第3話 姉のような友人
翌日は、精霊祭の当日だった。
この屋敷は街からは離れているため、精霊祭の賑わいは届かない。当然、ソルが屋敷の中を精霊祭らしく飾りつけるはずもなく、私にとってはここ数日と変わらない新たな一日がやってきた。
目覚めたときからソルがそばにいて、薬を塗って、着替えて、食事をする。決まりきった行動を繰り返していると、だんだんと意識がぼんやりしてくるような気がした。
「エステル、なるべく早く帰るからいい子で待っているんだよ」
久しぶりに外出用の上着を纏ったソルは、甘く翳った微笑みを浮かべて告げた。
レヴァイン侯爵家の次期当主である彼が、王城で開かれる精霊祭の舞踏会を欠席するわけにはいかない。欠席するだけで王家への忠誠心を疑われてしまうほど、精霊祭はこの国にとって大切な行事なのだ。
出かけるついでに、この数日ですっかりたまった仕事も片付けてくるらしい。今日は精霊祭だから、商会のほうも大忙しだろう。
「僕がいない間はソフィアについてもらうから。……くれぐれも余計なことは考えないようにね」
念押しするように、彼は私の耳もとで囁くと、そのまま頬にくちづけた。この仕草だけを見れば仲のいい夫婦そのものだというのに、彼の心は遠い。
「……いってらっしゃい、ソル」
ソファーに座ったまま、軽く手を振る。ソルはにこりと微笑んで、部屋から出ていった。私が起きている間に彼がそばを離れたのは本当に久しぶりだ。
入れ替わるように入ってきたのは、難しい顔をしたソフィアだ。
今日の彼女は、亜麻色の髪を高い位置で一本に結い上げた活動的な姿だった。下働きはしていないのか、私が贈った軽やかな緑のワンピースを纏っている。
「ソフィア……」
彼女とは、喧嘩別れをして以来会っていない。きっとまだ私に怒っているのだろう。その証拠に、彼女の表情はどこか硬く、視線は床に伏せられていた。
彼女には、伝えなければならないことがたくさんある。わざと彼女を忘れたふりをしていたことも、彼女を突き放すような振る舞いをしてしまったことも、本意ではなかったとちゃんと話したかった。
「ソフィア、あのね、私……」
彼女に椅子をすすめるよりも先にソファーから立ち上がる。だが、ソフィアはソファーの前に設置されたテーブルの上に小箱を置いたかと思うと、中から何やら取り出して並べ始めた。よく見ると、化粧道具のようだ。
「ソフィア、それは……?」
「エステルはいいから、そこで座っててちょうだい」
私に何もさせまいとする態度も、ソルにそっくりだ。こうして見ればソフィアとソルには似た部分がたくさんある。何も知らない状態で彼らに血のつながりがあることを疑うのは難しいかもしれないが、確かに兄妹なのだと感じる部分は多かった。
ソフィアの言葉に従い、ソファーに座り直して彼女の作業を見守った。どれもこれも、私が使ったことのない化粧道具ばかりだ。
そもそも私はベールで顔を隠していたため、化粧というものをしたことがないと言っても過言ではない。火傷を負う前、幼いころに母の鏡台からこっそり借りた口紅を戯れに塗ったことがあるくらいだ。
「……これらは、あなたの新商品なの?」
先に伝えるべき言葉はたくさんあるというのに、当たり障りのないことを尋ねてしまう。私の悪い癖だ。
「違うわ。ソルのお金で私が買ってきたものよ」
いつのまにか、彼女は私に対して丁寧な言葉を使うのはやめたようだ。私としてはまるで療養所にいるころに戻ったような気がして、こちらのほうが嬉しい。
ソフィアは化粧道具をすぐに使えるように準備しているようだった。ここで化粧をするつもりなのかもしれない。
……ソルがきっと無理を言ったのだわ。まだ支度もできていないのに私の部屋に来るように言ったのね。
化粧などしなくともソフィアは十分美しいが、今日は精霊祭だ。多くの女性たちは一年でいちばんのおめかしをして友人や恋人と出かける特別な日なのだから、彼女もそのつもりなのだろう。
「……もしよかったら私の鏡台を使って」
杖と同じ白い木で作られた鏡台は私のお気に入りだった。この屋敷に越してきたときに、揃えた調度品のひとつだった。もっとも、化粧はしないので髪をくしけずったり、結い上げたりするときにしか使わないのだが。
「いいえ、ここで平気よ。……私じゃなくて、あなたのお化粧をするから」
「え?」
ソフィアは私の隣に腰かけると、細い指先で私の前髪をかきわけた。
ここにきて、はっと気づく。
思えばソフィアが来たというのに、醜い火傷の傷を晒したままだ。十日以上ソルと素顔で接していただけで、ベールをつけ忘れていることに違和感を覚えないようになってしまうなんて。
慌ててソフィアから顔を背け、距離を取る。
「ソフィア……その、いいのよ。私はどうせ屋敷にいるのだし。それに……あなたにこんな近い距離で見つめられるのは恥ずかしいわ」
言葉ではそう言ったが、本当はみじめなのだ。
傷ひとつない白い肌と淡く色づいた頬、ぷくりとした唇。こぼれ落ちそうなほどに大きな亜麻色の瞳は表面に柔らかな光をたたえている。どの部位を取っても、やはり彼女は美しかった。
「いいから、すこしの間じっとしていて」
せっかくとった距離を再び詰められて、彼女は丁寧に私の髪をかきわけ続けた。
ソフィアがここまで強引なそぶりを見せるのは初めてだ。ぎこちなく頷いて、そっとまつ毛を伏せる。額に触れる彼女の指がくすぐったい。
「じゃあ、始めるからじっとしててね」
私の返事を待たずして、彼女は化粧を始めたようだった。
そこからは、長かった。冷たい液体を頬に塗られたり、筆のようなもので目の周りや頬をなぞられたりと、未知の体験が続く。特に、古傷の上には何度も何度も液体や粉が塗りつけられているのがわかった。
どれくらい、そうしていただろう。同じ姿勢を保っているのがつらくなってきたころ、ソフィアが私の顔から手を離して息をつくのがわかった。
「うん……我ながらすばらしい出来だわ」
まるで一作品仕上げたかのように、ソフィアは満足げにつぶやいた。そっとまつ毛を上げ、昼間の光に目を慣れさせる。
「ねえ、あなたも見てみて」
ソフィアは私の手を引くと、ソファーから立ち上がらせ、手を繋いだまま鏡台の前へ移動した。療養所でも、うまく歩けない私の手を引いて、彼女はこうして歩いてくれたものだ。
……懐かしいわ。
あのときの無垢で無邪気な少女のまま、ソフィアは大人になったようだ。やっぱり、彼女は輝かしい。
「座って。ね、どうかしら?」
ソフィアに促されるがままに鏡台の前に座り、そっと鏡を覗き込む。
「っ……!」
そこには、信じられない光景が広がっていた。
「これ……本当に……?」
恐る恐る、左の目もとに指先を這わせる。じわり、と涙が滲むのがわかった。
十年間私を苦しめ続けた古傷は、ソフィアが施してくれた化粧によってすっかり目立たなくなっていた。流石に至近距離で見れば傷があることに気づくだろうが、公の場に出るには十分なほどに綺麗に隠れている。
「私やソルからすれば、傷があったところであなたの美しさは変わらないけれど……こうすれば、エステルも傷が気にならないかと思って……」
言葉の途中で、ソフィアは嗚咽を漏らした。そのまま、床に跪いて私の膝に縋りついてくる。
「エステル……私、あなたが望むならいつでもどこでもこうしてお化粧をするから……死ぬなんて言わないで……!」
切実なソフィアの懇願に、何も言えなくなる。彼女は私を思い留まらせるために、この数日間ずっと準備してくれていたのだろうか。
……どうして、私などのためにここまで。
「このくらい傷を隠せば、見てくれだけに惑わされる貴族たちは簡単に欺けるわ! あなたを『傷痕姫』なんて呼ぶひとは誰もいなくなる」
私のワンピースを涙で濡らしながら、ソフィアは続けた。
「ソルのことをなんとも思っていないのなら……それでもいいから、生きるって言って。ソルのことは、私が絶対に説得するから!」
彼女は心から叫んでいた。散々ひどいことを言った私のために、こんなにも必死に訴えかけてくれているのだ。
気づけば、頬を一粒の涙がこぼれ落ちていった。それをきっかけに、次々と大粒の涙があふれ出す。
「ソフィア……ごめんなさい、私……私……」
「謝罪なんて聞きたくないわ! 生きるために足りないものがあるなら、私とソルで補うから……! ぜんぶ教えて、ひとりで決めないで!」
違う。ソフィアの懇願を拒否するために謝っているわけではない。そう伝えたかったのに、嗚咽にかき消されてうまく言葉が出てこない。
「エステル……!」
焦れるように私の目を覗き込んでくるソフィアを前に、子どものように泣きじゃくった。
「違うの……私、私――」
涙の膜の向こう側で、亜麻色の瞳がじっとこちらを見ていた。
そうだ、彼女もソルも、ずっと私をこうして見てくれていたのに。
「――私、本当は生きたいって思っていたの。あなたや、ソルがいてくれる未来なら、生きたいって思ったの……」
目覚めたときにソルが隣で笑って、ソフィアが新しい作品を私に見せに駆けてきて、三人でお日様の下でお茶をする。そんな未来をずっと望んでいた。
彼らが恋人であるならばそれは叶わない願いだとひとりで苦しんでいたけれど、無用な悩みだった。ふたりは私と一緒にいてくれる。望めばきっと、この先も私のそばで生きてくれるのだろう。
その親愛と懇願を跳ね除けてまで、死を選ぶ理由はもはや私には残されていなかった。
ふたりがいてくれるならば、古傷だってどうでもいいのだ。死にたかった理由は、大切なひとがそばにいない社交界で「傷痕姫」として生きていく覚悟がなかったというだけなのだから。
「私……本当はあなたのことずっと覚えていたわ。またいつか会いたいと思っていたの。でも、あなたがソルの恋人だと知って……忘れたふりをするなんてひどいことをしてしまった。再会したあの日にあなたに恥をかかせてしまったこと……ずっと悔やんでいるのよ。ごめんなさい、ソフィア、ごめんなさい……」
泣きじゃくる私を、ソフィアは静かに抱き寄せた。私よりふたつ年上なだけだが、こういうときの彼女はまるで歳の離れた姉のように感じる。療養所でも、よくこうして私を励ましてくれていたものだっけ。
「いいのよ、そんなこと。……夫の恋人だと思えば、どんな親友でも憎らしく思うものよ。でもあなたは私を助けてくれた……その上、この屋敷に置いてくれた。これは一生かけても返しきれない恩よ」
「私……私、後腐れない関係のためにあなたたちをお金で買ったわけじゃないの。好きなひとたちにそばにいてもらうためには、私にはこれしかないから……だから……」
「わかってる。あのときは私やソルも冷静ではなかったから、あなたを追い詰めてしまったわね」
ぽんぽん、となだめるように背中を叩かれ、余計に涙が溢れてしまう。長年縋り付いてきた矜持も投げ捨てて、ソフィアの肩に頭を預けた。
「私……あなたたちが好き。あなたのことも、ソルのことも好きなの……」
「ありがとう。私もあなたが好きよ、エステル」
ソフィアは私の頭を撫でながら、くすりと笑った。
「――でも、その様子だと私に対する『好き』とソルに対する『好き』は違うんじゃない?」
どこか悪戯っぽい問いかけに、やっぱり気恥ずかしさは込み上げる。けれど、もう否定しようとは思わなかった。
「ええ……私、ずっとソルが好きだったの。初めての恋よ」
彼への想いを口にするだけで、自然と頬が緩む。涙の名残がぱらぱらと散っていった。
ソフィアはにこりと微笑んで私の乱れた髪を耳にかけると、いちどだけ頷いた。
「よかった。……一方通行ではなかったみたいね」
ソフィアにソルへの想いを打ち明けると、なんだか不思議なくらいに胸がすっとした。誰かに聞いてもらえるだけで、こんなに心が軽くなるなんて。
本来であればこのままソルにも想いを打ち明けにいきたいくらいだが、このところの彼の翳りを思い返すとそう簡単なことではないのだと改めて気づく。
……無理もないわ。それだけひどいことをソルにしてきたのだから。
ぐ、と拳を握りしめ、私が出られないように幾重にも鍵のかけられた扉を見据える。
暗く閉ざされたことで、かりそめの安寧を得た場所。この部屋の有様は、まるで彼の心をそのまま反映しているかのようだ。
「ソフィア……私は、どうすればいいのかしら。このままこの部屋の中で彼に想いを伝えても、届かない気がしてならないの」
このところの彼の様子を見ていれば、想いを打ち明けたところで「そんなことを言っても外には出してあげられないよ」と翳った笑みで流されるのが関の山だ。
当然だが、彼はまるで私を信じていない。一歩でも外に出せばたちまち死に向かうと思い込んでいる。
……そんなふうに思わせてしまったのは、もちろん私の行いが原因なのだけれど。
視線を伏せて頭を悩ませていると、ふいにソフィアの細い手が私の肩に添えられた。
「エステル、今日は精霊祭よ。……精霊祭の夜に想いが通じ合った恋人たちは、永遠に幸せになれる。そう言われているでしょう?」
「そうなの? 聖典には書いていないけれど……」
「じゃあ、迷信なのかもしれないけれど、人々にこれだけ広がっているのだから精霊の教えみたいなものよ。でも、これってとってもいい機会だと思わない?」
ソフィアはきらきらと目を輝かせて、片目を瞑ってみせた。
「ひとりで思い悩んで動けなくなっているソルを、あなたが迎えにいくのよ。難しい悩みが全部吹き飛ぶような、あっと驚くような方法でね」
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