第四章 湖の一夜

第1話 雨と懺悔

「それじゃあ、行ってくるわね。夕方には戻るから」


「お気をつけていってらっしゃいませ」


 サラや他の使用人たちに見送られながら、馬車に乗り込む。すぐに馬車は目的地に向けて走り出した。


 あれから二週間。私とソルは約束通りエルヴィーナの湖へ出かけることとなった。馬車の窓越しに空を見上げ、まだ見ぬ湖に想いを馳せる。


 エルヴィーナの湖は、はるか昔、精霊エルヴィーナが好んで沐浴していたと言われる神聖な湖だ。かつては宗教的意味合いが強かったが、湖への道が整備されたことをきっかけに身分を問わず多くの人々が訪れる観光名所となった。近ごろでは湖のそばに宿もできているらしい。


 屋敷から湖までは、馬車で一時間半ほどだ。王都からそう遠くない立地も、観光名所となる手助けをしていた。


 ふと、向かい側の座席から視線を感じて、窓から視線を移す。見れば、ソルがいつになく上機嫌で私を見ていた。


「今日のエステルはいつにもましてすばらしく見えるよ」


 何を言い出すかと思えば。あまりに突拍子のないお世辞に苦笑がこぼれてしまう。


「すてきなワンピースを選んだ甲斐があったわ」


 今日の私の服装は、檸檬色のワンピースと、それに合わせた小さな帽子とベールという普段の私の趣味からすればより可憐なものだった。


 これでも、ソルとの外出のためにとっておきの服を選んできたのだ。杖は、ソフィアが作ってくれたあの白い杖を選んだ。


「湖に行ったら何をしたい? なんでも叶えるよ」


 はしゃいでいるような彼の姿を見ていると、私まで嬉しくなる。


「そうね……まずは湖の周りを散策して、お昼ご飯を食べましょう」


 私の隣には、パンやチーズ、果物が詰まったバスケットが積まれている。サラが準備してくれたものだ。


「名案だね。……楽しみだな」


 ……そんなに、私といるのが嬉しいの?


 彼の考えていることはよくわからない。私は彼の時間をお金で買っている卑劣な相手なのだ。恨まれていてもおかしくないのに、こうして一緒に出かけるだけでこんなにも楽しそうにするなんて。


 ……この一年で、すくなからず情が湧いたということなのかしら。


 元々あれだけ人に親切で善良な彼なのだ。一緒にいるだけで、私のような存在でも気にかけるようになってしまうのかもしれない。


 その人懐っこさも、彼が社交界の人気者である所以なのだろう。私が好きな彼の長所のひとつだ。


 他愛もない話をしているうちに、やがて馬車は目的地へとたどり着いた。平日の午前中だからか、思っていたよりも人は少ない。


 お昼ご飯の詰まったバスケットは、ソルが持ってくれた。御者と別れ、早速湖のほとりへ向かう。


 すぐに、陽の光をきらきらと反射する水面が見えてきた。清らかな煌めきに、自然と心が躍る。もし私が走れたら、きっと駆け出していただろう。


「噂には聞いていたけれど、綺麗な場所だね」


 湖の全貌が見えてきたころ、ソルはそう呟いて胸いっぱいに空気を吸い込んだ。


 私も真似して、深呼吸してみる。街中とは違う澄んだ空気が肺の隅々まで広がるようで、心地よかった。


 銀色に光る湖の水面と、そのあたりにぱらぱらと散るように咲き乱れる色とりどりの花たち。どこからか小鳥が歌う声も聞こえてきて、なんとも長閑だ。


「夢みたいに穏やかですてきな場所ね。とても気に入ったわ」


 人があまり多くないのもよかった。人の目を気にしなくていいのはもちろんだが、ソルとふたりきりの時間をより堪能できる。


「もうすこし近寄って見てみよう。何か生き物はいるかな……」


 ソルはなんてことないように私の手を引いてさらに湖へ近づいた。私は手袋をつけているとはいえ、エスコートではなく自然と繋がれた手がなんだかくすぐったい。

 

 湖の水は、底が見えるほどに澄んでいた。残念ながら生き物の姿は見当たらない。もっと中心まで行けばいるのかもしれないが、ここは変わらず宗教的に重要な湖でもあるため、ボートなどでの立ち入りは許されていなかった。


 もういちど湖の底を見回してみるも、やっぱり生き物はない。魚の一匹でもいればソルが喜んだかもしれないのに、と小さく息をつきながらわずかに顔を上げると、水面に映るソルと目が合った。


 彼は幸せそうに微笑んで、じっと私を見ている。今ふいに顔を上げたというような様子でもない。


「……ソル、お魚を探していなかったわね」


 ほんの少し拗ねるように責めれば、彼は微笑みを崩すことなく直接私を見た。


「魚よりずっといいものが水面に映ってたから、つい」


「っ……」


 不覚にも、頬が熱を帯びた。


 彼の甘い言葉なんて聞き慣れているはずなのに。これで演技だというのだから、恐ろしいひとだ。


 姿勢を正して、ソルから顔を背ける。ベール越しにも頬の赤みが伝わってしまいそうで、とても直視できない。


「もうすこし歩こう、エステル」


 再び自然と手を繋がれ、指先を握り込まれた。こくりと頷いて、黙って彼に従う。


 ふたりで歩く湖畔は、信じられないほど穏やかで時間がゆっくりと流れるようだった。時折ベールを揺らす春風に目を瞑りながら、一歩一歩大切に足を進めていく。


 ソルとのお別れまでの日々が、このくらいゆったりと流れてくれたらいいのに。


 ソルの恋人が唯一の親友であると知った後もそんなことを願ってしまうのだから、つくづく私は救いようがないほどに性格が悪いらしい。


 ◇


「エステル、一箇所行きたい場所があるんだけど、いいかな」


 湖のほとりで昼食を終えた後、ソルはふいに切り出した。


「行きたい場所? ええ、いいわよ」


 もともと今日はソルのお誕生日祝いでここまで来たのだ。彼の望みならばなんでも叶えるつもりでいた。


「すこし歩くんだけど、大丈夫かな?」


「ええ、問題ないわ」


 ソルと過ごす穏やかな時間が思ったよりも心地よかったせいか、午前中歩き回ったにもかかわらず疲労はすこしも感じていない。ソルと一緒なら、世界の果てまででも歩いていけそうだ。


「よかった。こっちだよ」


 ソルが私を案内した先は、湖からほど近い森の中にぽつんと建てられた小さな礼拝堂だった。手入れはされているようだが、人の気配はまるでない。


 そういえば、エルヴィーナの湖のそばには、無人の礼拝堂があると聞いたことがある。エルヴィーナの湖を訪れた敬虔な信者のために用意されたものだと聞くが、このあたりが賑わうようになってからは近くに神殿もできたため、この礼拝堂の存在はほとんど忘れられているに等しかった。


「ここで愛を誓った恋人同士は、永遠に幸せになれるなんて言い伝えもあるんだよ」


「……すてきね」


 そんな迷信があるならば、私ではなくソフィアを連れてくるべき場所だろう。戸惑いながらも、ソルに導かれるがままに礼拝堂の内部に足を踏み入れる。


 無人の礼拝堂というから警戒したが、思ったよりも埃っぽくはなかった。中には祭壇と礼拝者用の席が二列ほど用意されており、規模こそ小さいが王都の大神殿と同じ月と翼をモチーフにしたステンドグラスが入り口以外のすべての方向に埋め込まれていた。


 清らかな静寂に包まれると、なんだか気分が落ち着く。敬虔な信者であるつもりはなかったが、大神殿に通っているうちに神聖な領域に足を踏み入れるとほっとするようになってしまったようだ。


 いつも大神殿でしているように、礼拝者用の席にふたりで並んで座って指を組む。初めのころは戸惑っていた距離にも、今ではすっかり慣れてしまった。


「森の中にある礼拝堂なんて、お伽話にでも出てきそうね。でも、あなたが自分からお祈りに行こうとするなんて珍しいわ」


 この一年を見ている限り、ソルの信仰心はごく一般的な貴族と同程度だ。王都でも散々私に付き合わされて礼拝しているというのに、出かけた先でも行きたがるなんてすこし意外だ。


「……ここで、エステルに聞いてほしいことがあるんだ」


「聞いてほしいこと?」


 組んでいた指を解いて、上半身を捻ってソルのほうへ向き直る。いつになく神妙な面持ちをしている彼を見て、何か深刻な話なのだと悟った。


 ……何かしら。やっぱり、契約を短くしたくなった? 私とはもう暮らせない?


 悪い予感ばかりが膨らんで、動悸がした。久しぶりに凪いでいた心が、一気に乱れていく。


 ソルは長いまつ毛を伏せ、そっと私の手を取った。その姿は、まるで聖職者に懺悔する罪人のようだ。よく見れば、彼の手も肩も震えている。


「ソル……そんなに言いづらいことなの? 落ち着いて。どんな話でも、私、ちゃんと聞くわ」


 すぐに受け入れられるかどうかはさておき、彼の言葉を最後まで聞き届ける覚悟を決める。私にとってどれだけ衝撃的なことであろうとも、取り乱さずに耳を傾けなければ。


「ありがとう、エステル。――伝えたいのは、僕とソフィアのことなんだ」


 改めて彼の口から彼女の名前を出されると、決意が揺らぎそうになった。どう考えても、私にとっていい話であるはずがない。


 ……でも、せっかくソルが話してくれようとしているのよ。聞かなくちゃ。


 自身を奮い立たせ、いちどだけ頷く。彼は私の手をゆっくりと掲げ、許しを請うように額につけた。


「エステル、君の優しさを信じて告白する。僕は、僕とソフィアは――」


 その瞬間、ステンドグラスがいちどだけぱっと光り、わずかに遅れてばりばりと空気を引き裂くような轟音が響き渡った。


「きゃっ……!」


 思わず、縋りつくようにソルにしがみついてしまう。すぐに大きな手が私の肩を抱いた。


「大丈夫、ただの雷だよ」


 ソルは優しく宥めながら、ステンドグラスを見やった。外の様子は見えないが、ほどなくしてガラスを打ち付けるような激しい雨音が鳴り始める。


 昼過ぎから雲がかかっていたが、ここまでの大雨になるほどとは思わなかった。突然の天候の変化に戸惑いながら、はたと我に返る。


 私としたことが、彼の告白を遮ったばかりか、不躾にも抱きつくような真似をしてしまった。慌てて体を離し、姿勢を整える。


「ソル、ごめんなさい。お話を遮ってしまって。もう大丈夫よ。続きを話して?」


「いや、いいんだよ。大きな音で驚いたね」


 ソルは私を安心させるかのように柔らかく微笑んでから、もういちどステンドグラスを見た。


「話はまた今度にしよう。……この雨だと、早く帰ったほうがよさそうだ」


 確かに、音だけでもわかるほどひどい雨だ。残念だが、予定を切り上げて帰路に着いたほうがいいだろう。


「……そもそも、帰れるかな、これ」

 

 ソルは、ぽつりと不穏なことを呟いて、困ったように笑った。

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