第3話 幸福の踏み台
杖を持たずに帰ってきたことを不審に思ったお父さまには、「バルコニーで休んでいたら誤って落としてしまったの」と報告し、あわせてソルが親切に馬車まで送ってくれたことも伝えた。お父さまはすぐさまグロリア子爵家に使いをやり、十分な礼をしてくれたらしい。
私からはありきたりな感謝の手紙を送るに留めた。みんなの人気者との付き合いは、これが最初で最後だ。あの夜の出来事は夢のようなものと考えて、いつも通りの生活に戻った。
ソルが杖を届けにきてくれたのは、それからひと月後のことだった。
『知り合いの職人に修理をさせました。杖自体は新しいものに変え、もともと使われていた宝石たちはひとつ残らず使いながら新たな意匠に仕上げてあります』
彼が持ってきたのは、真っ白で硬い木でできた杖で、見慣れた宝石たちが品よく埋め込まれた美しい品だった。よく見れば、精霊エルヴィーナの象徴である月と翼を模した細やかな彫刻まで施されている。豪華さを重視した以前の杖とはまた趣が変わって、私好みの品だ。
……私がよく大神殿へ通っていることを、調べてくれたのかしら。
この醜い傷を負ったあとに通う頻度が増えた唯一の場所は、エルヴィーナ教の大神殿だ。そこの直属の孤児院の支援をしながら、週に何度か精霊エルヴィーナに祈りを捧げている。レヴァイン公爵家の名前を大々的に出している訳ではないから、私が神殿に通っていることを調べるのはさぞ苦労しただろう。
杖をすてきに修理してくれただけでなく、こんな心遣いまでくれるなんて。胸が、いっぱいになっておかしくなりそうだ。
『噂には聞いていたが、すばらしい青年だな。お前とお似合いじゃないか、エステル』
『……おかしなことを言わないで、お父さま。私とお似合いなんて言われたらグロリア子爵令息がかわいそうだわ』
口ではそう言いながらも、お父さまに「お似合いだ」と言われたことは嬉しかった。思わず、踊り出したくなるほどに。
好きなひとからの親切には、つい特別な意味を見出したくなる。醜い「傷痕姫」であることも忘れて、私は浮かれていた。
……私のことをずいぶんご存知のようだし、もしかして特別に私のことを気にかけてくださっているのかしら。
考えるだけで頬が熱くなって、眠れなかった。
紛れもなく、生まれて初めての恋だった。
◇
それからは、ソルがいるというだけで舞踏会に出席するのが億劫ではなくなった。ソルからもらった杖を令嬢たちに壊されることだけは怖くて、公の場には別の簡素な杖を持っていくことにした。これならば、何回折られても平気だ。
ソルは変わらずみんなの人気者だった。皆に慕われる彼を見ているだけでも心が温かくなった。何より、他の誰も知らない私とソルだけの時間があることがくすぐったくて、嬉しかった。
だが、初めは確かに秘密だったその件が、いつからか令嬢たちの間に広がっているのに気がついた。おそらく、口の軽い私の侍女が他家の使用人に話したのだろう。「グロリア子爵令息が傷痕姫に目をつけられているらしい」とあながち嘘でもない尾鰭までついていた。
『ソルさまも大変ですわね、あのような醜い者に執着されるなんて』
『いくら相手はレヴァイン侯爵家といえど、あの顔じゃ、ねえ? 度が過ぎるようならば騎士団にも相談してみるのも手ですわ』
令嬢たちは、広間の隅でくすくすと笑いながら噂話をしていた。話が聞こえないところまで遠ざかろうかと思ったが、ソルの話題はどうしても気になってしまう。ぐずぐずとその場に止まって、令嬢たちの話に耳を傾けていた。
『ああ、でも、これはお家を立て直す作戦なのだと聞きましたわ。現に、杖の一件を経て、レヴァイン侯爵はグロリア子爵家の事業に支援を始めたとか』
どくり、と心臓が冷たく震えた。そんなこと、お父さまは言っていなかったが、ソルを気に入った様子のお父さまならば彼の生家に支援をしていてもおかしくはない。
『まあ、そういうことでしたの?』
『でも、それならば納得できますわ。ソルさまが、傷痕姫に優しくする必要なんてありませんもの』
『そうそう、まるで宝石のように美しい、可憐な女性を愛人として囲っているというお話もありますしね』
浮かれていた心が、みるみるうちにしぼんでいくのがわかった。しぼんで、小さく硬く凍りついて、動かなくなる。
……ソルには、恋人がいるのね。
令嬢たちが「宝石のように美しい」と誉めそやすくらいなのだから、目を瞠るほどに美しいひとなのだろう。ソルが、醜い私などに目を向けるはずもないのだ。
思わず、ぐ、と拳を握りしめる。
そんなこと、初めからわかっていたはずだ。醜い私に向けられる親切には、何か裏があることくらい、知っていたはずだ。
けれど、勝手に期待していたぶんだけ傷つけられたような気になってしまう。火傷の跡が残る醜い左腕に爪を立て、唇を噛んで深い悲しみに耐えた。絶対に、涙だけは流すものか。
『愛人の女性が羨ましいですわ。ソルさまに一晩だけでもお相手していただけたら、一生の思い出になりますのに』
『まあ、あなたはしたなくってよ』
くすくすと下世話な笑い声が上がる。その中で、ひとりの令嬢が秘密を共有し合うとき特有の悪戯っぽい声で切り出した。薄水色のドレスを纏った、はっきりとした目鼻立ちの令嬢だった。
『でも、交渉次第ではそれもまったくの夢という訳ではないようですわ』
『どういうことです?』
他の令嬢たちが、続きを促すように彼女に注目する。薄水色のドレスの令嬢は、にいっと赤い唇を歪めた。
『ソルさまは、金貨一枚支払えば一晩一緒にいてくださる――そんな噂を耳にしましたの』
『まさか……』
『ソルさまが、そんな、ねえ……?』
疑うように顔を見合わせながらも、令嬢たちの頬は紅潮していた。
『でも確かに、グロリア子爵家は前のご当主のころに財産がずいぶんと減って、苦労なさっていると聞きますし……』
邪な期待に染まっていく空気に耐えられず、思わず代替品の杖を懸命に動かしてその場から逃げ出した。
広間を抜け、バルコニーに出る。夏が始まろうとしているせいか、生ぬるい夜風に体を撫でられた。
ひとりきりの空間へ逃げても、令嬢たちの声が頭から離れない。あらゆる事実と悲しい噂話が頭のなかを刺して回っているようで、気持ちが悪かった。
――これはお家を立て直す作戦なのだと聞きましたわ。
――まるで宝石のように美しい、可憐な女性を愛人として囲っているというお話もありますしね。
私の中ですこしずつすこしずつふくらんでいた初恋が、跡形もなく壊れていく。
どうして、彼が私を気にかけてくれているなんて浮かれた妄想をしてしまったのだろう。恥ずかしくて、身体中が発熱しているかのように熱かった。
……ソルさまは、お父さまからもらったお金でお家を立て直して、恋人と幸せに暮らすのだわ。
美しい彼と、宝石に例えられるほどの美女が共に暮らす様を想像して、嫉妬で胸が張り裂けそうだった。
私は、彼の幸福の踏み台にされたのだ。
……悔しい、悔しいわ。
思わず、その場にしゃがみ込んで拳を握りしめる。今まで散々人々に馬鹿にされてきたけれど、こんなにもみじめな気持ちになったのは生まれて初めてだ。
――ソルさまは、金貨一枚支払えば一晩一緒にいてくださる――そんな噂を耳にしましたの。
ぐるぐると黒く渦巻く頭の中に、すっとあの令嬢の言葉が蘇る。
金貨一枚。それは裕福な中流階級の平民がひと月に稼ぐお金と同等だと聞いている。一般的にいえば、決して安い金額ではない。
でも、と頭の中で自分の自由にできるお金を計算した。お父さまからいただいたお小遣いはもちろん、お父さまの持つ大商会のいくつかの部門も私の財産としてわけてもらっている。
今あるお金だけでも、彼の時間を二年は買える計算だった。
……二年。
それは、私にとっては「ちょうどいい」期間だった。
まるで天啓を受けたような心地で、すっとその場に立ち上がる。月のない、星ばかりが広がる夜空だった。
「ふ、ふふ……」
夏の香りがするバルコニーの中で、ひとり笑みをこぼす。
化け物とまで言われる「傷痕姫」などに関わったのが間違いなのだ。令嬢たちが噂するように、執着されるのが落ちなのに。
……あなたが本懐を遂げる前に、もうすこしだけ、私にお付き合いいただくわ。
この日、私はソルの時間を――彼の二年間を、「契約結婚」というかたちで買い取ることに決めたのだ。
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