第5話 契約
それから数日して、レヴァイン侯爵家からエステルを馬車まで送り届けたことに対するお礼の手紙と贈り物が送られてきた。父は名門貴族家からの心遣いを大層喜んで、「このままレヴァイン侯爵令嬢をものにしてみせろ」と品のない命を下してきたが、軽く受け流しておいた。
お礼の品はともかく、レヴァイン侯爵にグロリア子爵家の存在を意識してもらえたのは僕にとっても悪い話ではない。エステルともういちど会える日を夢見ながら、僕はソフィアのもとへ通い詰め、エステルの杖の修理に尽力した。
「よかったわね、長年の恋に進展がありそうで」
杖に埋め込む宝石を磨き上げながら、ソフィアが笑う。バンダナで前髪を無造作に上げて、顔に汚れがつくことも厭わずに作業に没頭する姿は、いかにも職人らしい。
「エステルがすこしだけ笑ったんだ。本当に綺麗だった……素直じゃない言葉もまた可愛くて……ソフィアにも会わせてあげたかったよ」
「はいはい。できればソルのいないところで会いたいわね。実の兄のだらしない顔なんて見たくないし」
長年エステルの話をしているせいか、ソフィアはどこかうんざりしたように相槌を打つ。会話をしている間にも宝石をひとつ磨き上げたようで、杖に埋め込む前の最終調整をしていた。
「こんな感じでどう? ルビーの赤が映えて綺麗だと思うけれど」
「そうだな……エステルは神殿に通い詰めるような敬虔な信者なんだ。あまり派手になりすぎないほうがいい。だからむしろ、これはこっちのほうに……」
ああだこうだと話し合いながら、エステルの杖を作る時間は楽しかった。ソフィアもエステルのことはずっと気にかけているようだったから、楽しんで取り組んでいるようだ。
ひと月をかけて完成した杖は、すぐにレヴァイン侯爵家に届けにいった。
「君がグロリア子爵家のソル殿か。娘から話は聞いているよ」
侯爵はエステルとはずいぶん印象の違う、快活な紳士だった。名門家の令嬢に取り入ろうとしている貧乏貴族と思われてもおかしくないのに、侯爵は心から僕を歓迎してくれた。
「知り合いの職人に修理をさせました。杖自体は新しいものに変え、もともと使われていた宝石たちはひとつ残らず使いながら新たな意匠に仕上げてあります」
ソフィアの名前を出せないのがもどかしい。使用人を介して杖をエステルに渡すと、彼女はまじまじとそれを眺め、やがて杖を片手に立ち上がった。懸念していた長さは問題ないようだ。
「美しい杖だ……エステル、どうだい?」
侯爵は杖の出来栄えに感心しながら、甘やかすような笑みをエステルに向ける。火事があってから侯爵の溺愛はいっそう深くなったと聞いているが、その噂もあながち嘘ではないようだ。
「……とても気に入りました。どうもありがとう」
涼やかな声だけを聞けば喜んでいるのかどうか判別しがたかったが、そのままこつこつとあたりを歩き回る様子を見る限り、どうやらその言葉は本心のようだ。
ソフィアとふたりで頑張った甲斐があった。杖がエステルの手に握られているのを見るだけで、じんわりと胸が温かくなる。
「よければこれからも娘と仲良くしてやってくれ。娘も、君をずいぶんと気にかけているようだ。君のような紳士にならば、娘を任せられる」
侯爵は何度も頷きながら、僕とエステルを見比べていた。
まるで、暗に交際を認められたかのような発言だ。嬉しくて、たちまち顔が熱くなる。
「お父さま……そのようなこと、ソルさまに失礼ですわよ」
困惑したようなエステルの声も、侯爵は笑って跳ね飛ばした。
「恥ずかしがることはない、エステル。このあいだ彼に屋敷まで送り届けてもらったときには、ずいぶん嬉しそうにしていたじゃないか」
「お父さま!」
声に恥じらいを乗せて、エステルは抗議するように侯爵の言葉を止めた。
先ほどからずっと、嬉しくて頭の中がくらくらとする。
……あの日を、エステルはいい思い出として記憶してくれているのだろうか。
杖が折れた不幸があった夜なのに、それを塗り替えることができたのならどんなに嬉しいかわからない。
何より、僕の存在が不快に思われていないようで本当によかった。間違いなく、距離を縮められている。
このまま求婚してしまいたい気持ちをぐっと抑え、紳士の仮面を被ったまま侯爵邸を後にした。
それからは、途端に毎日が輝いて見えた。
杖のことがあったからか、エステルは夜会で僕に会うと軽く会釈してくれるようになった。もっとも、進展らしい進展はそれだけで、直接言葉を交わす機会はなかなかなかったが、密やかに微笑みを交わし合う関係がたまらなく嬉しかった。
退屈な夜会が至上の宴に変わるのだから、恋の力は偉大だ。贈った杖を使っていないことは気にかかったが、それ以上に彼女が僕を認識してくれていることが嬉しくて、すっかり舞い上がっていた。
……次は、夜会ではない場所で会いたいな。
レヴァイン侯爵にも覚えてもらったことだし、堂々とエステルをデートに誘う手紙を送っても問題ないだろう。そう思い、彼女を湖に誘う手紙を丁寧に認めては書き直す毎日を繰り返していた。
――よろしければ、晴れた日に僕と精霊エルヴィーナの湖へ出かけませんか。ご存知の通り宗教的に重要な湖ですが、近ごろは道も補整され、観光地としても賑わっているようです。エステルさまと湖畔を散歩して、お話しができたらどれだけすばらしい日になるだろうと夢見ています。
恋する気持ちがあふれたような文面になってしまったが、隠すこともないだろう。やっとのことで手紙を完成させ、あとは送るだけ、という状態まで準備が整ったころ――。
今まで距離を保っていたエステルが、夜会の途中で急に僕と接触してきたのだ。
「ソルさま……お話しが、あります。よければご一緒願えませんか?」
広間の隅で佇むだけだったエステルが、突然に僕に話しかけてきたことに周りの人々はざわめいていた。
「もちろん。……ちょうど僕もお話しがあったのです」
手紙を送る前に直接打診できるならそれに越したことはない。
浮かれたような気持ちのまま、彼女を連れて広間を出た。今日も、エステルの侍女はいないようだ。
エステルが僕を連れて向かった先は、ひとけのない中庭だった。よほどひとに聞かれたくない話らしい。噴水の前でくるりと僕に向き直ると、迷ったように視線を彷徨わせていた。
噴水の飛沫が、月影にきらきらと輝いている。その中に佇む彼女は、夜の精霊のように神秘的で、まるで一枚の絵画を見ているような心地になった。彼女になら、人の世ではない世界に誘われても喜んでついてくだろう。
エステルがしたい話とはなんだろう。弾むような気持ちで、彼女の言葉を待つ。待っている時間も楽しく思うほどに、彼女とふたりきりのこの時間が嬉しかった。
たっぷり数分間の沈黙ののち、エステルは意を決したように切り出した。
「ソルさま……ひとつ、提案があるのです」
「はい、なんでしょうか?」
彼女の声の美しさに胸を震わせながら、言葉の続きを待つ。彼女がしてくれる提案とは、いったいどんなものだろう。
エステルの視線が、すっと僕に向けられる。ベール越しにもわかる、意志の強いまなざしだった。
「ソルさま……私と、二年間だけ契約結婚をしてくださいませんか。対価は一日金貨一枚で」
エステルの美しい声が、そのまま胸に突き刺さるような心地がした。
契約結婚。対価。一日金貨一枚。
断片的な言葉だけが脳内を駆け巡って、うまく理解ができない。狼狽える僕に畳みかけるようにして、エステルは続けた。
「噂を……お聞きしたのです。あなたは金貨一枚をお渡しすれば、一日相手をしてくださると」
それは、ノーラン伯爵令嬢の誘いを断った直後から流れ始めた噂だった。
もちろんそんな事実はないので、おそらくはノーラン伯爵令嬢が復讐のつもりでそのような話を令嬢たちに伝えたのだろう。言わせておけばいい、と放置していたつけがこんなところで回ってくるなんて。
「何も、あなたの心や体を望んでいるわけではありません。父が、私の知らない方との縁談を用意する前に……公の場で夫の役目を務めてくださる方を探しているのです。二年が経てば、後腐れなくお別れできるような方を」
父や兄たちにどんな暴言を吐かれても平気だったのに、エステルの言葉は容赦なく心のいちばん柔らかな部分を抉っていった。僕が数年かけて積み上げてきた恋心に、ぐさぐさと刃を差し込んでいくようだ。
「一日一枚の金貨とは別に、働きに応じてお礼のお金も包ませていただきます。もちろん、契約結婚生活にかかる費用はすべて私が持ちます、自由にしたい日もあるでしょうから、適宜ご相談いただければお休みの日も調整いたします。……いかがでしょうか」
まるで仕事の打ち合わせをしているかのような、淡白な言葉だった。彼女が僕になんの感情も抱いていないことが痛いほど伝わってくる。
……そうか。僕は彼女にとって都合がいい存在なんだな。
彼女が結婚したがらない理由はよくわからないが、縁談よけの夫として僕に白羽の矢が立ったことにはある程度納得できる。
貧乏貴族の令息で、お金で一日時間を買うことができるという噂があって、まさにうってつけだ。加えてレヴァイン侯爵も僕のことを気に入ってくれている。対外的にも受け入れられそうな相手となれば、まさに僕がちょうどいいのだろう。
「ご無理を申し上げていることは承知しています。けれど――あなたしかいないと思ったのです」
……ああ、その言葉を、もっと別の意味で聞きたかったな。
僕は今、紳士らしい穏やかな笑みを取り繕えているのだろうか。思わず目尻に触れて涙を流していないことを確認してしまうくらいには、心の中で泣いていた。
……契約ではなく、あなたと本当の夫婦になることはできませんか。
そんなことを聞けばきっと、彼女はたちまち僕を見限るのだろう。
彼女は後腐れなく二年で別れられる相手を探しているのだ。僕が彼女に特別な感情を抱いていると知られてしまえば、真っ先に候補から外されるに決まっている。好きでもない男に執着されかねない契約結婚なんて、望むはずがなかった。
「……わかり、ました。その条件で、お受けしましょう」
心が落ち着くより先に、言葉だけが先走る。これしか彼女のそばにいられる方法がないというのなら、縋りつくしかなかった。
「ありがとうございます、ソルさま。本当に、感謝いたします」
エステルは、今まで聞いたこともないような晴れやかな声で告げた。
これが、彼女から本当の求婚を受けた後の光景だったら、どんなによかっただろう。「契約結婚」が成立したことを喜ぶ笑みだと思うと、彼女に蔑まれるよりなお深く、心をぐちゃぐちゃに傷つけられるような気がした。
それでも、嬉しそうに契約を詰める日取りのことを話し始める彼女を見ていると、心のどこかで気持ちが弾んでしまう。これ以上ないほどこの恋は実らないことを彼女自身に思い知らされてもなお、初恋はしぶとく心に絡みついているらしい。
……諦められないなら、足掻くしかないか。
深呼吸をして、心の奥で決意を固める。
契約が終わる二年後に、今度は僕から求婚しよう。
それまでに、彼女の心を射止める努力を続けるのだ。叶わなくとも、この二年はきっと僕にとって宝物のような日々になる。
……二年もあれば、きっと何かが変わるはずだ。
そうでも言い聞かせなければ、とてもまともな状態で二年間を過ごせるとは思えなかった。
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