第六章 囚われの日々
第1話 閉ざされた部屋の中で
さらさらと、髪を撫でられる感覚に身じろぎをする。微睡むような浅い眠りの中から、ゆっくりと目を覚ました。
何度か瞬きを繰り返せば、すぐに銀の煌めきが視界に飛び込んできた。朝日を浴びたソルの髪だ。
「エステル、起きた?」
長い指が、くすぐるように頬を撫でる。だんだんとはっきりしてきた視界の中で、ソルが翳った瞳で甘やかに微笑んでいた。
一見すれば幸せな夫婦の朝なのに、ソルの瞳の暗さが私の置かれている現実を物語っている。暗い深紫の瞳からふっと視線を逸らすと、影が落ちてきて、彼の唇が頬や首筋に触れた。
「……今日はどんな夢を見たの? 夢の中くらいは自由にさせてあげたいけど、気になるな」
くすぐったさに軽く体をひねると、今度は唇にくちづけられた。傷を隠すこともできず、じっとソルを見上げることしかできない。
「……ああ、これじゃあ答えられないね? ごめんごめん」
くすくすと笑いながらも、ソルは私の頬や首筋へのくちづけを続けた。彼はなんてことないように繰り返しているが、いちいち頬が熱くなってしまって困る。
あれからソルは、私に部屋の外へ出ることを禁じた。神殿への礼拝も例外ではない。
……もう、十日くらいになるのかしら。
これほど長い間礼拝へ行かなかったのは、生まれて初めてのことだった。敬虔な信者であることが条件の「精霊の微睡」を受けるのは、既に絶望的かもしれない。
礼拝に行けないだけではない。ソルは私に、文字を綴ることも禁じた。部屋の中からは鋭利なものや長いりぼんなどはすべて撤去され、がらんとしている。そういうものがあると、私が自ら死のうとすると思い込んでいるらしい。
対外的には、私は体調がすぐれず療養していることになっているようだ。それを理由にして、ソルもできる限り屋敷にいるように予定を調整している。父や商会の人々からはさぞかし愛妻家に見えていることだろう。
用意されたお湯を使って顔を洗い終えると、ソルが薬の小瓶を持って私を待っていた。
「エステル、朝の薬を塗ろうか」
屋敷に幽閉されるようになってからというもの、ソルはレヴァイン商会の伝手を利用していくつかの塗り薬を入手してくれた。中には外国から取り寄せたものもまじっていて、火傷などの古傷を薄くする効果があるそうだ。
私が死を決意するほどに古傷を気にしていることを知って、準備してくれたのだろう。強引な手段で私を屋敷に閉じ込めるようになったあとも、ソルは基本的にどこまでも優しい。
ソルに促されるがままに寝台の上に座り込み、大人しく薬を塗られるのを待つ。
ここで抵抗すると、息が苦しくなるほどくちづけられるだけなので、じっとしているほうがいい。別にくちづけが嫌なわけではないが、朝から激しくくちづけられると一日中ぐったりとしてしまうので、できれば避けたいのだ。
「瞼を閉じて。……そうそう、いい子だね」
ソルの言葉に従ってまつ毛を伏せると、すぐに左目の周りに彼の指が触れた。
もう何度も繰り返している行為なのに、彼はいつも恐る恐ると言った様子で傷に触れる。まるで触れるたびに痛みが生じることを恐れているような手つきだ。もう何も、感じない傷なのに。
「次は手に塗るよ」
その言葉と共にソルに左手を握られ、引きつれたような古傷の上に薬を塗られる感触があった。ゆっくりと瞼を開けて確認してみれば、繊細な手つきでソルが薬を塗っている様子がわかる。さすがはソフィアの双子の兄というべきか、彼もずいぶんと手先が器用なようだ。
「……脚にも塗るね」
ソルは寝台の上で私の左脚を伸ばすと、そっとネグリジェの裾を捲った。古傷は爪先から太腿にかけて広がっている。
ここに薬を塗られるのがいちばん抵抗がある。本来であれば、一生誰にも見せなかったはずの傷だ。
「……自分で塗れるわ」
ばくばくと暴れ出した心臓の動きに耐えきれず、今日も申し出てしまう。どうせソルは、私にはさせてくれないとわかっているのに。
「エステルは何もしなくていいんだ。僕が傷痕をどうにかするから、それまで君はじっと待っていてくれればいい。大丈夫、きっとすぐだよ。――すぐに、死にたいなんて気持ちは消してあげるから」
ソルは今まで通りを装って、至って穏やかに告げた。だが、翳りきった紫の瞳が、彼の心の状態が尋常ではないことを何よりも物語っている。
……わかっているわ。私が彼の心を壊したのよね。
彼が懸命に私の古傷に薬を塗り込む姿を眺めながら、絡みつくような罪悪感に囚われる。
彼の愛するひとは、ソフィアではなかった。聞けば、私がこの契約結婚の対価として先に渡していたお金にも、いっさい手をつけていないのだという。
つまり、彼が契約結婚を了承してくれた理由も、財政が傾いているグロリア子爵家を助けるためではないのだろう。ソルは私を踏み台にして幸せになろうとしているのだと思っていたのに、ぜんぶ私の思い違いだったということだ。
……どうやって償えばいいの。
この十日間、ずっとそればかり考えている。自分の勘違いでソルの自由を無理やり奪った上に、彼の厚意を踏み躙るような行いを何度もしてしまった。彼が満足するならばいくらでも屋敷の中でおとなしくしているが、私の古傷を消そうと躍起になっている彼を見ていると、このままではいけない気がしてならない。
「痛くない? 大丈夫? エステル」
過保護なくらいに私を気づかいながら、彼は大腿まで薬を塗り終えた。優しく触れてくれるから、くすぐったいくらいだ。
「ええ……平気よ」
薬を塗り終えれば、今度は着替えの時間だ。私を幽閉してからというもの、彼は私の身の回りの支度のすべてを自分の手でしたがった。
「今日は淡い檸檬色のワンピースにしたんだ。湖に行ったときのことを思い出すね。あの日のエステルは本当に可愛かったなあ……」
酔いしれるように呟きながら、彼は丁寧に私のネグリジェを脱がせ、ワンピースを着付けてくれた。彼に下着姿を晒すのは抵抗があったが、彼なりにあまり見ないようにしてくれているようだ。
「ソル……このくらい、私にさせて」
「言ったよね? エステル。君は何もしなくていいんだよ。煩わしいことは全部僕が代わりにやるから、君は静かに笑っていてくれればいい」
彼は私を辱めたいわけではなく、本当に私の世話をしたくてしてくれているのだ。
崇拝にも似た親切に、胸の奥がざわつく。なんだかじっとしていられなくなるような心地がした。
髪を丁寧に整えられ、どこにも出かけないのに髪飾りもつけられる。
ここまで完璧に支度を整えておきながら、彼は決して靴を用意しなかった。何重にも扉を閉ざし、おそらくは外に見張りも立たせているだろうに、それでもなお私が逃げ出して自ら死を選ぶことを恐れているのだ。
ここに閉じ込められて三日ほど経ったころに、「自ら死ぬ気はないわ」とソルに告げたことがある。だが彼は穏やかな笑みを崩さずに、軽く受け流すばかりだった。
――精霊の教えがあるから、きっとそうだよね。でも、僕が嫌なんだ。目を離したら、君を失ってしまいそうで。だから……ごめんね。
その弱々しい謝罪は、どんな枷よりも強く私を縛りつけた。
支度が整ったのを見計らうように、寝室と続き部屋になっている居室に食事が運ばれてくる。本来は食堂で摂るべきなのだろうが、部屋から出してくれないので仕方がない。
彼は軽々と私を抱き上げて食事の席につかせると、自身もすぐ隣に座った。
今日の朝食は温かなパンと野菜のスープ、ふっくらと焼き上がったオムレツのようだ。デザートには彩り豊かなフルーツがたっぷりと添えられている。
「おいしそうだね。一緒に食べようか、エステル」
そう言って彼は、自分のカトラリーを使って私のぶんのオムレツを一口大に切った。まるで子どもにするような振る舞いだが、私の前にはナイフが用意されていないので彼に頼るしかない。
彼は相当私の自死を警戒しているようで、初めはフォークすらも用意されていなかった。スプーンだけで食べられないことはないが、あまりにも不便でなかなか食事が進まず却ってソルを心配させてしまった。以来、彼と食事をともにできるときにはフォークが運ばれてくるようになったのだ。
正直、食欲はほとんどなかったが、まるで監視するように注がれる彼の視線を感じて、手を動かさないわけにはいかなかった。食べなければ食べないぶんだけ、また彼の瞳が暗くなるのだ。
「今日は何をしようか? 一緒に本を読む? 僕はすこしならピアノを弾けるんだけど、一緒に弾く? それとも宝石商でも呼んで、気晴らしをしようか?」
ソルは自分の時間を犠牲にしてまで、私と一緒にいようとする。彼とともに過ごせるのは私だって嬉しいが、胸を締めつけられるような息苦しさを覚えるのも確かだった。
……私のために、彼の何かを犠牲にしてほしくないのに。
精霊祭を明日に控えた今、ソルがやるべきことは山積みのはずだ。それらをすべて放り出して私と一緒にいるなんて、相当無理をしていることは明らかだった。
彼に自由になってほしいのなら、私が彼を安心させるべきなのだが、その術がわからない。何をすれば、彼のばらばらになった心を元通りに修復できるのだろう。
……いえ、元通り、なんてもう無理なのかもしれないわね。
何度、彼の親切と厚意を踏み躙ったかわからない。そのたびに彼はなんとか心を修復して、私に寄り添ってくれていたのだ。既にぼろぼろだった心に決定打を与えてしまった今回ばかりは、もうどうにもならないかもしれない。
……それでも、彼にはまた以前のような笑顔で笑ってほしいわ。
身勝手なのかもしれないが、今ではそれだけが私の願いだった。
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