第6話 呪いの言葉

 それからまもなく始まったエステルとの偽りの新婚生活は、夢見ていた以上に幸福なものだった。それこそ、これが「契約」であると忘れるほどに。


 侯爵に用意してもらった新居には、自分の目で選び抜いた使用人だけを配置することにした。そのほかにもエステルの普段着や調度品を見繕い、いつか彼女にしてあげたいと思っていたことを密かにやり遂げた。


 エステルの態度も、想像以上に柔らかなもので、僕たちは実にうまくやっていたと思う。サラにはソフィアの存在が知られたあたりから冷たく接されるようになっていたが、それだけエステルに忠実な侍女を選べたのだと思えば却って誇らしかった。


 エステルの日々は、ほとんど代わり映えがない。趣味らしい趣味といえば写本をすることで、毎日のように神殿に赴いて祈りを捧げ、孤児院に支援をし、家の中でじっと過ごしている。一日一日を大切にするように穏やかに過ごす彼女を見ているだけで、幸せな気持ちになった。


 日を追うごとに、エステルを好きになる。そして恋心が募ったのを見計らうように、エステルの手で想いをぐちゃぐちゃに壊される。その繰り返しだった。


 触れただけで怯えたように逃げる姿も、幸せそうに大神官と喋る笑顔も、至って平静にソフィアを屋敷に連れてきたときも、彼女の行動のどれもが僕の心をめちゃくちゃにした。


 ……本当に、エステルは僕に好意のひとかけらも抱いていないらしい。


 もちろん、同居している相手に対する情だとか親愛のようなものを感じることはあるが、僕が望む鮮烈な恋情を思わせるような言動はいちどもなかった。


 いっそ彼女には恋心がないと言ってくれたほうが救われるのだが、大神官と会話する姿を見ている限りそうでもないようだ。


 ……エステルは、あの神官が好きなんだろうな。


 神殿を訪れるたび、必ず言葉を交わす黒髪の神官とエステルを見ていると、その結論に至るのは容易かった。


 エステルは彼にだけ、すべてを委ねているような気がする。僕には入り込めないふたりの世界が、確かにあった。


 エステルが結婚したくないのは、彼のためなのかもしれない。この国の神官は妻を持たない。絶対に結婚できない恋人がいるからこそ、縁談よけのために僕という契約上の夫を作ったのかもしれなかった。


 ……やはり精霊エルヴィーナは好きになれそうにもないな。


 僕から平穏な幼少期を奪っただけでなく、唯一思い慕った女性の心までも神官のものにするなんて。残酷にも程がある。


 エステルの心は、きっと手に入らない。彼女を好きになるたびにその予感は強くなり、一年が経つころにはほとんど確信に変わっていた。


 その事実は確実に僕の心を黒く染め上げていたが、それでも必死に理性は保ち続けた。


 たとえ想いが叶わなくとも、エステルにとっての悪夢にはなりたくない。せめて二年間生活を共にした隣人として、彼女の心の隅に留め置かれる存在でありたい。


 彼女にとって「悪くない二年間だった」という気持ちとともに思い出されるのが僕なら、それでいい。彼女の輝かしい思い出の一部になれるなら、そんなに光栄なことはない。


 だがその想いも、彼女が計画していた「精霊の微睡」によってすべて打ち砕かれた。


 彼女はずっと、死ぬつもりで今日まで生きてきたらしい。僕と出会ったころには既にその意志を固めていて、穏やかな趣味だと思っていた写本も死ぬための準備でしかなかったようだ。


「精霊の微睡」は信者を導いた大神官と共に行う。つまりエステルは、あの黒髪の大神官とともに死ぬつもりなのだ。


「あなたたちと関わったのは、都合がよかったからよ。――お金で解決すれば、後腐れがないもの」


 泣きじゃくるソフィアと、打ちひしがれる僕の前で、エステルは淡々とそう言い放った。


 まるで、わかりきった事実を確認するかのような、ためらいのない口調で。


 そのひと言で、積み上げてはエステルに壊され、必死に修復してきた恋心が、完全に破壊されるのがわかった。


 ……そうか、そうだよな。エステルにとって僕は、契約相手でしかないただの貴族令息だ。


 偽りの結婚生活を始めたころよりは、彼女の心に近づけたと舞い上がっていた自分が滑稽でならない。彼女はずっと死ぬつもりでいたのに、どうして僕を気にかけてくれているなんて勘違いができたのだろう。


 初めて出会ったあの日から既に、彼女は死ぬつもりでいたのだ。僕との出会いも、そこから積み重ねた日々もすべて、彼女にとっては死ぬまでの空白の日々に起きた瑣末な出来事に過ぎなかった。


 虚しい、なんて言葉では到底言い表せない。足もとから何もかもすべて、崩れ落ちていくような感覚だった。


「……お騒がせしたわ、ソル。驚かせて悪かったけれど、そういうことだから……。その、ソフィアとはなんとかもういちど話しあってみるわね」


 ソフィアを部屋から出したあと、エステルは何を思ったのか取り繕うようにそう笑った。


 僕がどれだけ打ちひしがれているのか――いや、打ちひしがれていることにすら気づいていないようなその笑みを見て、必死に繋ぎ止めてきた理性の糸が、ぷつりと切れる。


 それからは、散々だ。彼女を無理やり寝台の上に押し倒して、数年分の恋心をぶつけるように乱暴なくちづけをした。ベールを破き、手袋も取り払って、彼女が隠したがっていた古傷もすべて暴いた。


 もう、どうなってもいい。どうでもいい。


 死ぬくらいならば、この先の時間はすべて僕がもらう。たとえエステルにとって僕と生きていくことが死ぬよりつらいことだったとしても、手放す気はない。誰がなんと言おうと、エステルは僕のものだ。


 ……なんだ。簡単なことだったな。


 息も絶え絶えになり、涙目でこちらを見上げるエステルを見つめ、ひとり笑みを深める。


 心を手に入れることを諦めてしまえば、彼女をひとりじめすることがこんなにも容易いなんて。


 ……もっと早くこうすればよかった。


 抗議の声を上げるエステルの唇をもういちど塞ぎ、血と涙の味を心ゆくまで味わう。


 もしもエステルとくちづけを交わせる日が来たら、壊れものを扱うように繊細に、どこまでも優しく触れようと決めていたのに、今の僕のやっていることはその正反対だった。きっとエステルは僕に怯えて、二度と心を開いてくれないだろう。


 ……でもいい。それでいい。君が手に入るならもうどうでもいい。


 寝台に押しつけた彼女の手に指を絡め、自嘲気味に微笑む。


 怯えたような碧の瞳の揺らぎを悦びながら、彼女の耳もとで呪いの言葉を囁いた。


「――未来永劫、君は僕のものだ。エステル」

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