幕間 忌み子の初恋

第1話 忌み子の宝物

 幾重にも閉ざされた寝室の中で、愛しいひとが眠っている。乱れたシーツの上には、蜂蜜色の髪がうち広がっていた。


 寝台の縁に腰掛けたまま、そっとその髪を指先で毛先からたどり、うなじの辺りまで追った。


「エステル」


 起こさないよう、ささやくような声でそっと呼びかける。


 よく見れば、白い頬には涙の跡が残っていた。さんざんくちづけたから、苦しかったのだろう。


 抵抗も涙の跡も、怯えたような表情すらも可愛く見えてしまうから困る。彼女が悲しむ姿なんて絶対に見たくないと思っていた健全な自分はもうすっかり消え去っていて、彼女が生きて表情を見せてくれるならば、なんだって嬉しかった。


「エステル、明日には傷を薄くする薬が届くんだ。僕が塗ってあげるからね。エステルは何もしなくていいよ」


 エステルが密かに死を選ぼうとしていたことを知ったあの日から数日。


 僕は彼女を、いっさい外に出していない。祈りも写本も禁じて、こうして屋敷の深くに閉じ込めている。もちろん、彼女が自死を選ばないように、部屋のなかには刃物はおろか、長い紐なども置かないように厳重に注意して。


「傷が治ったら、死にたい気持ちはきっと薄れるよね。それとも、他の何かが必要かな? ……新しい家族とか?」


 そっと、エステルの薄いお腹を撫でる。くすぐったかったのか、彼女はわずかにみじろぎをした。その仕草すらも可愛くて、思わず眠る彼女の額にくちづけてしまう。


「僕にできることならなんでもするよ。……そうだ、その傷を負わせた放火犯を探し出して殺そうか。気分がすっきりするかも」


 そんなこと、心優しいエステルが望むはずもないのに、縋りたくなるくらいには絶望している。自嘲気味な笑みが勝手にこぼれるのを感じながら、そっとエステルの隣に横になった。


 目が覚めたときにいちばんにエステルの顔が視界に飛び込んできて、僕に微笑みかけてくれたら、どれだけ幸せな気持ちになれるだろう。そう、夢見ていたときもあった。


 ……でも、もういい。


 僕はもう、彼女に何かを望まない。押しつけたりもしない。この想いが、報われなくてもいい。


 今、僕が切実に彼女の口から聞きたいと思っている言葉は、「好き」でも「愛している」でもなく、ただひとつだ。


「どうしたら……君は生きるって言ってくれるのかな。僕は……どうすればいい?」


 そっとエステルの肩口に顔を埋め、甘い香りを胸の奥まで吸い込む。この温もりと香りを、自ら消そうとしていたなんて考えられなかった。


「君が望むように振る舞うから……僕が煩わしければ、死ねと命じてもいいから――」


 そっと彼女の手を取り、祈るように額につける。


「――だからどうか、生きてくれないか、エステル」


 エステルの意に沿わないことだとしても、彼女が「生きる」と決断するまでこの手を離すわけにはいかない。どんな罪人になっても、彼女を死に向かわせることだけはできない。


「……愛しているんだ、エステル」


 他の何が犠牲になっても、君にだけは生きていてほしい。


 世界を呪うように生きていた僕に、そんな祈りを教えてくれたのは他ならぬエステルだというのに。


 ……でも、そうだよな。エステルはきっと僕のことなんて知らない。


 初めて会った日のことも、君がくれた言葉も、きっと君の中では簡単に忘れてしまうほど瑣末なことだっただろう。


 でも、僕は宝物のように仕舞い込んでいる。エステルにまつわることは、何もかもすべて。


「初めて会った日から、君は特別だったな……」


 エステルの手を握りしめたまま、自然と意識は遠い日に囚われていた。

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