らして私の前に戻ってきた。


 ワンピースは私が与えた質のいい空色のものに着替えたようだ。髪型はやっぱり後ろでひとまとめにしただけの簡単なものだけれど、その飾り気のなさが彼女の本来の美しさを余計に引き立てている気がした。


「奥さま、よければお荷物をお持ちします!」


 にこにこと屈託のない笑みを浮かべて、ソフィアは両手を差し出した。私が持っている写本を受け取ろうとしているのだろう。


 ……なんだか、出かける前にはしゃぐ姿はソルとよく似ているわね。


 外が好きな恋人たちなのかもしれない。どちらかといえば家でおとなしくしているのが好きな私とは、正反対なふたりだ。


「ありがとう。それじゃあ、お願いするわ」


 革張りの写本をソフィアに持ってもらい、杖をつく。ソフィアは私の一歩後ろを、まるで付き人のようについてきた。


 ふたりで向かいあうように馬車に乗り込み、窓の外を見やる。ソフィアが着替えている間に頼んでおいた護衛が、遅れて私たちの馬車の後ろに馬をつけていた。


「今日は夏らしいいいお天気ですね、奥さま」


 がたり、と馬車が動き出すと、ソフィアは窓に張りつくようにして外を眺めていた。彼女の言う通り、焼けつくような日差しがいかにも夏らしい。


 亜麻色の瞳を輝かせる彼女を見ていると、自然と頬が緩む。ソルも、こんな気持ちで彼女のそばにいるのだろうか。


 ……思えば、ソフィアとふたりきりになるのは、彼女を屋敷に招いた日以来ね。


 意図したかたちではなかったとはいえ、湖に出かけた際にソルとふたりで宿に泊まってしまったことは、ソフィアには申し訳なく思っていた。謝りたいと思っていたのだが、わざわざ彼女の部屋を訪ねるのも嫌味のような気がして、ひと月もずるずると引きずってしまったのだ。


 思いがけず彼女が外出についてきてくれたおかげで、ようやく機会が巡ってきたようだ。意を決して、彼女の横顔に語りかける。


「ソフィアさん……その、この間ソルと湖へ出かけたときのことだけれど」


「ええ、どうでしたか? ソルはとても喜んでいましたが、奥さまも楽しまれたのでしょうか?」


 興味津々といった様子で、ソフィアは私に向き直った。その表情に、暗い感情はいっさい見受けられない。


 ……恋人が他の女と泊まった話をされているのに、嫌じゃないのかしら?


 やはり、私はソルのただの仕事相手として認識されているのかもしれない。その割りきりのよさはさっぱりとしていてソフィアらしいが、純真すぎて少々心配にもなる。


「違うのよ、あなたには悪いことをしてしまったと思って……ずっと謝りたかったの。事故のようなものとはいえ、あなたの恋人と一緒に眠ってしまって悪かったわ。一応言っておくけれど、何もなかったわよ」


 私にとっては十分すぎるほど甘い思い出の詰まった夜だが、ソルやソフィアにとってはあのくらいきっと日常茶飯事だろう。「何もなかった」と言っても差し支えないはずだ。


「何も……なかったんですか? ……うーん、紳士的というか、意気地なしというか」


 ぼそぼそとソフィアは呟きながら、腕を組んで悩み始めた。うんうんと唸る姿も、彼女は愛らしい。


「お詫びと言ってはなんだけれど、あなたの誕生日にはソルとふたりで出かけてくるといいわ。その日は、私との契約のことは忘れて、ふたりで楽しんできてちょうだい」


 見たところふたりとも外出や旅行が好きそうだ。レヴァイン侯爵家で所有している別荘を貸し出してあげてもいいかもしれない。


「いえ、そんな……。もう過ぎていますし、お気になさらないでください」


 ソフィアは慌てたように首を横に振った。肩に流れた亜麻色の髪が、ゆらゆらと揺れる。


「あら、そうだったの……。お誕生日はいつごろなの?」


 知らなかったとはいえ、ソルとふたりきりの時間を奪ってしまったことは申し訳なく思った。ソルだってふたりきりでソフィアの誕生日を祝いたかっただろう。


「先月です。でも別に、ソルとふたりでいる必要は――」


 そこまで言いかけて、ソフィアはさっと顔を青くした。はっとしたように口もとを押さえている。


「どうかした? ……馬車に酔ってしまったかしら」


 ソフィアが編んでくれたレースのハンカチを差し出せば、彼女は震える指でそれを受け取った。


「……今の話、忘れてください。なんでもないですから」


「え? ええ……」


 誕生日の話が、それほどまずかったのだろうか。突然の彼女の変化についていけず、気まずい心地のまま視線を窓の外へ逃がす。


 ……先月なら、ソルと誕生日が近いのね。


 忘れろと言われても、彼女の反応で却って気にかかってしまった。ごく小さな引っかかりとなって、心の隅に残る。


 どこか気まずい空気のまま、馬車は神殿の前に停まった。今日は礼拝日ではないから、人影はまばらだ。


「……私は大神官さまのところへ挨拶に行くから、あなたは先に礼拝をしていてちょうだい」


 神殿に入ったところで、護衛に彼女を預けて二手に別れる。


 気まずい空気から逃げるようなかたちになってしまったが、どのみちカイル大神官と話すときにはソフィアを同席させるわけにはいかなかったから、ちょうどよかった。


 近くにいた神官にカイル大神官との面会希望を伝えれば、待っていたかのようにすぐに小さな礼拝室へ招き入れられた。「精霊の微睡」を控えているせいか、どれだけ忙しくともカイル大神官は私を優先してくれる。


「エステルさま」


「カイル大神官さま……精霊祭前のお忙しいときに、申し訳ありません」


 カイル大神官は祭壇の前でゆったりと微笑んでいた。今日も、純白の神官服が恐ろしいほどによく似合っている。


「エステルさまの祈りを聞き届けること以上に、私にとって優先すべき事項はありませんから」


「ありがとうございます、カイル大神官さま」


 祭壇の前で指を組み、いつも通りの礼拝をこなす。だが、このところ心が揺らいでいるせいか、いつものように集中はできなかった。


 ……こんなふうではいけないのに。


「精霊の微睡」には嘘偽りない信仰心が必要だとされている。純粋な信者でなければ、「精霊の微睡」を迎えることは許されないのだ。すこしでも神殿に信仰心を疑われることがあれば、たちまち「精霊の微睡」の話はなかったことになってしまう。


 ふう、と小さく息を吐けば、カイル大神官がすぐそばで気づかうように微笑んだ。


「祈りが乱れていますね。……何か悩みごとでも?」


 さすが若くして大神官の地位まで上り詰めただけある。信者の心の動きなど、手に取るようにわかるらしい。


「……すこし、疲れているのかもしれません。このところ、色々とあって」


 誤魔化すように笑えば、カイル大神官の手が私の頬に伸びた。ベール越しにもわかる、氷のように冷たい手だ。


「思い詰めていては届く祈りも届かなくなってしまいますよ。……焦る必要はありません。ゆっくりと、ご自分を見つめ直すのです」


「はい、大神官さま……」


 睫毛を伏せて、カイル大神官の言葉に聞き入る。彼の声は、直接心に語りかけられているようで、いつ聞いても不思議な心地がした。


「『精霊の微睡』を迎えるためには、揺らぎのない清らかな心が必要です。疲れている原因を、私に話してくださいませんか? そのために、私がいるのですから」


 ソルのこと、契約結婚のこと、ソフィアのこと、――「精霊の微睡」を迎えること自体に迷いを抱いていること。そのすべてを打ち明けられたら、どれだけ楽になれるだろう。


 ……いっそ、彼にはすべて話してしまおうかしら。


 信者の懺悔を聞き届けた神官には守秘義務がある。私がすべてを打ち明けられる相手がいるとすれば、それはカイル大神官だけなのかもしれない。


 だが、その瞬間、入り口のあたりで鈍い音が響き渡った。ごとりと、物が落ちるような音だ。


 その音にはっとして振り返れば、そこには空色のワンピースを纏ったソフィアの姿があった。彼女の足もとには、革張りの写本が落ちている。そういえば、彼女に預けたままだった。


「あの……私、盗み聞きするつもりはなくて……この本を、届けに……」


 ソフィアはひどく混乱しているようだった。がくがくと肩を震わせながら、視線を彷徨わせている。


「え……? でも、待って? 『精霊の微睡』を迎えるって……? どういうこと? それってあなたの話?」


 ソフィアが、縋るように私に視線を定める。見ていて不安になるほど青白い顔をしていた。


 ……そこから聞かれていたのね。


 しくじった、と思った。がんがんと、目がくらむほどに心臓が暴れ出す。


 もちろん、ソフィアが悪いわけではない。彼女を神殿に連れてきた私の判断が間違っていたのだ。


 カイル大神官が、一歩私に近寄り、耳もとに顔を寄せる。血のように赤い瞳は、確かにソフィアを捉えていた。


「あなたの秘密が知られてしまったようですね。――始末しましょうか?」


「え?」


 いつも通りの温厚な口調で語られる残酷な言葉に、理解が追いつかなかった。私の聞き間違いだろうか。


 思わず彼から後退り、視線を伏せたまま告げる。


「……カイル大神官さま、今日はここで失礼します。また、近いうちに」


「はい。いつでもお待ちしておりますよ、エステルさま」


 挨拶もそこそこに、くるりと踵を返す。入り口付近では、動揺したようなソフィアが涙目になって外へ駆け出すところだった。


「待って!」


 杖と足を必死に動かして走るも、ソフィアは止まってくれない。それほどに、彼女も動揺しているのだ。私たちの距離は、ぐんぐんと開いていった。


「待って! ソフィア! 話を聞いて!」


 他の礼拝者たちが集う広間に出ても、彼女は止まらなかった。ゆったりとした空気が流れる神殿の中で、走り抜けるソフィアと彼女を追う私の姿は悪目立ちしているようだ。


「ソフィア!」


 神殿から出たところで、杖と足がもつれて、姿勢を崩してしまう。真夏の熱い地面に膝と手のひらをついていると、どこからともなく私を呼ぶ声がした。


「エステル!?」


 どくん、と心臓が飛び上がる。


 ああ、だめだ、今だけは会いたくないのに。


 ……来ないで。


 その願いを嘲笑うかのように、彼は慌てた様子でこちらに駆け寄り、すぐさま私を抱き起こした。夕暮れを思わせる深紫の瞳が、心配そうに揺れる。


「ソル……どうして」


「精霊祭のことで神官たちと打ち合わせに来たんだ。……僕の話はどうでもいいよ。それより、いったいどうしたんだ?」


 肩を支えられるようにして、ふらりと立ち上がる。


 わたしたちから数歩離れたところでは、涙目のソフィアが睨むようにこちらを見ていた。


「ソフィア……エステルを置いて走り出すなんて君らしくないな。何があった?」


 ソルはずいぶん困惑しているようだった。無理もない。心優しいソフィアが、足の不自由な私を置いて駆け出すなんて、普通は信じられないだろう。それくらい、先ほどの話は彼女を動揺させてしまったということだ。


「ソフィア――お願い、言わないで」


「いいえ! 言うわ、黙ってなんかいられない」


 語気を荒らげて、ソフィアは私を睨みつけた。鮮烈な怒りが、ぐさぐさと突き刺さる。


「……何があった?」


 ソルもソフィアの様子を見て尋常ではないと察したのだろう。不安げに、私と彼女を見比べている。


「ソル……! 聞いて、エステルは、――エステルは『精霊の微睡』を迎えるつもりなのよ」


 ソフィアが、ぱらぱらと透明な涙を散らしてソルに迫った。


「私たちに黙って、死ぬつもりだったのよ!!」

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