第2話 君に捧げる祈り

「ねえ、あなた。私の可愛い赤ちゃんを知らない?」


 物心がついたころから母は、取り憑かれたように自分が産んだ娘を探していた。もうどこにもいるはずもないのに、毎日毎日懲りもせず屋敷を徘徊しては、使用人や僕を困らせていた。


 同じ日に産んだ僕のことは、どうやら忘れてしまったらしい。乱れた髪のままふらふらと歩きまわる母の後ろ姿を見送って、つまらない授業をする家庭教師のもとへ向かう。


 この国では、双子として生まれた子どもは問答無用で殺されるのが常だった。精霊エルヴィーナを害した双子の伝説があるせいで、なんの罪もないのに双子というだけで生まれたその日にふたりとも殺されてしまう。


 僕も、双子として生まれたらしい。片割れは女の子で、後から生まれたから彼女が妹だ。本来ならばふたりとも殺されるところだったのだが、病気や怪我の耐えない兄たちの代用品として僕だけはこっそりと見逃してもらえた。初めから生まれたのは僕ひとりということにして、出生証明書も捏造したのだという。


 妹は、その日じゅうに速やかに処分された。


 その事実を知った母は、すっかり心を病んでしまった。自分の娘を無惨にも殺されたのだ。ひょっとすると母の反応が正常で、何事もなかったかのように振る舞っている父のほうがおかしいのかもしれない。


 母は、失った僕の妹のことを思うあまり、次第に僕のことを忘れていった。兄たちのことも、覚えているかどうか怪しい。回復の兆しを見せずにやつれていく母を父は見限って、次第に公の場から遠ざけ、若く美しい愛人たちを囲うようになった。


 兄たちからも、僕は敬遠されていた。没落寸前とはいえ歴史だけはあるグロリア子爵家に双子として生まれた僕は、家門に泥を塗ったも同然の存在であるらしい。


 精霊エルヴィーナも、国も、くだらない教えに振り回されて罪のない赤子の命を奪う大人たちも、みんなみんな大嫌いだった。


 だから、週にいちど連れていかれる礼拝は、何よりも苦痛な時間だった。


 初めは礼拝を拒んで逃げ出そうとしたこともあったが、そのたびに食事を抜かれ、父や兄たちに吐くまで殴られるだけなので、神官がありがたい言葉を述べている間はじっとしていることにした。


 礼拝のあと、父が寄付金の相談で神官たちと話し込んでいる時間は、いよいよ暇だった。祖父が事業に失敗したせいでグロリア子爵家の資産は既に底をつきかけ、多額の寄付をする余裕などないというのに、父は見栄を張りたいらしい。敬虔な信者が集まる家門に送られる「エル」の称号がどうしても欲しいのだという。


 だからこそ余計に、双子が生まれたという事実は隠し通したかったのだろう。出生証明書を偽造した時点で、清廉な「エル」の称号には到底ふさわしくない家門に成り下がったというのに、滑稽なことだ。


 父を待つ間、兄たちと過ごす気にもなれず、ぶらぶらと神殿内部をうろつく。広大な中庭に立ち寄れば、礼拝者たちが散歩している様子がちらほらと散見された。


 その中で、一際目を引く少女がいた。


 少女は分厚い包帯で顔面と手足を覆い、美しい赤い布が貼られた車椅子に乗っていた。そばには侍女らしき女性が付き添っている。明らかに、貴族令嬢とその付き人と言った風情だった。


 少女は美しい蜂蜜色の髪をしていたが、耳の辺りで髪を切っていた。貴族令嬢にはあるまじき長さだ。


 ……怪我のせいかな。


 灰色の日々を送っていた十一歳の僕は、自分と同年代の少女がひどい怪我を負っていても特別心が動かされることはなかった。ただ、物珍しさから彼女が目に留まっただけだ。


 なんとなくそのまま少女と侍女を見ていると、侍女は礼拝客の中に知り合いを見つけたようで、まもなくして少女を放置してどこかへ行ってしまった。


 少女は椅子に乗せられた人形のように、ぴくりとも動かない。――いや、動けないだけなのかもしれないが。


 流石に放置されるのは問題ではないのか、とますます気にして少女を眺めていると、数人の子供たちが戯れるように駆けてきて、彼女の車椅子に勢いよくぶつかった。少女はその衝撃で、車椅子から転げ落ちてしまう。


「あっ……」


 子どもたちは、転げ落ちた少女を見て表情を曇らせた。おろおろとして少女を囲む。


「ごめんなさい……」


「大丈夫……?」


 見たところ、子どもたちは貴族ではなく街の子のようだ。


 おそらく貴族令嬢であろう少女の両親にこのことが知られれば、子どもたちはどんな罰を受けるだろう。ひょっとすると、子供たちの親や親族にも咎が及ぶかもしれない。


 ……運がなかったな。


 代わりに僕が助けてやろうと思うほど、僕は善良な人間ではない。下手に他の貴族家に関わって、面倒ごとを起こすのはごめんだ。これ以上、父や兄たちに殴られたくはなかった。


 巻き込まれる前に離れよう、そう、踵を返した瞬間――。


 すっと、どこまでも澄み渡る美しい声がした。


「このくらい、平気よ。誰かに見つかる前に帰りなさい」


 半身で振り返って声の主を探せば、先ほど車椅子から転げ落ちた少女が子どもたちに語りかけていた。自分と同年代とは思えぬ、凛とした口調がやけに耳に残る。


「でも……」


 子どもたちは未だ床に転がったままの少女を見て、困惑していた。ひとりでは到底車椅子に座り直せそうもない彼女を前に、このまま立ち去るのは気後れしているようだ。


「いいから、行きなさい。――面倒なことになるわよ」


 少女はぴしゃりと言い放つ。怒っているようにも捉えられる冷たい響きに、子どもたちは怯えて逃げ出した。


 ……ずいぶん平民に優しい貴族令嬢だな。


 僕が今まで見てきたどの貴族とも違う。あのような大怪我でも神殿に通うほどだから、よほど信心深いのだろう。


 真の信者は、あのように慈しみ深いのだ。父や兄たちとは大違いだった。


 少女は子どもたちが去ったのを見て、車椅子に手を伸ばした。どうやら自力で乗ろうとしているらしい。


 だが、包帯が巻かれた左手や左足がうまく動かないのか、地面でわずかに体の位置がずれるばかりでとても体が持ち上がりそうにもない。


 面倒ごとの匂いがする彼女になんて、関わらないほうがいいに決まっている。何が気に障るかわからない父に叱られたくないのなら、このまま放っておくのがいい。


 頭ではそう理解しているのに、気づけば僕は少女のそばに歩み寄っていた。小さな体を一瞥したのち、そっと少女を抱き上げ、車椅子の上に静かに下ろす。


「あ……どうもありがとう。親切な方ね」


 少女は車椅子の上で、恥ずかしそうにはにかんだ。包帯から覗く深い海のような碧の瞳が、戸惑ったように揺れている。


「こんなところにいるからぶつかられるんだ。――日陰でいいか?」


「え? ええ……」


 断りを入れて、慣れない車椅子を押す。中庭の隅の日陰まで移動して、車椅子を止めた。


 そこで初めて、少女が庇うように左手を胸に抱えているのが目についた。よく見れば、白い包帯にどす黒い赤色が滲んでいる。


「……怪我をしたのか? 落ちたときに?」


 少女は僕の指摘に慌てて左手を隠した。まるで恥ずべきことだと言わんばかりに。


「傷口が、すこしずれただけ。……平気よ、このくらい」


 強がるような口調は、彼女の癖なのだろう。おそらくは僕よりも年下のくせに、素直ではない子だ。


 上着から手巾を取り出して、少女の前に回り込む。そのまま、少女の左手の包帯を解いて傷口を確認した。


 少女の左手には、赤く焼け爛れたひどい火傷の痕があった。薄く張り始めた新しい皮膚が破れたのだろう。じわじわと血がにじんでいて、あまりに痛々しかった。


「あ……見ないで。汚いから」


 少女は僕から傷口を隠すように左手を引っ込めた。顔面や左足に巻かれた包帯の下にも、似たような傷が隠れているのかもしれない。


 ……そういえば、レヴァイン侯爵家が火事に見舞われたと聞いたな。


 幸い死人は出なかったが、レヴァイン侯爵のひとり娘がひどい火傷を負ったと風の噂で聞いた。レヴァイン侯爵令嬢は王家に見初められるほどの美貌の持ち主だったから、惜しむ声が絶えなかったとか。

 

 それが、ひょっとするとこの子なのかもしれない。かけるべき言葉も見つからず、少女に手巾を押し付ける。


「これは、痛むだろう。帰ったら医者を呼んで診てもらうんだ」


「……今日から、しばらく屋敷には戻らないの。療養所へ行くから」


 少女はぽつりと呟いて、碧い瞳を翳らせた。


 確かに息をしているのに、まるで生気を感じられない少女の様子は見ていてもどかしい。


「そうか。……すこしでも、よくなるといいな。君はずいぶん慈愛に満ちた信者のようだから、精霊エルヴィーナもご加護をくださるだろう」


 敬虔な信者でもないのにわかったような口を効いてしまい、言ってから途端に後悔が押し寄せた。きまりが悪くて視線を泳がせていると、少女がくすりと笑うのがわかった。


「ありがとう。あなたこそ、とても優しいのね」


 口もとと右目しか見えなかったが、花が綻ぶような少女の微笑みが目に焼き付いて離れなかった。姿かたちの問題ではなく、彼女の優しさと誇り高さが内側からあふれるようなその笑い方があんまり綺麗で、自然と心臓が早鐘を打ち始める。


「……療養は長いのか?」


 少女はわずかに口もとを緩めて、遠くを眺めた。


「わからないわ。……でも、いいの。このまま王都にいても、することもないし」


 貴族家の令嬢であれば、社交界デビューや縁談といった、大切な予定があるはずだ。それすらも諦めたような彼女の口ぶりが気にかかって仕方がなかった。


「……いつか療養を終えて社交界デビューしたら、君をダンスに誘うよ」


 僕との約束などで彼女が前を向く理由になるわけもないとわかっていたが、どんな些細なことでもいいから彼女が未来を意識してくれるきっかけを作りたかった。


「……そうね。歩けるようになっていれば、きっと」


 少女はやっぱり幼さに似合わぬ諦念を滲ませて、静かに微笑んだ。


 彼女もきっと、僕と同じひとりぼっちなのだろう。火傷の傷に覆われて、誰も彼女の心に触れられないのだ。


 もっと話をしていたいと思ったが、少女の侍女がこちらに駆け寄ってくるところだった。これ以上ここにいたところで、侍女に不審者扱いされるだけだ。


「それじゃあ」


「ええ。これ、どうもありがとう。汚してしまってごめんなさい。――親切なあなたに、精霊エルヴィーナの祝福がありますように」


 少女の血のついた手巾を受け取り、その言葉を最後に別れる。侍女に何かを言われながら中庭から去っていく少女の姿を見送り、手巾を握りしめた。


 誰かに祝福を祈られたことなんて、今までになかった。僕はずっと、災いをもたらす双子の忌み子だと、罵られてきたから。


 他愛もない祈りの文句なのに、とくん、と胸が温かくなる。


 ……君も、歩けるようなればいいな。


 言えなかった祈りを、心の中でそっと呟く。


 僕が精霊エルヴィーナに誰かの幸福を願ったのは、これが初めてのことだった。


 ◇


「ソルさま、お手紙が届いております」


 死んだはずの妹から手紙が届いたのは、それから半年ほど経ったころのことだった。


 生まれた日に殺されたはずの妹は、彼女を憐れに思ったひとりの女性使用人によって屋敷から連れ出され、ソフィアという名前をつけてもらい、街で暮らしていたらしい。今は風邪を拗らせて海辺の療養所へ入院しているようだが、王都の外から手紙を送ることができるこの機会に、僕に連絡をとってきたようだった。


 母に知らせればどれだけ喜んだことだろうと思うが、残念ながら手紙が届くひと月前に母は帰らぬひととなっていた。その旨を手紙に記し、妹という言葉は使わずに生存を喜ぶ内容の手紙をしたため、送り返した。


 双子の妹が生きていたという事実は、僕の心をずいぶんと軽くした。ひとりぼっちで生きてきたと思っていたが、片割れは力強く同じ街で生きていたのだ。会いたくてたまらなかった。


 何度か手紙をやりとりしているうちに、妹とはすっかり打ち解け、冗談も交えて手紙を書くようになった。


 そのころから、妹の手紙には彼女の友人だという少女からの手紙が同封され始めた。療養所で知り合った同年代の少女で、火傷の治療と体を動かす訓練のために入院しているのだという。素直ではないが心優しい少女で、ソフィアにもとても親切にしてくれているそうだ。


 その少女こそが、あの日僕が神殿で出会った、レヴァイン侯爵令嬢だった。


 運命的な巡りあわせを感じ、僕は喜んで文通を始めた。


 ……名前は、エステルというのか。


 あの日神殿で聞きそびれた彼女の名前を知ったときには、胸が温かくなった。


 エステルにとってこの手紙は、きっと手を動かす訓練の一端に過ぎない。おそらく妹に促されて始めただけの文通なのだろう。


 それでも、回数を重ねるごとに文字の揺れが小さくなり、流れるように整った筆跡に変化していく様を眺めるのは、間近で彼女の回復を見届けているようでなんだか嬉しくなった。


 ――あなたとの文通は、療養生活の大きな励みになっています。あなたは何がお好きでしょうか。お休みの日には何をなさるのでしょうか。お話ししてみたいことがたくさんあります。あなたのようなお優しい方ならば、醜い私を蔑むこともないでしょう。いつか、ソフィアとともにお目にかかれる日を夢見ております。


 社交辞令だったとしても、彼女の穏やかな言葉選びや文字を見ることができるだけで嬉しかった。


 エステルからの手紙は一通残らず大切に保管し、彼女が療養所を退院するまで頻回に文通を重ねた。妹との関係を疑われないために、名乗ることができなかったことだけが残念だ。


 敬虔な信者である彼女は、僕とソフィアが双子だと知ったらきっと幻滅するだろう。その考えがよぎるたびに胸を締めつけられたが、こちらからあの魅力的な少女との縁を絶つなんて発想はまるでなかった。

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