第5話 赤い瞳と暗雲

 ぎこちないステップで何曲か踊り終えたあと、流石に疲労を感じた私はソルとともにバルコニーへ出た。夏の風に火照った体を撫でられ、ほっと息をつく。


「ふふ、さすがに疲れたわね。こんなにたくさん動いたのは久しぶり……」


 心地よい疲労感は、療養所で体を動かす訓練をしていたころを思い出させた。帰ったらぐっすりと眠れそうだ。


「……ごめん。僕が監禁まがいのことをしていたから、きっと体力が落ちてしまったね」


 ソルは申し訳なさそうに私の手を取り、手首を見ていた。動いていないが、この数日間塞ぎ込んでいたせいかわずかに痩せたような気がする。


「平気よ。……あなたと一緒にご飯をたべたら、すぐに元通りに元気になるわ」


 ソルの手をそっと引き寄せて、自らの頬に当てる。温かくて、大きな彼の手が好きだ。


「ソル……明日からもずっと、『契約』の期間が終わってもいつまでも……私と一緒にご飯を食べてくれる?」


 彼の手に頬を寄せたまま、紫の瞳を見上げる。すぐに、柔らかな光が彼のまなざしに溶け込んだ。


「もちろん、エステルが嫌だと言ってもそうするつもりだよ」


 ソルのくちづけを頭に受け、くすくすと笑い合う。こんなに穏やかで幸せな気持ちは初めてだ。


「……言うまでもないけれど、『精霊の微睡』を受けるつもりはないわ。今度、カイル大神官に正式に辞める意思を伝えるつもりよ」


 手続きは他にも色々とあるだろうが、早急に片付けよう。ソルにとって、神殿にまつわるものは私が死を意識した証拠のようなものなのだから、いつまでも私の身の回りにあって心地よいものであるはずがない。


 ……カイル大神官にとっても、いい結果になったわね。


 信者とともに命を落とさなければならないなんて、私が言うのもなんだが残酷な仕組みだ。彼のような優秀な大神官は、生きて多くの人々に教えを説き続けるべきだろう。


「それなら、僕も一緒に行くよ」


「でも、忙しいでしょう? ……これからは、レヴァイン侯爵領のことも学ばなければならないのだし」


 二年限りの「契約結婚」であるならば、ソルがレヴァイン侯爵領の運営について学ぶ必要はまったくない。そう考え、お父さまには「まずは収入に直結する大商会の運営から学んでいきたい」と理由をつけて、ソルにはレヴァイン侯爵領の仕事を教えないように伝えていたのだが、こうして想いが通じ合った今、そうもいかなくなる。


 だが、ソルはわずかに視線を逸らして誤魔化すように笑った。


「あー……いや、その、実はレヴァイン侯爵領の仕事も、ずいぶん前から始めていて……」


「え?」


 どういうことだろう。まじまじとソルを見上げれば、彼はますます視線を逸らして声を絞り出すように続けた。


「……二年が経ったあとも君と一緒にいられることになったときのために、学んでおきたくて……僕から義父上に頼んだんだ……勝手な真似してごめん」


 ……そんなに前から、私とずっと一緒にいることを考えてくれていたの?


 嬉しくて、勝手に口もとが緩んでしまう。弾む気持ちを誤魔化すように、私もソルから視線を逸らして中庭を眺めた。


 ……どうしよう、ソルの言葉が全部嬉しくてだらしのない顔になってしまいそう。


 にやにやと緩む口もとを必死に抑えていると、ふと中庭の奥の方で人影が蠢くのがわかった。散策を楽しんでいると言うような雰囲気ではなく、まるで手足をじたばたとさせているかのような動きに不穏なものを感じ、よくよく眺めたみた。


「っ――!」


 思わずバルコニーから身を乗り出し、目を凝らす。人影は数人分あるようで、まるで誰かを捕らえるような動きをしていた。


 刹那、銀の月影の中に、見慣れた亜麻色の髪が靡くのが見えた。


 ……ソフィア?


「エステル? そんなに身を乗り出したら危ないよ」


 背後から優しく抱きとめられるも、ときめきを感じる余裕はなかった。ばくばくと心臓が暴れ出す。


「ソ、ル……今、そこにソフィアが……ソフィアが誰かに連れて行かれているように見えたの」


 暗くてよく見えなかったが、尋常な雰囲気ではなかった。だが、あれがソフィアだという確信もない。


「ソフィアが? ソフィアも来ていたのか」


 ソルはあまり興味なさげに呟いたが、心臓の音は警鐘を鳴らすかのように大きくなるばかりだ。


「サラと一緒に私たちを待っているはずなのだけれど……でも、今、亜麻色の髪が見えた気がして……」


 私の心臓が早鐘を打っていることが彼にも伝わったのか、ソルも顔色を変えた。そっと私の両肩に手を置き、真正面から私を見る。


「わかった。今すぐ待ち合わせの場所へ向かおう」


 こくりと頷いて、早速彼とともに門へ向かった。ふたりとは、侯爵家の馬車のそばで落ち合う約束だ。


「ソフィア! サラ! 戻ったわ。帰りましょう」


 あたりを見渡して声をかけるも、返事はない。馬車で控えていた御者に訪ねても、ふたりは私が王城へ入ってまもなく馬車を降りてから帰って来ていないとのことだった。


 ソルの表情が、一気に険しくなる。


「……エステル、君は馬車に乗って先に屋敷に戻るんだ。僕はあたりを見てくるから」


「いや! 私も探すわ」


 足の不自由な私がついていったところで、足手まといになるだけだとわかっていたが、じっとしてなどいられない。


「でも――」


 ソルが何かを言いかけたそのとき、中庭のほうからふらりと影が近づいてくるのがわかった。おぼつかない足取りで、何度も転びながらそのひとはこちらに近づいてくる。


「――サラ!?」


 月影に完全に姿を現したとき、ようやく彼女の正体がわかった。ソルと御者とともに、慌ててサラのもとへ駆け寄る。


「サラ! どうしたの!? これは……」


 サラの黒いお仕着せは、土埃で薄汚れていた。顔は赤く腫れ上がっており、誰かに殴られたのだと悟る。


「サラ、その怪我は……何があった?」


 ソルは転んだサラの体を抱き起こしながら表情を歪めた。サラは、腫れがあった唇で、途切れ途切れに言葉を紡ぐ。


「ソフィア、さんが……男たちに、連れて行かれて……中庭の奥へ……」


 では、先ほど見たあの人影は、やはりソフィアと彼女を連れていった男たちの影だったのだ。さっと、血の気が引いていく。


「……男たちの姿は見たか? 何か特徴は……」


「黒い外套を着た、若い男たち、です……ああ、でも、あのひとは……」


 サラは、はっと気がついたように私を見た。何か思い出したようだ。


「ゆっくりでいいの。……何かわかったの?」


 土に塗れたサラの手を握りしめる。サラは、わずかに視線を泳がせた。


「あの……私の、見間違いかもしれませんが……あの方は……」


 わずかに迷った末に、サラは私の目をまっすぐに見つめた。


「あの方は……奥さまとよくお話しになる……あの黒髪の神官です。あの赤い瞳は……見間違えようがない」


「……カイル大神官が?」


 彼がソフィアを連れ去る理由が、まるで思い当たらない。


 だが、サラの言う通り、カイル大神官の見た目は非常に特徴的だ。長い黒髪と、血のように赤い瞳。街中で見かければ、見間違うことはないだろう。


 ……神殿へ行ってみる必要がありそうね。


 ソルも同じ結論に至ったのか、互いに視線を交わし頷き合う。


「奥さま……旦那さま……申し訳、ありません。おふたりの、大切なお客さまを……」


「謝らないで! つらいときに、話してくれてありがとう。あなたは屋敷に戻って、お医者に診てもらうのよ」


 御者の手も借りて、サラを馬車の中へ運び込む。サラを座椅子に横たわらせ、私とソルはその向かいの座椅子に並んで座った。


「つらくない? サラ」


「見た目は、ひどいのでしょうが、平気です。それより……ソフィアさんを、先に探してください」


 サラは、涙ぐんで私たちに訴えた。


「ソフィアさんは……私を庇って、一緒に逃げようとして……私が、いなければ、逃げおおせたはずなのです。だから……お願いです」


 サラの悲痛な訴えに、ソルと再び視線を交わしあった。おそらく、考えていることは同じだろう。


 ソルは馬車の壁をこんこんと叩くと、いつにない冷静な声で行き先を告げた。


「出してくれ。――大神殿へ」

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