第七章 傷痕の意味

第1話 大神官の礼拝堂

『そんなに一生懸命に祈って、いったいどうされたのですか?』


 カイル大神官と出会ったのは、今から十年前。療養所に行く直前に、最後に礼拝をしようと大神殿に立ち寄ったのがきっかけだった。


 あのころ、使用人たちからも蔑まれていた私は出先で放置されることがざらにあった。そのせいで私は車椅子から転げ落ち、なんとか親切な人の手を借りて車椅子に座り直すことはできたものの、治りかけの手の傷が破けて再び出血する羽目になってしまった。


 私に付き添っていたメイドは、その傷を見て心底面倒そうにため息をついた。

 

 その反応も無理はない。私はもう、誰かのお荷物になることしかできない、醜い化け物なのだから。


 ――精霊さま、どうか、どうか早く私の命を奪ってください。


 そうして、私が本来得るはずだった幸福を、お父さまとお母さま、そして街の恵まれない子どもたちに分け与えてください。


 それが叶うなら、今すぐ死んでも構わなかった。どうせ生き長らえたところで、誰の役に立つことも誰の助けにもならない命ならば、必要ない。


『……早く、精霊さまのもとへ行けるよう、お祈りしていたのです』


 私に語りかけてきたのは、まだ十代前半の若い神官だった。この国ではとても珍しい、黒い目と赤い瞳を持つ神秘的な少年だ。


 今思えば、神官に告げるには不用意な発言だったと思う。自死を望むような発言は、教えに反していると捉えられてもおかしくなかったのだから。


 だが、彼は穏やかな笑みを保ったまま、車椅子に座る私に視線を合わせて微笑んだ。


『幼き信者よ、あなたは知らないかもしれませんが、誰も悲しませることなく精霊エルヴィーナのもとへ参る方法があるのですよ』


『本当?』


 幼い私は、彼の言葉に食いついた。少年はやっぱり完璧に整えられた微笑みを浮かべたまま、ゆっくりと頷く。


『はい。わたしと共に【精霊の微睡】を迎えればよいのです。ご存じですか?』


『いいえ……』


 このころの私は、両親と共に礼拝に訪れた際に口にする祈りの文句と、この国では双子は災いの象徴であることしか知らなかった。聖典など、目を通したこともなかったのだ。


『【精霊の微睡】というのは、精霊エルヴィーナが眠る時に愛用していたという眠り薬を飲んで、神官とともに精霊のもとへ参る儀式のことを言うのです。誰にでもできることではありません。百冊の写本を書いて、残していく信者たちのためにたくさんのお金を寄付し、敬虔な祈りを捧げ続けなければならないのですから』


『やる……! やるわ、それ!』


 まるで天啓を受けたような心地だった。迷うことなく、若い神官に二つ返事を返す。


『では、この契約書にあなたのお名前を。大丈夫、嫌になったらいつでも撤回できますよ』


 彼は優しく穏やかな声で契約書を差し出した。夢中で、署名欄に自らの名前を書き記す。事故の衝撃で利き手である右手もうまく動かせなかったから、がたがたと歪んだ文字になってしまった。


『署名したわ』


『確かに。……わたしは神官のカイルです。いずれ大神官になる身分ですので、あなたとともに【精霊の微睡】を行いましょう』


 カイルは柔和な笑みを崩すことなく、胸に手を当てて名乗った。カイルの話が本当ならば、彼も私とともに死ぬということらしい。


『ありがとうございます、カイル大神官。……百冊の写本を用意すれば、すぐにでも儀式を行えますか?』

 

 一日でも、早いほうがいい。生き長らえれば生き長らえたぶんだけ、お父さまは私にお金を使うし、人から侮蔑を受ける回数も増えるはずだ。


『そう焦らずに。【精霊の微睡】は、満二十歳を過ぎた者しか受けられないのです。わたしもまだ大神官の身分ではありませんし』


『二十歳……』


 九歳の私からすれば、遥か遠い未来の話をされている気分だった。誰にも迷惑をかけずに、悲しませることもなく死ぬには、ずいぶん時間がかかるらしい。


『精霊エルヴィーナへの祈りを一文字一文字こめて、ゆっくりと写本をお作りなさい。それが、やがては篤い信仰心の礎となるはずです』


 カイルは宥めるように私の肩に手を置いて、微笑んだ。


 私を侮蔑することも称賛することもない彼の言葉は、だんだんと感覚を麻痺させていくようでとても心地よい。


『わかりました、カイル神官。私……入念に準備を進めます』


『その意気ですよ』


 カイル神官は、優雅に長い指を組んで、まつ毛を伏せた。まるで祈りを捧げるかのように。


『――必ずやあなたを、精霊エルヴィーナのもとへお連れしますからね。エステルさま』


 ◇


 ざあ、と吹き抜ける夏風を受け、白塗りの大神殿を見上げる。今日は月が満ちているせいか、外壁は銀色に染め上がっていた。


 ……ここにソフィアがいるのかしら。


 御者にサラを屋敷に送り届けるよう伝え、私とソルは大神殿の前で馬車を降りたところだった。


 毎日多くの人々が礼拝に訪れる大神殿とはいえ、夜は人影がない。基本的に日没後の礼拝者は受けつけておらず、大礼拝堂にも入れないように施錠されている。


 だが、神官たちが暮らす居住区や、大神官たちの礼拝室は別だろう。まれにそこへ、約束のある信者を夜間に招く場合もあるという。


 ……でも、どうしてソフィアを。


 悶々と悩んでいると、ふとむき出しの肩に温かいものが乗せられるのがわかった。ソルの上着だ。


「夏とはいえ夜は冷えるからね」


 ソルは小さく微笑んでから、睨むように大神殿を見上げた。そのまなざしは先ほどから険しいままだ。


「本当は、君もサラと一緒に屋敷に戻ってもらいたかったけど、仕方ない。……カイル大神官を探そう」


「ええ。彼の個人の礼拝室へ行きましょう」


 大神官になれば、ひとりひとつずつ個人の礼拝室を与えられる。部屋ごとに格式があるようで、カイルが使っている礼拝室は大神官の中でも上位のものだった。


「こちらから行ったほうが近いわ。彼の部屋は東側にあるから」


 大礼拝堂へつながる正面の扉を目指そうとしたソルを引き留めて、別の小さな通路を指差す。あの通路を抜けてすこし歩けば、カイルの礼拝室だ。


「急ぎましょう」


 杖を必死に動かして歩き始めると、ソルがどこか面白くなさそうな顔で隣に並んだ。私は感情が顔に出ないらしいが、彼は反対にわかりやすく表情に出る気がする。何かが気に障ったようだ。


「どうかしたの?」


「いや……なんだか、通い慣れてるなって思っただけだよ」


「それは……そうよ。彼は『精霊の微睡』をともに行うはずだった大神官だもの」


 他のどの神官よりも、親しくなるに決まっている。過ごす時間が長いのだから仕方のないことだ。


「……エステルの初恋は彼だったりするの?」


 急ぎながらも、彼はいじけたように訊いてきた。本当に、こんなときに何を尋ねているのだ。


「神官さまを恋愛の対象として見る信者がどこにいるのよ。……心配しなくても、私の初恋はあなたよ」


 こんなふうに言う予定ではなかったが、勢いに乗せて言わなければ一生伝えられないような気もした。ソルの顔は見ずに黙々と歩き続ける。


「へえ……いいこと聞いた。そっか……エステルの初恋は僕か……」


 噛み締めるようにソルは繰り返しつぶやいた。言ったこちらまで恥ずかしくなる。


「もう、今はそれどころじゃ――」


 そう言いかけたそのとき、不意にソルに抱きとめられ、手のひらで口もとを塞がれる。警戒するように、彼は壁に身を寄せ、曲がり角の先に注意を向けていた。


 遠くから、げらげらと下卑た声で笑う男たちの声が聞こえてくる。話し方からして、神官ではなさそうだ。


「あの女、かなりの上玉だったな」


「用が済んだら高く売れそうだ」


「神官さまはあんな綺麗な顔して何をするおつもりかねえ!」


 途中から、ソルの手は私の口ではなく耳に移動していた。まるで子どもに悪い言葉を聞かせまいとする大人のようだ。この数日で痛感したことだが、彼はかなり過保護な傾向にあると思う。


 男たちが去ったのを見計らって、ソルは私から手を離した。そうして顔を覗き込むように表情を確認してくる。


「聞こえちゃった? ……君に聞かせるような言葉じゃなかったね」


 軽く頭を撫でられ、それだけでなんだか頬が熱くなった。私を恥ずかしがらせるためにしているわけではないのだから、余計に困る。


「……急ぎましょう。ソフィアがここにいるなら、早く迎えに行かないと」


 最初のほうの会話しか聞こえなかったが、ここにソフィアがいる可能性は高いだろう。


 ――あなたの秘密が知られてしまったようですね。始末しましょうか?


 ソフィアに「精霊の微睡」の話を聞かれたさいに、カイル大神官が囁いた不穏な言葉が蘇る。もしも私のためにソフィアを亡き者にしようとしているのならば、事情を話してすぐにでも止めなければならない。取り返しのつかないことが起こる前に、ソフィアを迎えに行かなくては。


「そうだね。僕にとっても、大事な妹だ」


 ソルとともに、再び先を急ぐ。カイル大神官の礼拝室は、すぐそこだ。


 やがて、目的の場所にたどりついた私たちは、閉ざされた銀の扉の前で呼吸を整えた。扉には月と翼の模様が彫り込まれていて、一目で神聖な場所だとわかる。


 言葉もなく、ソルとともに手を握りあう。何が起ころうとも、ふたり一緒にいればきっと大丈夫だ。


「――どうされたのです? 部屋の前で立ち尽くされて。どうぞお入りください。エステルさま」


 扉の奥から、穏やかな声がすっと響き渡ってきた。


 彼の声は、いつもよく通る。大きな声ではないのに、雪が溶けていくように静かに染み渡って、頭の中に広がっていく。


 ソルと視線を交わしあってから、ついにカイル大神官の礼拝室へ踏み込んだ。

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