第3話 精霊祭

 ソルとはどこか気まずいまま、精霊祭の時期がやってきた。


 精霊祭は、その名の通り精霊エルヴィーナを祀り、感謝を捧げる祝祭だ。街では食べ物や雑貨の屋台がずらりと並び、王城では盛大に舞踏会が開かれる。


 この時期の舞踏会は、精霊エルヴィーナの象徴である月を意識して、会場全体が夜空に染まったかのような装飾が施されるので、毎年楽しみにしていた。


 薄紫の生地のドレスを纏い、姿見の前に立つ。院長が作ってくれたレースでできたベールを被り、ドレスの生地と合わせた滑らかな手袋をつけ、首もとには実家から持ってきた銀の首飾りを飾った。


 あとは、髪飾りと杖をどうするかだ。


 ……ソルの恋人が作ったものと思うと、どうしても気が引けてしまうわ。


 しばらく迷った末、髪飾りはつけることにした。ソルから直前にもらったものであるし、髪に飾ってしまえばすくなくとも私は見なくて済む。


 銀の髪飾りは、私の蜂蜜色の髪によく似合っていた。宝石の大きさも、時折煌めく程度であるのがなんとも品がある。悔しいが、私好みの品だった。


 ベールを付け直し、サラを呼ぶ。ソルが恋人と会っているという一件を報告してから、彼女はいっそう私に親身になった。


「サラ、この間の茶色い杖を出して」


「かしこまりました」


 サラは迷いもなく、私が以前使っていた飾り気のない杖を取り出してきた。


 だが、私に手渡す直前に髪飾りを見て、不思議そうな顔をする。


「奥さま、そちらの美しい髪飾りといつものあの白い杖は揃いの意匠とお見受けしますが、こちらを使うのでよろしいのですか?」


「ええ……いいの」


 この髪飾りはソルの恋人が作ったものなのだといえば、サラはまた私のために怒ってくれるだろう。でも、同情を誘いたいわけではない。私が健気に耐えている、だなんて絶対に思ってほしくなかった。


「旦那さまは玄関広間でお待ちです」


「そう」


 ……今夜一晩、何を話せばいいかしら。


 この二週間は、精霊祭の準備で忙しいと理由をつけて最低限の会話だけで済ませていたが、今日ばかりはそうもいかない。


 他の令嬢たちのようにくるくると踊ることもできない私は、ダンスで間を持たせることもできないのだ。かと言ってソルは私を露骨に無視するようなひとでもないから、彼にはまた苦労をかけてしまうだろう。


 鈍い音のする杖をこつこつとついて、玄関広間へ向かう。


 そこには、深い黒の礼服を身に纏ったソルが佇んでいた。銀の髪を片側だけ上げて、胸もとには私のドレスと同じ色のハンカチが飾られている。


 ……なんてすてきなの。


 ソルはどちらかといえば灰色や薄い紺などの淡い色味の衣装を身に纏っていることが多かったから、黒一色というのは初めて見た。くっきりとした漆黒に包まれると、彼の美貌がいっそう際立つようで、隣に立つだけで緊張してしまう。


「ソル、お待たせしたわ」


 杖の音を響かせながらソルに近寄る。彼は姿を認めるなり、はっとしたように目を見開いた。


「エステル……すごくきれいだ」


「そうでしょう? 腕に寄りをかけて仕立ててもらったの」


 今までどおりを装って、彼の前でドレスを摘んでみせる。今日のために仕立てたこのドレスは、ちょっとした布の動きも計算され尽くしていて、美しいシルエットだった。


 ソルは、目を細めてじっと私を見ていた。まるで、誰かと重ね合わせようとするかのように。


「……髪飾りもつけてきてくれたんだね。ありがとう」


「……お礼をいうのは私のほうよ」


 今夜、彼は何度、この髪飾りに目を留めて恋人に想いを馳せるのだろう。考えるだけで、ずんと胸が重くなる気がした。


「行こう、エステル」


 ソルが、黒手袋をつけた手を差し出す。わずかに躊躇ってから、そっとその指先に自らの指を重ねた。


 年にいちどの、精霊祭が幕を開ける。


 ◇


 精霊祭の舞踏会は、参加者たちで聖歌を歌ってから始まる。広間の奥に設置された玉座の前には、ずらりと純白の神官服を纏った神官たちが並んでいた。中には顔馴染みのカイル大神官もいるようだ。


 全員で聖歌を歌い終えると、ようやく舞踏会のはじまりだ。まずは王族たちが広間の中心で踊る。その中には輝かしい金の髪をした王太子とその婚約者の姿があった。


 ――お前、ずいぶん綺麗な顔をしているな。大人になったら妃にしてやる。


 火傷を負う前、王太子殿下にそう一方的に宣言されたことがある。


 母は王太子殿下からの求婚だと喜んでいたけれど、私は憂鬱だった。こんな高慢なひとの妻になるなんて御免だ。幼心に、そう思ったことは今でも鮮烈に覚えている。


 ……彼と結婚せずに済んだのは、火傷を負って得られた唯一の利点かもしれないわね。


 ふ、と笑みをこぼして広間の中心を眺めていると、隣から視線を感じた。何気なく首を傾けてみれば、ソルと目が合う。


「……どうかした?」


「いや……なんでもないよ」


 誤魔化すようにつぶやいて、今度は彼が広間の中心に注意を向けた。その横顔をしばらく見つめたのちに、そっと髪飾りに触れてみる。


 ……恋人のことでも考えていたのかしら。


 ここに、愛しい女性と立っている光景を想像していたのかもしれない。


 それくらい、精霊エルヴィーナを祀るこの国では、精霊祭は特別な日だ。子どものころは家族と、成長すれば恋人と過ごすのが習わしだった。きっと街でも家族連れや恋人たちがあふれかえっているだろう。


 昨年まで私を連れ出してくれていたお父さまも、今年はお母さまとふたりで過ごしているはずだった。数年ぶりに、邪魔者なしの精霊祭の夜を楽しんでいるだろう。


 王族たちのダンスが終わり、参加者たちがぞろぞろと中心へ移動して新たな音楽に合わせて踊り始める。


 私は踊れないので、人々とは反対に壁際に移動して、広間で繰り広げられるダンスを眺めるのが常だった。今日も、そうするのがいいだろう。


「ソル、私は隅のほうへ行くわ。サラもいるから、あなたはすこし見てきてもいいわよ」


 街に住んでいるという恋人がここにいるとは思えないが、せっかくの精霊祭を私の隣で台無しにする必要はない。友人や令嬢たちとも会話をしたいだろう。そこに私がいては邪魔なことはわかっていた。


「それなら、僕も行くよ。あのあたりなんて涼しそうでいいね」


 ソルは私の手を取ると、バルコニーのそばの角を目掛けて歩き出した。


 彼の言う通り、風が通ってずいぶんと爽やかだ。思わず深呼吸をして、頬を緩める。


「いい場所を見つけてくれたのね。ありがとう」


 近くには休めそうな椅子も用意されている。私には完璧な場所だ。


「せっかくだ。ちょっとだけ踊ろうよ、エステル」


 ソルは小さく微笑んで、手を差し出す。思わず、目を丸くして彼を見上げてしまった。


「でも、私……足をうまく動かせないのよ」


「僕に体重を預けて、ゆっくり足踏みするだけでもいい。きっと楽しいよ」


 確かに、多少ぎこちないが杖なしで歩けないわけでもない。他の令嬢たちのように難しいステップは無理でも、ゆっくりと足を動かすことくらいならできそうだった。


「でも……きっと優美とはかけ離れた動きになるわ。あなたは恥ずかしくないの?」


「僕から誘っているんだ。そんなわけない」


 都合よく、音楽が切り替わる。舞踏会の序盤にふさわしい楽しげな曲だ。


「お手をどうぞ、エステル」


「え、ええ……」


 半ばソルに押しきられるようにして、杖を椅子に立てかけ、彼の手を取る。彼の手に支えられるようにして、恐る恐る足を踏み出した。


「そうそう、その調子」


 震える一歩すらも、彼は褒めてくれる。他の人たちの速さの半分にも満たないゆったりとしたステップだったが、ドレスがゆらゆらと揺れて、思ったよりもしっかりと踊っているような感覚があった。


「ふふ……すごい、本当に踊っているみたいだわ」


「じゅうぶんすてきなステップだよ。自信を持って」


 恋慕うひとに舞踏会でそんなことを言われたら、舞い上がるなと言うほうが無理だ。


 舞踏会で踊るなんて、自分には一生叶わないと思っていたのに、こんなかたちで実現するなんて。


「夢みたい……」


 思わず、満面の笑みがこぼれてしまう。嬉しくて、数年ぶりにはしゃいでしまった。


「っ……」


 ソルは、不意に息を呑んだかと思うと、わずかに視線を逸らして踊り続けた。


 よく見ると、耳の端が赤い。私が相手でなければ照れているのかと思うような反応だ。


「そんなに喜んでくれるなら、誘ってよかった。……これからはいつでもこうしよう」


 私の手を取る彼の手に、わずかに力がこもる。心なしか、ぐ、と距離が縮められたような気がした。彼の優しい香りに包まれて、どきりとする。


 ……ダンスってこんなに近づくものなのね。知らなかった。


 気軽に受けてしまったが、どきどきしすぎて心臓にひどく負担がかかりそうだ。


 夏のせいではない頬の熱さを自覚して、軽く俯く。彼の吐息を頭上に感じて、くすぐったかった。


「エステル……この間はごめん。驚かせてしまって」


 ぽつり、とソルがこぼす。この間、とはこの髪飾りをくれた夜のことだろう。


 ……ずっと、気にしてくれていたのね。


 悪いのは、勝手にみじめな気持ちになった私だったのに。あのくらい、すべて覚悟の上で彼の時間を買ったのだから、取り乱してはいけなかったのだ。


「いいえ……私が、大袈裟にしすぎたの。こちらこそごめんなさい」


 おずおずと謝罪の言葉を口にすれば、彼はゆっくりと首を横に振った。そのまま、神秘的な紫の瞳に囚われる。


 目が合った瞬間、その瞳にわずかに知らない熱が帯びた。決して手に入らない何かに焦がれるような、切実なまなざしだ。


「いつか……君が、ふたりきりのときだけでも素顔を見せてくれるようになったらいいなって、思ってるんだ。……さっきの笑顔だって、本当は君の顔を隠すものがない状態で見たかったよ」


 ささやくような声に、ぎゅう、と胸が締めつけられる。まるで私の傷ごと受け入れてくれるような彼の言葉は、ただただ温かかった。


「……私の顔なんて見ても、見苦しいだけよ」


 苦笑まじりに誤魔化して、視線を逸らす。


「美醜なんて関係ない。……君の顔だから見ていたいんだ、エステル」


 ソルは、私の顔を覗き込んで告げた。本当に、憎々しいほど整った顔立ちだ。


 ……その台詞を、あなたが言うのね。


 美しいソルに憧れると同時に、きっと私は心のどこかで嫉妬しているのだ。誰からも賞賛される美貌を、何の苦労もなく保ち続けることができる彼を、羨ましく思っているのだ。


 返事に迷っているうちに、曲が終わった。お辞儀をしあう人々に倣って、私も片手でドレスをつまむ。


「……ふふ、楽しかったわ。ありがとう、ソル」


 なるべくにこやかに告げれば、彼はわずかに眉を下げて微笑んだ。返事を誤魔化されたことに気づいているのだろう。


「もう一曲踊ろうか? 今度は抱き上げる動作があるから、もっと華やかだよ」


 それは魅力的だが、このあたりで線引きしたほうがいいだろう。


 このままでは、もっともっとソルを好きになってしまいそうだ。


「続けて踊るのはさすがに無理みたい。サラと一緒にすこし休んでいるわ」


 椅子の上から杖をとり、ソルから身を引く。


 どこか寂しそうに表情を曇らせる彼を見ると、胸が痛んだ。私のような者も慈しんでくれるのだから、彼は本当に優しいひとだ。


 ……私に執着されて解放されない可能性なんて、微塵も考えていないのね。


 人の悪意を疑わないその純真さもまた私にはないもので、眩しかった。だめだ。好きが深まるばかりじゃないか。


「じゃあ、何か飲み物を取ってくるよ。サラと待っていて」


「……ありがとう。そこのバルコニーへ出ているわ」


 私に構わず、友人や令嬢たちのところへ行けばいいのに。契約とはいえここまで私に構われると、心苦しくなる。


 ソルに背を向けて、さっそくバルコニーへ向かった。


 広間を出た途端に、真夏のぬるい風が吹き抜ける。ゆらゆらと煽られたベールをわずかに押さえながら、空を見上げた。


 ……綺麗。


 精霊エルヴィーナを祀る夜にふさわしい、眩いほどの満月の夜だった。あふれんばかりの月光のせいで、星はほとんど見えない。


 くるりと体の向きを変え、バルコニーの柵に寄りかかる。ここからでも広間の様子はよく見えた。


 飲み物をとりに行ったソルは、早速若い男女の群れに捕まっているようで、戻ってくるには時間がかかりそうだ。


 ……すこし、息抜きになればいいけれど。


 彼の息抜きの時間を奪っているのは私なのに、どの口が言っているのかと自分でも思う。でも、気を張りすぎて彼が心や体を壊してしまうのは嫌だった。


 広間を横目に再び体の向きを変え、バルコニーに手をかけた。まぶたを閉じて、夜風を受ける。この国の夏は寝苦しくなるほど暑くなることはない。年中過ごしやすい気候だった。


 サラは黙ってバルコニーの隅で私を見守ってくれている。穏やかな時間だった。


 どれくらい、そうしていただろう。広間のほうから足音が近づいてくるのを感じて、わずかに後ろを振り返る。


「ソル、ありがとう――」


 そう言いかけて、はっと口をつぐむ。バルコニーへ入ってきたのは、ひと組の男女だった。

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