第2話 ふたりの秘密

 それから、どうやって屋敷まで戻ったのかはよく覚えていない。馬車の中の空気が、地獄のように重かったことだけは肌で感じとった。


 屋敷に戻るなり、三人で私の部屋に向かった。――自主的に向かったというよりは、ほとんどふたりに連行されるようなかたちだったが。


 出迎えてくれたサラもぴりついた空気を感じ取ったようで、ずいぶん怪訝そうな顔をしていたが、すぐに紅茶と焼き菓子を用意してくれた。


「……サラ、悪いけれど席を外してくれる?」


「……では、何かあればベルを鳴らしてください」


 サラは不安げに私を一瞥した後、慎ましく礼をして立ち去っていった。部屋の中には、重苦しい空気を漂わせる私たち三人だけが取り残される。


 ソフィアは、ずっと泣いていた。綺麗な顔を涙でぐしゃぐしゃに濡らして、嗚咽を漏らしている。


「……いくら信仰心が篤いと言っても、気づくべきだったわ。あんなに何冊も聖典の写本を作るのはおかしいもの」


 並べられた紅茶やお茶菓子には手もつけず、ソフィアはうなだれたまま呟いた。私の決断が彼女を傷つけているのだと思うと、いたたまれなくなる。


「ねえ、どうして? どうして『精霊の微睡』なんか迎えようと思ったの? どうして……死のうとしているのよ!」


 ソフィアはほとんど金切り声に近い声を上げて、私を責めた。返す言葉もなく、ただただ視線を足もとに落とす。


「精霊の微睡」――それは、多額の寄付金と百冊の聖典の写本を神殿に納めた信者が、大神官とともに毒薬を含んで精霊エルヴィーナの御許へ向かう儀式だ。言ってしまえば、宗教的に認められている安楽死のようなものだった。


「精霊の微睡」を迎える決断をする人々の動機は様々だ。不治の病に冒され、苦しみが訪れる前に自ら精霊エルヴィーナのもとへ還りたいと願う者。篤い信仰心から、いち早く精霊エルヴィーナに仕えたいと考える者。


 莫大な寄付金が必要である上に、大神官ひとりを道連れにする儀式であるため、「精霊の微睡」を迎えた者の数はそう多くはないが、皆、切実な願いから寿命を縮める決意をしていた。


 私が「精霊の微睡」を迎える決意をしたのは、火傷を負った九歳のときだった。


 最低でも二十歳にならなければ「精霊の微睡」を迎えることはできないため、残り十一年の人生だと割り切って今日まで生きてきたのだ。そうしなければ、耐えられなかった。


 ……でも、ソルとソフィアには、知られたくなかった。


 ふたりだけではない。両親にも使用人にも、誰にも伝えずに「精霊の微睡」を迎えるつもりだった。優しい彼らは私の決断を知れば、必ず止めようとするだろうから。


 瞼を閉じ、ゆっくりと長い息を吐く。


 こうなってしまった以上、ソルとソフィアに隠し通すのは無理だ。ソフィアの怒りを収める意味でも、ここは正直に話す他ない。


「……黙っていたのは、申し訳なく思っているわ。驚かせてしまって、ごめんなさい」


「そんな謝罪が聞きたいわけじゃないわ!! どうして……!? いつから、そんなふうに考えていたの?」


 ソフィアは子供のように泣きじゃくっていた。彼女を忘れたふりをしている私のことを、まだ友人だと思ってくれているらしい。


「『精霊の微睡』を迎えようと決意したのは、九歳のときよ。火傷を負って……美しかった顔も、自由に動ける足も失って……死にたかったの。助からなければよかったって、何度も思ったわ」


 優しいお父さまが美しい贈り物をくれるたび、療養所の人々が優しくしてくれるたび、ソフィアが輝かしい笑顔を見せるたび、死にたくなった。


 醜い私には、その何もかもが別世界の輝きのように見えて、いつしか心を動かすことが何よりの苦痛へ変化していた。


「でも……自ら命を断つことを精霊エルヴィーナはお許しになっていないから……『精霊の微睡』に目をつけたのよ。これなら、誰からも認められた清廉な死だもの。今まで生きてきたのは、『精霊の微睡』を迎えることができる二十歳を待っていただけ。それだけ、だったのだけれど……」


 このところの私は揺らいでいる。初恋と、懐かしい友情のせいで。


「でも! あなたはソルと結婚したじゃない! 私を助けてくれたじゃない! 生きていてもいいと思えるような幸福な瞬間が……本当に一瞬もなかったの? ずっと、死にたいと思いながら私たちと一緒にいたの!?」


 そんなことない。その証拠にこのところの私には迷いが生じていたのだから。


 でも、その揺らぎを彼らに打ち明けたところで、私の手もとには何も残らない。あと一年もせずにふたりは私を残して幸せになって、私はまたひとりぼっちになる。


 ……そんな人生をこの先も続けていくなんて、やっぱり耐えられないわ。


 やはり私のような人間は「精霊の微睡」を迎えて、さっさと眠るべきなのだ。冷静になって考えてみれば、「精霊の微睡」を受けるかどうか迷っていたことが、とても馬鹿らしく思えてくる。


 ……そうよ。これは、この心の揺らぎは、きっと一時の気の迷いなのだわ。


 そうでなければ、いけなかった。わずかに逡巡したのち、意を決して彼らを突き放す言葉を口にする。


「あなたたちと関わったのは、都合がよかったからよ。――お金で解決すれば、後腐れがないもの」


 嘘をついた。私の人生で見ても、いちばん大きな嘘だ。


 だが、こうでも言わなけれみじめに泣いて、「ひとりにしないで」とふたりに縋ってしまいそうで怖かった。

 

 ソフィアは、ひどく傷ついたような顔をしていた。涙に濡れた瞳を見開いて、鮮烈な怒りを露わにしている。


「……そうまでして、どうして死にたいの? 顔の傷が死ぬ理由になる? 杖を使って歩けるのに、足が不自由なことがそんなにいけない?」


 ずきり、と氷のかけらで胸が抉られるような気がした。


 彼女にとってはきっと、わずかな悪意もない言葉なのだろう。その純真さが、毒のように体を蝕んでいく。


「あなたには……あなたにだけは言われたくないわ! ソフィア。私の傷の醜さと不自由さは、あなたには絶対に理解できない!」


「っ……」


 私が声を荒らげたのが珍しかったのだろう。ソフィアは言葉に詰まったように黙り込んでしまった。


 心の中が、ぐちゃぐちゃだ。何年ぶんもの感情を一気に動かしたような疲労感に見舞われ、息が浅くなる。みっともなく泣き喚きたくなるような衝動をぐっと堪えて、重苦しい空気を耐え忍んだ。


「ソフィア、もういい。――エステルとふたりにしてくれ」


 神殿で会ってからというものずっと黙り込んでいたソルが、静かに言い放った。


 恐ろしいほどに冷えきった声に、ソフィアはびくりと肩を震わせ、そのまま部屋から出ていく。


 いちばん怒りを露わにしていたソフィアが去って、すこしだけ空気が和らいだような気がした。何度か深呼吸をして、ぐるぐると溶けてまじりあう感情を落ち着かせる。そうして、いくらかしてから無理やり笑みを取り繕った。


「……お騒がせしたわ、ソル。驚かせて悪かったけれど、そういうことだから……。その、ソフィアとはなんとかもういちど話しあってみるわね」


 ぎこちなく頬を緩める私を、ソルは静かに見ていた。


 深い紫の瞳が、夜が訪れる直前のように暗く翳っている。なんの感情も宿さない、まさに氷のようなまなざしだった。


 見慣れない冷たい表情に、思わず再びまつ毛を伏せる。どうすればこの場を切り抜けられるか考えていると、深く長い溜息が聞こえた。


「あー……。――もう、いいか。どうなったって」


「え?」


 ソルの口から飛び出たとは思えない気だるげな言葉に驚いたのも束の間、次の瞬間には彼に抱き上げられていた。

 

 彼は迷わず寝室へ向かうと、整えられた寝台の上に乱雑に私を投げ出した。


 彼らしくもない乱暴な仕草に目を瞬かせていると、勢いよく押し倒され、シーツに縫い止められるように両手を押さえつけられてしまう。


「ソ、ル――?」


 彼の名を呼ぶ私の声を奪うように、唇が柔らかなもので塞がれた。それがソルの唇だと気づいたときには、薄手のベールが煩わしそうに引き裂かれるところだった。


 唇を合わせるだけのくちづけは、すぐに噛みつくような乱暴なものへ様変わりした。唇を噛まれ、閉じた歯の奥を無理やり暴かれる。吐息すらも奪うような性急なくちづけに、すぐに視界が歪んだ。


 息苦しくて、思わず手足をじたばたと動かしてしまう。それが抵抗の証に見えたのか、手首を掴む彼の手にいっそう力がこもった。


 いつもは包むように優しい彼の手が、こんな強い力を秘めていたなんて知らなかった。彼はいつでも、壊れものを扱うかのような繊細な仕草で私に触れてくれていたのだと思い知る。

 

 呼吸が奪われ、指先が痺れる。くらくらとひどい眩暈を覚え始めたころ、ようやくソルはわずかに唇を離した。


 古傷を晒し、涙目になっている私の顔はひどいことになっているだろう。そんな至近距離で見つめないでほしかった。


 彼は唇についた私の血を舌先で舐めとると、恍惚を覚えたように微笑んだ。


 太陽のように朗らかな、なんて表現は今の彼には程遠い。凄絶な色気の滲む恐ろしいほど美しい微笑みに、氷漬けにされたように動けなくなった。


「この二年を宝物のように思って生きていこうと思ってたけど、やめた。――やっぱり君は僕のものにする」


 一方的な宣言に、目を丸くする。彼は、いったい何を言っているのだろう。


「あなたのものに、って……? どういうこと? あなたには、ソフィアがいるでしょう?」


 ソフィアという恋人がいながら、私との婚姻関係も続けようというのだろうか。


 レヴァイン侯爵家の財産が魅力的に思えたのだとしても、それは、ソフィアにも私にもあまりに不誠実だ。この歪な婚姻は、金銭の発生する契約だからこそ成り立っているに過ぎないのに。


「そうだなあ……どうせもう君を屋敷から出すつもりはないから、なんでも教えてあげるよ。――ソフィアは恋人じゃない。僕の双子の妹だ」


 さらりと不穏なことを立て続けに言われ、頭の中がかきまぜられるようだ。


「双子、の……? あなたと、ソフィアが……?」


 精霊エルヴィーナを信じるこの国では、許されない存在だ。しかも貴族の家で生まれた双子がこの歳まで生き長らえている例なんて、聞いたことがない。

 

 私が孤児院の院長とともに助けているのは、平民の双子が主だ。世間体を重んじる貴族家では、私たちの耳に届く前に既に双子は始末されていることがほとんどだった。


「そうだよ。神殿に知られれば僕もソフィアも殺されるだろうから、兄妹からいちばん遠い言い訳を使って会っていた」


 それが「恋人」だったということだろうか。衝撃の事実に、心臓が早鐘を打っていた。


 ソルの長い指が、露わになった私の髪をゆっくりと撫でる。掠めるようなその仕草に、髪に感覚があるわけでもないのにびくりと体が跳ねた。


「敬虔な信者である君からすれば、僕の存在はさぞかし悍ましいんだろうね」


 翳った瞳のまま、彼は自嘲気味な笑みをにじませた。


「そんなこと――」


 反論しようとした唇を、再びくちづけで塞がれる。先ほど噛まれた傷が、じくじくと鈍く痛んだ。


「でも残念。忌まわしい双子として生まれた男を、君は夫にしてしまった。……清廉な君を汚しているのが僕だと思うと、たまらない気持ちになるな」


 くすくすと笑いながら、彼は私の髪を解き、弄ぶように指先に絡ませた。妙に艶かしいその仕草にふい、と顔を背ける。


「二年で君を解放する契約だったけど、こちらから破棄させてもらうよ。死ぬくらいなら、君の時間はまるごと僕がもらう。……絶対に、君を死なせるものか」


 笑うような声が降ってくる。私の知らない、ソルの声だ。


 ぎし、と寝台が軋む。追い討ちをかけるように、彼は耳もとに顔を寄せて囁いた。


「――未来永劫、君は僕のものだ。エステル」

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