第3話 内緒話と約束

 夜。湯浴みを済ませた私は、眠る前にソルに会うべく彼の寝室を目指しているところだった。


 料理長が腕に寄りをかけて作ってくれた誕生日のご馳走は、ぎこちない空気の中で消費された。ソルは義務的にテーブルについてくれたけれど、私たちの間にお金が発生していなければ私と食事なんてしたくないに決まっていた。


 ソフィアは、彼女に与えたソルの部屋の近くにある客室で食事をしたらしい。一応彼女も誘ったのだが、頑なに断って食堂に姿を表すことはなかった。


 ……ちゃんと、謝らなくちゃ。


 こつこつと杖をつきながら、ソルの部屋に続く階段を上る。持っているのは彼からもらった杖――おそらく、ソフィアが手がけてくれたあの白く美しい杖だった。


 息を整えてソルの部屋に近づくと、わずかに扉が開いているようだった。部屋の中から燭台の灯りが漏れている。


「ソル、傷ついたにしてもあんな言い方はないと思うわ。エステルが怖がっていたじゃない」


 鈴を転がすような可憐な声が聞こえてきて、どきりとした。ソフィアが彼とともにいるのだ。


 ……そうよね。ソフィアがいるんだもの。彼女を部屋に呼んで当然だわ。


 そのためにソフィアを連れてきたというのに、そこまで考えが及ばなかった自分の浅はかさを恥じた。今日が終わる前にきちんと謝っておきたかったのだが、仕方がない。


「傷を抉らないでくれ。……帰宅して君がいて、子どもの話なんてしているから、つい」


「……エステルだって、あなたを嫌っているわけじゃないでしょう? その、ちゃんと家族になりたいなら話すべきよ。――私たちのことも」


「――言えない。彼女は敬虔な精霊エルヴィーナの信者だ。言ったら最後、僕と彼女の関係は終わりだ。……場合によっては君の命も危ないかもしれないんだ。言えるわけがない」


「終わり」だとか「命が危ない」なんて物騒な言葉だ。踵を返そうとしていた足が、自然と止まってしまう。


 ……いくら私でも、ソルの恋人だからという理由でソフィアを殺したりしないのに。


 彼らにとって私は、怪物のようにでも見えているのだろうか。もっとも、私が彼らにしてきたことを考えればそう思われても仕方がないだけに、返す言葉もない。


「私は……エステルを信じたいわ。あの子は、残酷じゃないもの。今日だって、道で売られそうになっていたところを助けてくれたのよ。……私のことを忘れているのに」


「確かにエステルは残酷ではない。でも、それとこれとは話が別だ」


 ソルの、長い溜息が漏れ聞こえてくる。


「君はエステルの信心深さを知らない。毎日のように大神殿に赴き、礼拝をし、弱い立場にいる子どもたちを助け、唯一の趣味らしい趣味といえば聖典を書き写すことで……人とは思えない清廉さを纏っているんだから。聖女なんてものが存在するとすればそれは彼女のことだ」


「……なんだか途中から惚気みたいになってるわよ。やめてよね」


 ソフィアもまた、深いため息をつく。そうだ。恋人の前で妻を褒めるような言動をするなんて、気づかいのできるソルらしくない。


 ……それくらい、心が乱されているということね。


 やっぱり、今日はソルに会わないほうがいいだろう。残りわずかとなった誕生日を、ソフィアとふたりきりで過ごしたいはずだ。


 物騒な言葉のせいで止まっていた足を、再び階段へ向かって進めた。


 だがその瞬間、杖が滑って階段を転がり落ちて行ってしまう。静まり返った屋敷の中に、杖が転がる乾いた音が虚しく響いた。


 ……しまった。


 そう思うと同時に、ソルの部屋から彼とソフィアが飛び出してくる。思ったよりも大きな物音を立ててしまったようだ。


「エステル……? どうしてここに?」


「あ……その、あなたたちをお邪魔するつもりはなかったの。用があってきたのだけれど、取り込み中のようだったから引き返すところだったのよ。そうしたら、杖が……」


 ソルに事情を話している間に、ソフィアが階段を駆け下り、杖を取ってきてくれた。幸いにも、壊れてはいないようだ。


「……ありがとう」


 ソフィアから手渡された杖を、思わずぎゅうと胸に抱き締める。壊れなくて本当によかった。


「その杖……使ってくださっているのですね。私の作品なのです」


 ソフィアは、視線を伏せながらも嬉しそうに頬を赤らめた。


 彼女は今、体の輪郭が浮き上がるほど薄手の寝衣姿で、やはりこのような薄着でソルの前に姿を現すような間柄なのだと思い知らされた。


「なんとなく気づいていたわ。ソルの恋人の作品だって。髪飾りと、オルゴールもそうでしょう? ……どれも気に入っているのよ」


「まあ、ありがとうございます!」


 ソフィアは、はしゃぐように声を上げ、満面の笑みを浮かべた。素直にころころと表情を変える彼女は、誰の目から見ても魅力的だ。


「新作ができたら、いちばんに奥さまにお見せしますね!」


 ソフィアは、目を輝かせてそう言った。仕事を褒められたのがよほど嬉しいようだ。つまりそれだけ、仕事に誇りを持っているということなのだろう。私とは違い自立した女性である彼女が、ますます眩しかった。


「ソフィア、もう夜なんだからあまり声を張らないでくれ。君の声は耳に残るんだ。エステルが眠れなくなったらどうする」


 私には絶対言わないような軽い口調で、ソルはソフィアを嗜めた。


「はーい」


 ソフィアは納得いっていないようだが、唇を尖らせて大人しく黙り込んだ。そんな仕草すらも可愛らしい。


 彼らには、私とソルの間にあるような見えない壁も線もない。ふたりでひとつの世界を共有しているのだと、嫌でも思い知らされた。


 ……ソルを夫にしたくらいで、どうしてこのふたりの関係を壊してしまったなんて思っていたのかしら。


 彼らの絆は私の予想以上に強固なもののようだ。私を踏み台にした代償を払わせる、なんて息巻いていたけれど、全部私が空回りしていただけだった。


「じゃあ、私はお部屋に戻るわね。――奥さま、おやすみなさいませ」


 ソフィアは私たちに気を利かせたのか、にこりと微笑んで廊下の奥へ姿を消した。ソルと同じこの階のもっとも南側にある客室が、彼女の部屋だ。


 ……気を使わせてしまったわ。


「エステル、何か用があるんだろう? よければ中へどうぞ」


 ソルが、扉を開いて私を部屋に招き入れる。部屋の奥にある燭台がゆらめいて、夜を感じた。


 ……思えばこの一年、ソルのお部屋に入ったことはなかったわ。


 新居に引っ越してきた際に、調度品を確認するために入ったのが最後だ。彼が暮らすようになってからは、いちども足を踏み入れていない。


「……じゃあ、失礼するわ」


 妙に緊張しながら、部屋に敷き詰められた絨毯の上に足を乗せる。よく手入れされているようで、ふかふかだ。


 ソルにふたりがけの革張りのソファーに座るよう促され、身を縮めて座る。ソルの部屋のものだと思うと触れるだけでどきりとした。


「何か飲む? ……といっても、ここにあるのは水とお酒しかないんだけど」


 ソルは、一見いつも通りに話してくれているようだった。彼の気分を害したのは私なのに、私が怯えないように気をつかってくれているのだろう。申し訳なさで胸がいっぱいになる。


「お部屋でお酒を嗜むこともあるのね。知らなかった」


「あんまり好きじゃないんだけど、たまにね。……今日は飲もうかと思っていたところだった」


 明確には言わなかったが、きっと、嫌なことがあったときに飲むのだろう。彼は結局、グラスふたつに水を注いで持ってきてくれた。


「ありがとう」


 ソルからグラスを受け取り、ひとくち飲む。レモンを浮かべていたのか、爽やかな味がする。


「それで、用って?」


 私とひとりぶんの距離を空けて座っていたソルが、話を切り出してくれる。グラスをテーブルに置き、上半身をひねるようにしてソルに向き直った。


「ソル……その、昼間のことは本当にごめんなさい。あなたたちに対して、あまりにも配慮に欠けていたわ。私の考えが足りなかったの。ごめんなさい」


 頭を下げると、すぐに彼の手が私の肩に添えられ、姿勢を正された。


「謝るのは僕のほうだ。君からすれば理不尽な怒りだっただろうに……。怖い思いをさせてごめん、エステル」


 ソルは私を思いやるように紫の瞳を細めた。どことなく諦めのにじんだまなざしだ。


「その……ソフィアさんのことだけれど、私はこのまま屋敷にいてもらいたいと思っているわ。あなたのためももちろんだし、彼女を街に置いておくと、また連れ去られそうになるかもしれないから……。しばらくは、ここで保護したほうがいいと思うのよ」


 これだけは、紛れもない本音だった。私の知らないところで、彼女が野蛮な人間に傷つけられるかもしれないと思うと、考えるだけで怒りが込み上げてくる。


「エステルは……ソフィアがここにいてもなんとも思わないの? 嫌な気持ちにならない?」


 ……私を気づかってくれているのね。


 なんとも思わないかと言われたら、それは嘘だ。きっと嫉妬に身を焼かれる日もあるだろう。


 けれど、先ほどのように私には絶対見せないような表情でソフィアと笑い合う彼を見られるのなら、悪くないと思うのもまた事実だった。


「ええ。……あなたに恋人がいるとわかった上で、この結婚を始めたのよ。私は大丈夫」


 彼がいつか頼んできた通り「契約」という言葉は使わなかった。あれ以来、いちども使わないように心がけているのだ。


「……そっか。うん、わかったよ。エステルがいちばんいいと思う方法に従うよ」


 寂しそうに彼は微笑んだ。今日は翳った表情を見てばかりだ。


「それと……その、今日はあまりお祝いできなかったけれど、何か欲しいものはある? 贈り物をしたいのよ」


 ソフィアを連れてきたことこそが誕生日の贈りもののつもりでいたのだが、思っていたより手放しで喜んでいる気配がないから、何か別のものを贈ったほうがよさそうだ。


 ソルの様子を伺っていると、彼はちらりと私を一瞥したのちに、視線をそらして呟いた。


「……何かくれるつもりなら、物じゃなくて、エステルの時間が欲しい」


「私の、時間?」


「……一日だけでいい。普通の夫婦みたいに、目的もなく出かけてみたい」


 ……そんなものでいいの?


 拍子抜けしたが、ソルは耳をわずかに赤く染めていた。どうやらこの言葉を告げるのに相当勇気が必要だったらしい。


「それなら、私、エルヴィーナの湖に行ってみたいわ。お父さまにも勧められたの。とても美しい場所で、身分を問わず夫婦や恋人たちに人気があるそうよ」


 春には湖の周りに小さな花々が咲いて、それは美しいとの噂だ。王都から湖につながる道が整備されたこともあって、近ごろ人気の観光名所だった。


「そんな遠出も許してくれるの? ……嬉しいな、最高の贈り物だよ」


 ソルは、とろけるように甘い笑みを見せた。今日初めて見る、心からの笑みだ。


 ……そんなに喜んでくれたら、私も嬉しいわ。


「都合のいい日取りを教えて。調整するわ」


「君との予定が最優先だ。いつでも問題ない」


 珍しく、ソルははしゃいでいるようだ。こんなに外出が好きならば、もっと出かければよかった。


「そんなこと言ったら、あなたとの仕事を楽しみにしているお父さまが悲しむわよ。……でも、わかったわ。じゃあ、もうすこし暖かくなってきたころに行きましょう。二週間後くらいかしらね」


「二週間後か。待ち遠しいよ」


 あんまり子どもみたいにはしゃぐから、思わず頬が緩んでしまう。好きなひとの幸せそうな笑顔というものは、どうしてここまで胸を甘く溶かすのだろう。


「……そうね、私も楽しみだわ」


 水を飲み干して、席を立つ。夜も更けているし、これ以上の長居はいけない。


「それじゃあ、私は戻るわ。夜にお邪魔してしまって悪かったわね」


 私が立ち上がったのに合わせて、ソルがエスコートするように私の手を取った。


「……このまま朝までいてくれてもいいのに」


 私の指先を握りしめて、ソルは甘く微笑んだ。熱を帯びたまなざしに、心臓が飛び跳ねる。


「……相手を間違えているわよ。今日は悪い冗談ばかりね」


「ひどいことを言うね。……じゃあ、せめて部屋まで送らせて」


 ソルは私の指を握りしめたまま、ゆっくりと歩き出した。


 ……ひどいのは、あなたも大概よ。


 ソフィアという美しい恋人がいながら、私にもそんな甘い言葉を吐くなんて。しかも今は、誰も見ていないのだから演技の必要はないというのに。


 でも、誰よりも私がいちばんひどいのだということはわかっていた。


 彼の甘い演技に乗せられて、結局今夜も「終わり」を先延ばしにしているのだから。

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