第3話 再会と初恋
それから、数年。
グロリア子爵家と縁の深い家門が主催する夜会を中心に社交界に顔を出すようになった僕は、いつでもエステルの姿を探していた。
ソフィアの手紙によれば、エステルは杖を使って歩けるようになったと言っていた。療養所を退院したあとの彼女の情報はまるで入ってこなかったが、いずれレヴァイン侯爵令嬢として社交界デビューはするはずだと信じ、日々令嬢たちの噂話に耳を傾け続けた。
「ソルさま、ソルさまはいつご婚約者をお決めになるのです?」
「お兄さま方もご結婚されましたし、次はソルさまの番ですわよね」
母譲りの顔のおかげで、令嬢たちは僕とよく話をしてくれた。見てくれだけに釣られた彼女たちにはまるで興味は湧かなかったが、いつかエステルと再会した日に幻滅されぬよう、穏やかな紳士でいるように努めた。
「なかなかよい縁がなく、困っているところです」
曖昧な返事を返し、令嬢たちの輪から離れたところで、ふと燃えるような赤毛をした令嬢が腕に縋りついてきた。
「あら、それじゃあわたくしといい仲になりましょうよ、ソルさま」
鮮やかな赤の瞳に熱を滲ませて、令嬢は僕の肩に頭を預けてきた。
彼女はノーラン伯爵家の令嬢で、王太子殿下の婚約者筆頭候補と噂されているひとだ。
かつてその座はエステルのものだったが、エステルが火傷を負ったことにより、自然と王太子殿下の縁談は消滅したらしい。代わりに殿下の婚約者候補となったのが、このノーラン伯爵令嬢だった。
ノーラン伯爵令嬢は殿下というお相手が居ながら、僕のことをずいぶん気に入ったらしく、ことあるごとに誘いをかけては既成事実を作ろうとしてくる。
だが、はっきりいって迷惑でしかなかった。王家に嫁ぐ予定の令嬢と、誰が恋をするだろう。
「生憎ですが……恋人がいますので」
それとなくノーラン伯爵令嬢の体を引き離し、当たり障りのない微笑みを浮かべる。
以前、街でソフィアと会っていたところを他の令嬢に見られたときに、ソフィアのことを恋人だと紹介した。以来、僕に婚約できない恋人がいることは社交界の暗黙の了解のようになっている。
別に、珍しい話でもない。身分の問題で結ばれない相手を囲っている貴族令嬢令息は数え切れないほどいる。それに、「恋人」という家族からはいちばん遠い言い訳を使うことで、ソフィアを守る意図もあった。
「あら……それじゃあ」
ノーラン伯爵令嬢は、背伸びをして僕の耳もとに顔を寄せた。
「お金を出すから、愛人になってくれない? あなた、とってもわたくし好みの顔をしているのだもの。手もとに置いておきたいわ。……グロリア子爵家の財政状況は、殿下から聞いているのよ?」
まとわりつくような甘ったるい声に、ぞわりと皮膚が粟だった。
グロリア子爵家の財産が底をつきかけているのは確かだ。愛人たちに湯水のようにお金を使う父のせいで、兄が爵位を継ぐころには借金しか残らないだろう。
だからと言って、令嬢と愛人契約をして金を都合するほど、僕はあの家に執着がない。
むしろ、父が亡くなった暁には家を出て行こうと考えていた。ソフィアとふたりで素朴な暮らしを送るのもいい。貴族でなくてもいいから、平穏な暮らしが送りたいのだ。
「……今の話は、聞かなかったことにしますよ。ノーラン伯爵令嬢」
微笑みの中にわずかな蔑みを溶け込ませて、ノーラン伯爵令嬢の前を去った。絡みつくような視線を背中に感じたが、相手にする必要はない。
親しい家門の人々と当たり障りのない会話をして、広間の中を練り歩く。どこぞの家の夫人が不倫しただとか、使用人が不審な死に方をしただとか、華やかな夜会にはふさわしくない暗い噂話が飛び交っている。綺麗に飾り立てたところで、社交界なんてこんなものだ。
「ねえ、ご覧になって」
「ああ、あの方が」
ふと、令嬢たちを中心にくすくすと嘲笑が湧き上がるのを見て、彼女たちの視線の先を追う。
波のように渦巻く大きな悪意の先に、僕が長年探し続けたそのひとはいた。
「……エステル」
社交界では面識のない侯爵家の令嬢を、僕ごときが呼び捨てにするなんて許されるはずもない。だが、心の中で焦がれていた相手を見つけた嬉しさで、気づけばささやくように口走っていた。
エステルは、深い紺碧のドレスを纏い、宝石の散りばめられた杖をついて広間の隅に佇んでいた。ベールで顔を隠し、分厚い絹の手袋をつけているのは、おそらく火傷の古傷を隠すためなのだろう。
「あれが噂の【傷痕姫】ですか。憐れな姿ですね」
「幼いころは、それはすばらしい美貌の持ち主だったのに、残念ねえ」
「まあでも、血は焼けていませんから。彼女と結婚すれば美しい子が生まれるのでは?」
「まあ、下世話なお話ね」
くすくす、くすくすと漣のような嘲笑が彼女を取り巻いている。彼女は放火犯によって火傷を負った被害者なのに、まるで大罪を犯した魔女を前にしているかのような悪意がそこかしこに満ちていた。
「っ……」
耐えきれず、思わず人々の間を縫うようにしてエステルに接近する。冷たい笑い声に包まれ、身を縮こまらせている彼女は、僕が近づいていることにもすぐには気づかなかった。
「あの……レヴァイン侯爵令嬢」
僕が文通の相手だと言うことはできない。けれど、数年前に神殿でいちどだけ会ったことがあると伝えることはできるはずだ。彼女はあのときの約束を覚えているだろうか。
期待と緊張で胸を高鳴らせていると、エステルはうつむいたまま、僕のほうを見向きもせずにくるりと踵を返した。
「――悪いけれど、知りあいではない方とはお話ししないことにしているのです。事業のお話であれば、父に直接ご相談ください」
慣れたそぶりで彼女はそう断ると、杖をついて必死に僕から離れていった。まるで、危害を加える者から逃れようとするかのように。
追いかけることなど、できるはずがない。他人だと言われてしまえば、それ以上何も弁明できなかった。
何せ僕と彼女はいちど顔を合わせたことがあるだけの、知り合いとも呼べない関係であることは確かなのだから。
そもそもグロリア子爵家の末の息子である僕が、名門のレヴァイン侯爵家の令嬢に話しかけること自体、おこがましいことなのだ。
……覚えている、わけないよな。
僕は文通の相手がエステルだと知っているから、あの約束を特別に思っていただけだ。エステルは覚えていなくても当然だろう。勝手にここからエステルとの関係を始められると夢見ていた自分が、恥ずかしくてたまらなかった。
彼女の心に「ソル・グロリア」という人物はひとかけらも存在しないのだという事実が、重く、暗くのしかかる。思わず、目頭が熱くなるほどに。
……僕は、馬鹿だな。
このときになってようやく、僕はずいぶん昔から、エステルに恋をしていたのだと気がついた。
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