第2話 ひとりぼっち

 朝食を終えたあとは、結局読書をすることにした。読みたい本などないが、他にすることもないので仕方がない。


 居室の大きなソファーで、ソルの膝の上に乗って一冊の本を読む。彼は私の視線の動きを把握しているかのように、滑らかに頁をめくった。


 今読んでいるのは、よく舞台にもなっている古典だ。使用人の娘として生まれた少女が針子になり、その腕を買われて王都で評判の職人にまで上り詰める。最終的には、貴族の令息に見染められて、幸せな結婚をするという話だった。


 まるでソフィアの人生を辿っているかのような物語に、以前読んだときよりも親近感を覚える。


 そっと、頭に飾られた銀の髪飾りに触れる。ソルが留めてくれたこれは、ソフィアの作品だった。


 幽閉生活が始まってからというもの、ソル以外の誰にも会っていない。ソフィアにも、サラにも、いちども顔を合わせていないのだ。


 特にソフィアとは喧嘩の途中のようなかたちで別れてしまったため、これでも気にしているのだ。彼女はまだ、私に怒っているだろうか。


「……どうしたの? エステル。髪飾りがずれた?」


 ゆっくりと頁をめくっていたソルが、私の手の動きに気づいたようで顔を覗き込んできた。吐息が触れるほどの至近距離に、どきりとする。彼はなんともないのだろうか。


「……ソフィアのことを、考えていたの」


 ソルは本をそっと閉じると、私の髪飾りを付け直してくれた。そのまま額にちゅ、とくちづけられる。


「元気にしているから、彼女のことも考える必要はないよ」


「でも……会いたいわ」


「そんなに仲がよかったっけ? ……彼女の手を借りてここから出ようとしているのなら無駄だよ。今のソフィアは僕の味方だ」


 彼は私の肩口に顔を埋めるようにして、いっそう私を抱きしめた。銀の髪が首筋に触れてくすぐったい。


 まるで縋りつくようなその姿に、思わず髪を撫でたくなったが、あいにく腕ごと彼に抱きしめられているせいでそれも叶わない。もどかしさを感じながら、ぽつりと続けた。


「ソル……私、嘘をついていたのよ。ソフィアのこと……本当は覚えているの。療養所で、私にとても親切にしてくれたわ。彼女がいたから、治療を頑張れたのよ」


 ソルはわずかに顔を上げ、じっと私の瞳を見上げてきた。心の奥まで射抜くようなまなざしに、なすすべもなく囚われる。


「どうして忘れているなんて嘘を?」


「……私が、あんまりみじめだったからよ」


 大切な友人であることは確かなのに、彼女がソルの恋人だと思った途端に恨めしくなった。ふたりの恋路を邪魔している悪人は私のほうなのに、杖や髪飾りを通じて存在を匂わせている彼女の強かさが憎らしく思えた。美しい見かけに反して、腹の中はどれだけ真っ黒なのだろうと、本気で苛立ったものだ。


 ……でも結局、そんな邪推をしてしまった私の心がいちばん醜いのだわ。


 ソフィアは、泣き叫ぶほどに私の命を惜しんでくれていたのに。跡継ぎを儲けてもいいだの、愛人として屋敷に滞在しろだの、散々無礼な発言をした私に対して、変わらずに親切にしてくれているのに。


「……何を考えたのかはわからないけど、君のようなひとがみじめに思うことなんてひとつもないよ」


 ソルは私の目尻をなぞって、小さく笑った。過去の私の涙を拭うような仕草に、こんな状況でも胸が温かくなる。


「ありがとう。……あなたはどうして私にそんなに優しいのかしら」


 ことあるごとにくちづけることといい、私を彼のものにするという宣言といい、嫌われてはいないことは確かだが、彼が私に向ける感情は、単純な好意と呼べるような代物ではない気がする。憎悪の裏返しだと言われても受け入れられてしまうくらいには、彼に向けられる感情は重く甘く、翳っていた。


「さあ……いつからこんなにもエステルに囚われているのか、自分でもよくわからないんだ」


 ソルはわずかに私から視線を逸らし、遠くを見つめるように何度か瞬きをした。その口ぶりからすると、この一年のことを言っているようには思えない。


 ……社交界で出会うより前に、彼と会ったことがあったかしら。


 顔の傷を隠すようにいつでも俯いていた私には、話した相手の記憶がほとんどない。


 だが、ひとつだけ思い当たる節があるとすれば――。

 

「ソル、あなたがもしかして、名もなきソフィアのご友人なの? 私と、文通をしてくれていた……」


 ソフィアとソルが双子だと聞いてから、ずっと気になっていたことだ。あの手紙の相手がソルならば、最後まで名乗らなかった理由にも納得がいく。


 どこかぼんやりとしていた様子のソルが、驚いたように私を見た。この数日では珍しく、わずかに瞳が輝いている。


「覚えていてくれたんだね。そうだよ。ソフィアと双子であることを隠したくて名乗れなかったけれど……君と何度も手紙を交わしていた」


 そういいながらふっと口もとを緩めるその横顔は、私が恋したソルの笑みそのもので、久しぶりに心が安らいだ。彼には、こういう明るい笑みのほうが似合う。


「私も、あなたから手紙が来ると嬉しかったわ。綺麗な言葉選びで、親切で……いつのまにか私たち、三人で再会できていたのね」


 もう叶わないと思っていた約束は、ずいぶん前に果たされていたらしい。


 ……そんなこともあるのね。不思議な縁だわ。


 自然と、ふっと頬が緩む。数日ぶりに笑みを浮かべたことに自分でも驚いていると、ソルが息を呑むのがわかった。


「エステル……」


 顔を覗き込まれたかと思うと、そのまま唇を奪われる。


 突然のことに驚く間もなく、吐息を奪うように深まっていくくちづけに、思わず彼の膝の上で身じろぎをした。息苦しくて、すぐに涙が浮かんでしまう。


「ソル……どうして、いきなり」


 息継ぎの合間に上げた抗議の声も、すぐに彼の唇に飲み込まれてしまった。飢えを満たすかのように性急な仕草に、くらくらとめまいがする。


 あまりの息苦しさにくたりと体が脱力すると、背中に回された彼の腕にすかさず抱き留められた。


 ソルは、ひどく切ない瞳で私を見ていた。何かを悔やんでいるような、泣いているような目だ。


「ソル……?」


「君が……慈愛に満ちた優しいひとだってことは、もうずいぶん前にわかっていたのに……もっと早く、君に言えばよかったんだ。そうすれば、初めから全部違っていたはずなのに――」


 彼は私の体をソファーの上に横たえると、許しを乞うように私の左手を握りしめ、額に当てた。まるで懺悔をしている罪人のような姿に、見ているこちらまで苦しくなる。


「ソル……? なんの話?」


 軽く上体を起こしてソルを見つめるも、彼は顔を上げようとしなかった。


「ソル……」


 そっと、空いている右手を彼の頬に添える。わずかに力を込めてようやく、彼は私を見てくれた。


 涙に濡れたような彼の瞳を見ていると、胸が締めつけられて仕方がない。その苦しみを和らげる術を探るように、気づけば私は彼の頬にくちづけていた。


「っ……エステル」


 ソルは驚いたように飛び起きて、みるみるうちに頬を赤く染めた。


 私には散々激しいくちづけをしているくせに、私からくちづけただけでこんな反応をするなんて。

 

 ……そんなの、なんだかソルが私のことを好きみたいじゃない。


 ソルの反応を見ていると、私まで恥ずかしくてたまらなくなった。お互いに視線を逸らしあいながら、言葉を探るような沈黙が流れる。


 ……私、今までにソルにちゃんと気持ちを伝えたことがあったかしら。


「契約」という言葉を盾にして、私の心のうちをソルに曝け出したことは、いちどもなかったように思う。


 ……今なら、言えるかしら。私はずっと、ソルを慕っていたのだと。


 彼に恋人はいないと知った今ならば、私の告白で傷つくひともいない。想いを伝える障壁はすでにないのだと今になって気がついた。


 どくどくと心臓が高鳴る。言葉に迷いながらも、からからに乾いた口をわずかに開こうとした。


 だが、言葉の続きは私よりも先にソルが切り出しだ。


「……そんなことしても、外には出してあげられないよ、エステル」


 ソルは困ったように笑って、そっと私を抱き上げた。読書の途中だったが、そのまま私を寝室へつれていき、寝台の上へ静かに下ろす。


 いつのまにか整えられている冷たいシーツのに身を委ねながら、そっとまつ毛を伏せた。


 ……そうよね。散々彼の厚意を無下にしておいて、いきなり私が告白しようとしたところでまともに受け取ってもらえるはずもないわ。


 きっと、外に出してもらうために取り繕っているように見えてしまうだろう。それでは意味がない。


 今の私には、告白すらも許されないのだ。彼の信頼をもういちど取り戻すまでは、どんな言葉も届かないだろう。


 彼は私に背を向けるようにして、寝台の縁に腰掛けていた。わずかに丸めた背中は、どうにも寂しげだ。

 

 ……こんなに近くにいるのに、私たちはまだお互いにひとりぼっちのままなのね。


 どうすれば、この想いを伝えられるだろう。大きな天蓋をじっと眺めながら、彼に想いを伝えるすべを探し続けた。

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