第4話 君の不幸は僕の幸福
それからは、遠目にエステルを眺める日々が続いた。彼女はいつでも広間の隅に佇んでいて、帰宅しても失礼とされないような時刻になった途端に姿を消してしまう。
どうやら、好きで人前に姿を出している訳ではないようだ。侯爵家の令嬢として、最低限の務めを果たすために夜会に顔を出しているのだろう。
エステルは、いつでも杖をついていた。雨が降っている日には、足を庇うように歩いていることもある。ダンスをしているところは見たことがない。その様子を見て、あの日神殿で交わした約束はまだ誰にも奪われていないのだと、仄暗い充足感を覚える自分が嫌になった。
そう、そもそも僕は心根の優しい彼女と釣り合うような綺麗な人間ではないのだ。公の場では紳士を演じているけれど、僕は精霊を信じてもいない。世の中すべてを恨むような、祝福の外側にいる人間なのだ。
エステルに逃げられたことが思ったよりも尾を引いているのか、もういちど声をかける勇気はなかなか湧いてこなかった。代わりに彼女を細かく観察しては、彼女の仕草やわずかに聞こえた美しい声を記憶に留めることばかり繰り返していたのだから、我ながら気色が悪いと思う。
……どうすれば、怯えられずに近づけるかな。
彼女との縁談を打診できるほど、グロリア子爵家に力はない。エステルの友人を通してきっかけをつくる、なんて健全な方法も思いついたが、いつでもひとりぼっちの彼女にはそれも難しそうだ。
……直接、話してみたいな。
文通のときのような穏やかな言葉を、エステルの口から直接聞いてみたい。彼女の声を心ゆくまで堪能したい。
いつか手紙でエステルは、僕が何が好きで休日には何をしているのか聞いてくれたが、僕のほうこそ知りたかった。
……いっそエステルを調べるために人を雇うか? 流石にそれはまずいだろうか。
紳士の風上にも置けない発想に心が毒され始めたころ、その夜はやってきた。
その日、僕はたまたま令嬢たちに連れていかれるようにして広間を後にするエステルの姿を見てしまった。
友人同士で会話を楽しむために席を外す令嬢たちの姿は珍しくはないが、エステルに限っては異常自体だろう。なにせ彼女を連れていった令嬢たちはエステルのことを「傷痕姫」と罵り噂する類の少女たちなのだから。
慌てて後を追おうとするも、令嬢たちや縁のある家門の貴族たちに捕まってしまい、思うように進めない。
どうにか広間を抜けたころには、先ほどエステルを連れていった令嬢たちがけたけたと品のない笑い声を上げながら、バルコニーから出てくるところだった。
令嬢たちと鉢合わせないように身をひそめ、まだエステルがいるであろうバルコニーへ近づく。眩いほどの月影が、バルコニーから差していた。
その銀の光の中に、エステルはいた。バルコニーの柵から、身を乗り出すような姿勢で。
「レヴァイン侯爵令嬢!?」
思わず彼女の背後から抱きつくように細い体に腕を回して、無理やり引き寄せる。すぐに彼女はよろめいて、僕の胸に頭を預けるようなかたちになった。
……まさか、死のうとしていたのか?
密かに恋焦がれていたひとを失っていたかもしれないという恐怖に支配されて、ばくばくと心臓が暴れ出す。
「何をなさっているのですか!? そんなに身を乗り出しては危ないでしょう! もっと御身を大事になさってください!」
自分の焦りをそのままぶつけるような、荒々しい声が出た。エステルに話しかけるときにはとびきり優しい言葉を選ぼうと思っていたのに、ぜんぶ台無しだ。
彼女の肩に手を乗せて、くるりと体の向きを変えると、薄いベール越しに何度も瞬きをする様子が見えた。
怯えているのか驚いているのか、いずれにせよ小動物のように可愛らしい姿に、一瞬我を忘れてくちづけたい衝動に駆られる。
……落ち着け。ここで間違えたらすべて終わりだ。
静かに何度か深呼吸を繰り返して、あたりを見渡す。様子を確認するためというよりは、いちどエステルから視線を外して心を落ち着けたい意図のほうが大きかったかもしれない。
「どうしてあのような危険な真似をなさっていたのですか? 侍女はどこです?」
当然、遠くから侍女がついてきているものと思っていたのに、気配すらない。思えば初めて出会った日も、彼女は侍女にぞんざいに扱われていた。
……侯爵は何をしているんだ。
エステルを蔑ろにする人間をそばに置いておくなんて、とても許せない。僕に権限があれば、彼女を軽んじた使用人はすべて、紹介状も持たせずに全員追い出すのに。
エステルはしばし迷ったように視線を泳がせてから、そっとバルコニーの外を見つめた。
「杖を……落としてしまって。様子を見ていただけですわ」
エステルの視線を追うようにして、バルコニーの外を覗く。すぐに、地面の上に月光をきらきらと反射する何かがあることに気づき、遅れてそれが彼女の杖だと察した。頑丈そうな杖だったのに、真ん中から折れている。
……落としただけでああなるだろうか。あの令嬢たちの仕業か?
もし、彼女たちがエステルに危害を加えていたのだとしたら、到底許せそうにない。どんな目に合わせるのが妥当だろうか。
暗い気持ちに心が支配されかけたが、エステルの前だと自分に言い聞かせ、必死に紳士を演じる。
「……悲しい想いをされましたね。大切にしていらしたでしょう?」
「……別に、そんなことは」
エステルは軽く顔を逸らして、つんとした口調で言い放った。ベールがあるせいで、彼女の表情がよくわからないのがもどかしい。
「杖の状態を見ていればわかります。よく手入れされていましたから」
そう告げた瞬間に後悔に襲われた。これでは、夜会に出るたびにエステルを眺めていたと知られてしまうではないか。
現に、エステルは不審そうに僕を見上げた。ベール越しにもわかる美しい碧の瞳と目があって胸が弾んだが、それどころではない。慌てて笑みを取り繕い、言い訳を続ける。
「知り合いが、杖の職人でして……レヴァイン侯爵令嬢の見事な杖には、思わず目を奪われていたものですから……」
職人として働いているソフィアを思い浮かべながら、苦しい言い訳をする。冷や汗をかくほどに緊張したが、エステルはくすりと涼しげな微笑みを浮かべた。
「っ……」
まるで僕の心の揺らぎを見透かしているようにも思えるその笑みに、息を呑む。
できることなら、ベールを取り払って直接眺めたかった。彼女になら、その笑みひとつで理不尽に振り回されてもすべて許せてしまうような気がする。
「……事情はおわかりになったでしょう? ご心配いただくようなことはありませんわ。どうぞ、会場にお戻りになって」
エステルは興味をなくしたように僕から視線を背け、明らかに会話を終わらせようとしていた。
駄目だ。せっかくエステルと直接話すことができたのに、これきりにしてはいけない。
「しかし……杖がなくては移動に不便でしょう」
必死に会話を続けようと試みるも、彼女の反応は変わらなかった。
「待っていれば、そのうち侍女が参りますから」
彼女の言う通り、いずれは侍女が迎えにくるのだろう。初めて会ったあの日のように。
だが、ここで引き下がってしまえばこの拗れた初恋が終わってしまうのは目に見えていた。
意を決して、彼女との距離を詰める。
「……レヴァイン侯爵令嬢、ご無礼をお許しください」
彼女の背中と膝裏に腕を差し込み、ふわりと抱き上げる。驚くほどに細く軽い体だった。
「グロリア子爵令息……」
驚いたようなエステルの声に、胸が熱くなる。
……僕を知っていてくれたのか。
社交界に出るための知識として知っていただけだとしても、こんなに嬉しいことはない。喜びを噛み締めて、すぐに紳士の仮面を被った。
「このまま夜風にあたっていてはお体に障ります。よろしければ、僕に馬車まであなたをお送りするお許しをいただきたい」
抱き上げているせいで、先ほどよりもずっと近くでエステルと目が合った。
ベール越しでもわかる、遠い海のような繊細な色合いの碧い瞳に、思わずうっとりとしてしまう。何より、その瞳に僕が映り込むほどの距離にいられることが夢のようだった。
エステルはしばし迷うようなそぶりを見せたが、効率を優先したのかひと言だけ呟いた。
「……ありがとう。助かります」
「よかった。ゆっくり歩きますから、不都合があったらおっしゃってください」
彼女が頷いたのを確認して、そっと歩き始める。
ひとけのない廊下を選んで、殊更にゆっくりと歩いた。彼女の体を気遣っているというよりは、きっとこの夢のような時間を一秒でも長く味わいたいという己の浅はかな欲望故の行動だった。
エステルからは、花と石鹸の優しい香りがした。同じ女性でもソフィアからはこんな匂いはしない。きっとそれだけエステルが特別なひとなのだろう。
……このまま連れ去ることができたらな。
だがそんなことをしたところで、僕が望むように彼女が言葉を聞かせてくれる日は来ないことはわかっていた。望みを叶えたければ、僕は彼女に釣り合う紳士でいなければならない。
廊下を抜け、門まで歩いたところで侯爵家の紋章が描かれた馬車が視界に入った。彼女との夢のような時間は、ここでおしまいのようだ。
馬車の座席にそっと彼女を下ろし、絹の手袋に包まれた指先にくちづける。布越しにも伝わる彼女の手の温もりが、愛おしくてたまらない。
「レヴァイン侯爵令嬢、よろしければ杖のことは僕にお任せください。……どうかゆっくり休まれますよう」
エステルは驚いたように僕を見ていた。答えを待てば断られてしまいそうで、にこりと微笑みを送って馬車から降りる。すぐに御者が扉を閉め、馬車を動かした。
遠ざかる侯爵家の馬車を眺めながら、ひとり笑みを深める。
この好機を、ものにしてみせる。エステルにとっては悲しい事件だったが、僕からしてみれば聖霊からの贈り物のような、祝福と言うべき出来事だった。
……ああ、本当に僕は最低な男だ。
いくら優しい紳士のように振る舞っても、恋慕うひとの不幸を好機と喜ぶ心の醜さは変わらない。慈愛に満ちた清廉な彼女には到底釣り合わない人間だと自覚しながらも、諦める気にはなれないのだから、我ながらたちが悪かった。
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