第4話 「傷跡姫」だったひと
「わあ……綺麗ね! あ、屋台もたくさん出ているわ! あのクッキーおいしそう……」
夕方。私とソフィアは、侯爵家の馬車に揺られていた。車内には付き人としてサラも控えている。
あれから、ソフィアは泣き崩れた私の化粧を再び綺麗に直し、サラや他のメイドたちの手を借りて私にドレスを着付けた。
ドレスは、ずいぶん前から今日の精霊祭のために仕立てておいたものだ。ソルの瞳を思わせるような濃い紫の生地に、きらきらと銀糸の刺繍が縫い付けられている。精霊祭にふさわしい、華やかで品のある衣装だった。
「見て、エステル。恋人たちがたくさんいるわ。……ソルに会えたら、このあたりをお散歩してみるのもいいんじゃない?」
ソフィアはにやにやと口もとを緩めながら、緊張で体を硬くしている私をからかった。かあっと頬が熱くなって、せっかくの化粧が崩れてしまいそうになる。
「ソフィア……もう、あんまりからかわないで。これでもものすごく緊張しているのよ」
「そうなの? 昔からそうだけれど、あなたってあんまり感情が顔に出ないわよね」
ソフィアはくすりと笑いながら、再び窓に張りついた。ソフィアも今は、普段のワンピースより一段と質の良い軽やかなドレスを纏っている。
私たちがこうして馬車に出かけているのは、ソルに会うためだ。王城で開かれる精霊祭の舞踏会に参加しているであろう彼に、私から会いにいくことにしたのだ。
それこそが、ソフィアの提案したソルを驚かせる方法だった。
確かに、屋敷の奥深くにこもっているはずの私が、突然に舞踏会の会場に現れたら彼は驚くだろう。それも、ベールをつけていない状態で現れれば、なおさらだ。
……でも、不安だわ。
落ちつかない気持ちを、両指を組むことで誤魔化す。いくらソフィアが綺麗に化粧を施してくれたとはいえ、人前でベールをつけずに姿を現すのは実に十年ぶりだった。
――まあ、なんて可愛らしいの。精霊の使いのようね。
――ごらんになって。あれが噂の化け物……『傷痕姫』ですわ。
過去の賞賛とこの十年間向けられた侮蔑が入りまじり、胸の奥に重くのしかかった。今夜私が姿を現したとき、人々はどちらの反応を示すのだろう。
「奥さま、ソフィアさん、そろそろ着きます。お支度を」
サラの声かけに、ますます体がこわばった。いよいよなのだ。
「エステル、そんなに緊張しないで。見てくればかりに左右される貴族たちの賞賛も侮蔑も、あなたがまともに受け取る必要はないのよ。あなたがすべきことは、ソルを見つけ出すことだけ」
「……もっとも、奥さまがこんなに力を尽くして迎えにいく価値があの方にあるのか、私には図りかねますが」
サラは、このところのソルの態度にも思うところがあるらしく、一貫してソルに否定的な態度をとっていた。
ソフィアのことは、ソルの双子の妹であることは伏せて「ソルの恋人ではなかった」と私から説明したのだが、サラがソフィアを認めるかどうかはまた別の話だ。もうすこし時間がかかるだろう。
「……ありがとう、サラはいつでも私の味方をしてくれるのね」
彼女のような使用人が本邸にもいてくれたら、どれだけよかっただろう。火傷を負ったあとの幼い私もまた、救われたはずだった。
「あなたには話せていない事情がいくつもあるけれど、ちょっとずつずれてしまったものを私が整えてみせるわ。待っていてね」
サラに静かに微笑みかけると同時に、王城の前で馬車が止まった。
舞踏会はすでに始まっているだろう。御者の手を借りて、そっと馬車から降り立つ。
「エステル、胸を張って」
馬車から跳ねるように飛び降りたソフィアが、白い杖を手渡した。彼女の作品であり、ソルと近づくきっかけになったあの大切な杖だ。
「ありがとう。……ソルを連れて帰ってくるわ」
ソフィアとサラに微笑みかけ、王城の中へと歩き出す。門の前に控えている騎士たちや私と同様に遅れて到着したらしい貴族の視線をすでにちらほらと受け、いやでも緊張した。
……でも、このくらい、なんてことないわ。ソルに会いにいくのよ。
こつこつと杖の音を響かせ、家名を告げて王城の使用人に大広間まで案内してもらう。大広間に近づくにつれ、軽やかな音楽と人々の笑い声が聞こえてきた。
人の笑い声は苦手だ。この十年間、私に向けられる笑い声はすべて私を嘲笑うものだったから。
今もすこしも怖くないかと言われれば、きっと嘘になる。
……でも、どうでもいいわ。ソルとソフィア以外のひとになんと評価されようとも。
ソフィアが施してくれた化粧は、ソルのもとへまっすぐにたどりつくための武器のようなものだ。私を傷ひとつで評価してきたひとたちを相手にするには、うってつけの装備だった。
使用人たちの手で、大広間の扉がゆっくりと両開きに開かれていく。眩い光に一瞬目がくらんだが、胸を張って光の中へ足を踏み出した。
こつこつ、と銀の靴と杖の音を響かせて、広間を突き進む。すぐに人々の注目が私に集まるのがわかった。ひそひそと囁き合うような声にも、慣れている。
「ちょっと、あの方は……?」
「見たことないな。今年デビューしたご令嬢だろうか……」
ベールをつけていないせいで、皆、私が誰だかぴんときていないようだ。それもそうだろう。十年間も顔を晒していなければ、誰だって私の正体には気づけないはずだ。
「なんて綺麗な蜂蜜色の髪と碧の瞳なのかしら……」
「あの方の周りだけ空気が澄んでいるようだわ。まるで精霊の使いが人になったかのよう」
賞賛と恍惚のため息が漏れ聞こえてくる。誰も私が「傷痕姫」だなんて気づいていなかった。
「ふ、ふふふふ……」
なんだか笑いが込み上げてきて、思わず口もとに拳を当てくつくつと笑う。
……ああ、私ってなんて馬鹿だったのかしら。
見てくれひとつでがらりと評価を変えるこのひとたちの言葉に、いちいち傷ついて振り回されていたなんて。
ソフィアの言う通りだ。私と同じように美しく生まれついたはずの彼女は、とっくにこのことに気がついていたのだ。
おかしくて、たまらなかった。私は本当に愚か者だ。
口もとに浮かべた笑みはそのままに、私を噂していた人々を横目で見やる。私と目が合った者は皆、男女問わず息を呑んでいた。
……でも、そうね。美しさに価値がないとは言わないわ。これは確かに人の世を生き抜く強力な武器のひとつになる。
知識や技術、品格と同様に生きていく上で大切な要素のひとつであることは間違いない。だが、あくまで「ひとつ」でしかないのだ。
十年間、いや、生まれたときから私につけられた枷が、音を立てて壊れるのがわかった。この解放感はきっと、傷を負わなければ得られなかったものだ。
足がもっと自由ならば、駆け出したい気分だった。
この気持ちを、ソルにも伝えたい。ソルに、いちばんに伝えたい。
広間の中心に近づいて、あたりを見渡す。もう何年もソルに片想いしている私の目は、すぐに彼の姿を見つけることができた。
ソルの周りには、いつもどおり令嬢たちや若い令息たちが群がっていた。彼は今夜も社交界の人気者だ。
だが、紫の瞳は屋敷にいたときと同様に暗く翳ったままだ。口もとには儀礼的な笑みを浮かべているが、まるで何日も眠っていないかのようにひどく疲れて見える。
だが、彼の周りに群がるひとたちは、その異変に気づいていないようだ。いつも通りにぎらぎらと目を輝かせて、彼の観心を買おうと躍起になっている。
……怪我をしなければ、私もきっと彼らと同じことをしていたわ。
そっと、ソフィアが入念に化粧を施してくれた目もとに指先を這わせる。忌々しいはずの傷痕が、今となっては誇らしくさえ思えた。
……この傷があったから、私たちは出会えたのよね。
ふっと頬を緩め、いちどだけ深呼吸をする。
胸を張って、堂々と生きていく決意を固めた姿を、ソルに見せるのだ。
それこそがきっと、彼への償いになる。そう、信じて。
意を決して、ソルと彼に群がる若い男女の群れに近づいた。
ベールをかぶっていたときと違って、周りの人々は勝手に道を開けてくれる。ここでも何かささやくような声やため息が聞こえてきたが、私にとってはもう意味のない音だ。
こつり、と靴音を響かせてソルの前に姿を現す。彼の周りに群がっていた男女が、不思議そうに私を見ていた。私の正体には誰も気づいていないようだ。
ソルは、顔を伏せたままこちらを見ようともしなかった。まるでベールをかぶっていたときの私を見ているかのようだ。
「ソル、私と踊ってくれないかしら?」
視線を伏せたままの彼に、すっと手を差し出す。ソルは未だ私に気づいていないようで、張り付いたような笑みを浮かべたまま、気だるそうに顔を上げた。
「申し訳ありませんが、今日は誰とも踊るつもりは――」
断りの文句を口にしながら顔を上げた彼が、驚きに目を見開いた。ようやく、私が来たことに気がついたらしい。
「エステル……? どうして、ここに……」
「あら、踊ってくれないの? せっかく来たのに、残念だわ」
にこりと笑いながら、差し出した手を引っ込める。
ソルは、ふらりと私の前へ歩み寄ると、じっと私を見ていた。
やがて紫の瞳に涙を滲ませて、震える手を私の頬へ伸ばした。
「エステル……ああ、なんてすがすがしい表情なんだ」
彼は、古傷が綺麗に隠れていることなど気づいてもいない様子で笑った。深い紫の瞳から、暗い翳りがすっと消えていく。
……そうよね、彼はこういうひとだわ。
醜い古傷を直接見ても私に「可愛い」というひとなのだ。私が皆から持て囃される「精霊の使い」でも皆から蔑まれる「傷痕姫」でも、彼にとって私の価値は変わらないのだろう。私が気にしているから傷痕を薄くする薬を懸命に塗っていてくれただけで、彼にとっては傷があろうがなかろうが、どうでもいいことなのだ。
彼は揺るぎない彼だけのものさしで、私を見てくれている。その上で私を選び、慈しんでくれているのだ。
……どうして、彼の好意を素直に受け取らなかったのかしら。
出会ってからずっと、彼は私に「好きだ」と行動で示してくれていたのに。私が「契約結婚」で彼の真実の言葉を封じてもなお、私に歩み寄ってくれていたのに。
「……ずいぶん長い間、待たせたわね。私はたくさんあなたを突き放したのに……待っていてくれてありがとう。あなたを、迎えに来たのよ」
ソルの瞳から、ひと粒涙がこぼれ落ちる。大広間の照明に照らされ、星屑のように光ったそれは、音もなく大理石の床に散っていった。
ソルはそのまま私を引き寄せると、躊躇いもなくくちづけた。その拍子に、からからと杖が床に落ちたが、互いにそれを気にする余裕はなかった。
熱い唇が、啄むように何度も触れた。いつも一方的に彼のくちづけを受けているだけだったが、初めて私も応える。彼の上着をぎゅっと握りしめて、もっと求めるように軽く背伸びをした。
周りがざわめくのがわかったが、どうでもよかった。こんなにたくさん音があるのに、涙で視界がにじんでいるせいか、ふたりだけの世界に迷い込んだような気持ちになる。
……知らなかった。くちづけが、こんなにも甘く温かなものだったなんて。
うっとりとした心地で、軽く唇を離してソルを見上げる。彼とは何度も唇を重ねたが、これが私たちにとって本当の意味での初めてのくちづけである気がした。
「エステル……」
恍惚を覚えたように、ソルが私の髪を撫でた。そのあまりに甘い表情に、たちまち頬が熱くなる。どう考えても彼は私が好きなのだと実感できてしまうような微笑みに、溶けてしまいそうだった。
すかさずもういちどくちづけをしようとしてくるソルの胸にそっと手を当て、距離を保った。ソルが焦れるように至近距離で私を見ていたが、もういちどくちづけられたら身が持ちそうにない。
「……これ以上は、だめ」
「どうして?」
ソルは甘い笑みの中にわずかに意地悪な表情をにじませた。そうだ、彼はとても親切なひとだけれど、こうして触れあうときはあまり優しくないのだ。
「わ、私はあなたと踊りたくて来たのよ。……これ以上くちづけたら、立っていられなくなるわ」
か細い声で呟けば、くちづけの代わりに思いきり抱きしめられた。息ができなくなるような力強さだ。
「あー……可愛い。僕のエステルはなんて可愛いんだ」
すりすりと私の頭に頬を擦り寄せながら、ソルは満ち足りたように呟いた。言葉のひとつひとつがいちいち甘くて、ますます頬が熱くなる。
ソルの腕に囚われたまま身動きができない私に助け舟を出すように、音楽が切り替わる。いつかソルに誘われて断った、賑やかなあの曲だ。
「ほ、ほら、音楽が変わったわ。踊ってくれるのでしょう?」
身を捩って抗議するようにソルに訴えかければ、彼はどこまでも甘く微笑んだ。
「もちろん、エステルの望みならなんだって叶えるよ」
……そうね、私の望みを叶えられるのは、あなただけだわ。
彼と心が通いあうのを感じながら、音楽に身を委ねる。
それは、すれ違いも葛藤もすべてこの瞬間のためにあったのだと思うほど、夢のように幸せなひとときだった。
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