第4話 王子の婚約者
「久しぶりだな、レヴァイン侯爵令嬢。金で買った旦那さまはどこに行ったんだ?」
下卑た笑みを浮かべて、見知った青年がこちらを眺めていた。せっかく品のある声なのに、言葉選びですべて台無しだ。
「ローレンスさま、ひどいことをおっしゃるのですね?」
くすくすと殿下の肩にもたれかかって笑うのは、彼の婚約者であるノーラン伯爵令嬢だった。燃えるような赤毛と、ルビーのような鮮やかな赤の瞳が目に焼き付くように鮮やかだ。
……いちばん会いたくない組み合わせだったわ。
苦い気持ちを覚えながら、深く膝を折る。
「王太子殿下、ノーラン伯爵令嬢、ご機嫌麗しゅう存じます」
ドレスをつまみながら頭を下げていると、ふたりが距離を詰めるのがわかった。
「驚いたよ、レヴァイン侯爵令嬢。君のような者でも、結婚できるんだな」
「……よい縁に恵まれましたもので」
「でも、お相手はあのソルさまなんて。いったいどんな手を使ったのですか? まさか、本当にお金で?」
図星であるだけに、何も反論できない。いずれ王太子妃になるひととはいえ、彼女はまだ伯爵令嬢の身分であるわけだから無理に答えなくてもいいだろう。
「イヴリン、あまり聞いてやるな。わたしたちと違って、幸せな理由であるわけがないだろう。『傷痕姫』が、まっとうに幸福になれるわけがない」
「確かに、今もひとりぼっちですものね」
くすくすと笑いながら、ノーラン伯爵令嬢はずい、と私との距離を縮めた。
「うーん、ベールのせいで顔はよく見えませんね。『傷痕姫』の傷って、実際のところどのくらい酷いのですか? 噂には聞くけれど、見たことがあるひとはすくないですもの」
それもそうだ。私は人前では絶対にベールを取らない。ソルやサラの前でも取らないくらいなのだから。
直近で唯一ベールを取ったときといえば、ソルとの結婚式で誓いのくちづけをしたときだ。だが、あの大教会は祭壇奥のステンドグラスから陽光をたっぷりと取り入れるようになっているから、参列者たちには私たちの姿は影になって、顔までよく見えなかっただろう。
つまり、社交界で私の傷の具合を詳しく知る者は誰もいないのだ。ノーラン伯爵令嬢が興味をもつのも、無理はないのかもしれない。
「そうだな。レヴァイン侯爵令嬢、私との婚約を逃した忌まわしい傷がどんなものなのか、イヴリンに見せてやれ」
「それは――」
礼をするために摘んだドレスを、思わずぎゅうと握りしめる。いくら殿下のご命令でも、従いたくはなかった。
「……輝かしいおふたりにお見せするには、あまりに見苦しい傷です。どうかご容赦を」
深く頭を下げて懇願するも、帰ってきたのは嘲笑だけだった。
「いいから、ベールを上げてみろ」
ぐい、と殿下に肩を掴まれ、距離が縮まる。そうして、彼は笑うように囁いた。
「――傷が大したことなければ、寵姫にしてやってもいいぞ。それくらい、幼い日のお前は美しかった。お前の血を継いだ王子や姫がひとりふたりいても悪くはないしな」
ぞわり、と瞬時に全身の肌が粟立つのを感じた。胸を焼くような吐き気が込み上げる。
……なんて、低俗なひとなの。
ベール越しに、きつく睨み返す。相手が王族だろうが関係ない。私の尊厳が傷付けられようとしているのだ。こんなひとの婚約者候補に一時的にでもなってしまったことが、悔しくてならない。
「さあ、顔を見せてみろ」
殿下の手が、私のベールに伸びる。思わず庇うように頭の上に手を上げるも、無駄な抵抗だとわかっていた。
……嫌! やめて!
声にならない叫びを上げた瞬間、バルコニーに慌ただしい足音が響いた。
「エステル!」
私を含め、この場にいる全員の視線が広間から駆け寄ってきたそのひとに注がれる。
駆け寄ってきてくれたのは、他でもないソルだった。
ソルはせっかく整えられていた銀髪を乱して、肩を上下させていた。その背後にはサラが控えている。彼女がソルを呼びに行ってくれたのだろう。
「これはこれは……次期レヴァイン侯爵どの。いい夜だな」
殿下はぱっと私から手を離し、何事もなかったかのように笑う。肩を強く掴まれていたせいで、反動で背後によろけてしまった。
「エステル!」
ソルは殿下にもノーラン伯爵令嬢にも目をくれずに、真っ先に私のもとへ駆け寄ってきてくれた。そのまま、彼らから守るようにそっと肩を抱き寄せてくれる。
「怪我はないか? ごめん、何と言われようとも君をひとりにするべきではなかったのに……」
ソルが、案じるように私の頭から爪先まで確認する。過保護な行動に、ふっと緊張の糸が解けていくのを感じた。
彼がいるならもう大丈夫だ。そう、無条件に安心してしまう。それくらい、私の中で彼は信頼できる存在になっていたらしい。
「ソル……平気よ。怪我なんてしていないわ」
「ごめん、ごめんね、エステル……」
ソルは私を抱きしめたまま、私の頭に顔を寄せた。いつになく近い距離に、どくん、と心臓が跳ねる。
「王太子殿下、これはどういうことですか」
ソルは冷たく厳しい声で、殿下を睨みあげた。臣下としては無礼に捉えられてもおかしくない行動だ。
「大袈裟だな……ほんの冗談だろ? かつては縁談話が上がった仲だから、つい懐かしくなってしまっただけさ。な? レヴァイン侯爵令嬢?」
殿下が威圧的な目で私を見る。肯定するように促しているのだろう。
言葉もなく頷いていると、私を抱きしめるソルの手にぎゅ、と力がこもった。
「殿下……エステルを傷つけようとしたこと、レヴァイン侯爵家は――僕は、絶対に忘れませんからね」
ぞっとするほど冷たいソルの声に、目の前のふたりがびくりと肩を跳ねさせる。守られているはずの私でさえ、逃げ出したくなるような恐怖を覚える声音だった。
「っ……何よ、『傷痕姫』のどこがいいのよ!」
ノーラン伯爵令嬢が、顔を真っ赤にして金切り声を上げる。ソルは彼女の言葉は届いていないとでもいうふうに、私の頭に再び顔を擦り寄せていた。
「っ……君は、実に無礼なやつだな。こちらこそ覚えておこう、次期レヴァイン侯爵」
殿下も続けて捨て台詞を告げて、ふたりはくるりと広間へ戻っていった。
ようやく彼らがいなくなったのを確認して、長い息を吐く。ひどく疲れてしまった。
「奥さま……大丈夫ですか?」
サラは、泣き出しそうな顔をしていた。私が侮辱されている一部始終を彼女は見ていたのだ。主人に忠実な侍女である彼女には、情けない場面を見せてしまった。
「サラ……驚かせて悪かったわね。あなたがソルを呼びにいってくれたのでしょう。本当に助かったわ」
「エステル、あんなふうに王太子に掴まれて、何を言われたんだ? 正式に抗議する」
ソルは私と向かいあって、そっと肩に手を乗せた。手袋越しにも伝わる彼の手の温かさで、王太子に掴まれて汚れていた箇所が浄化されるような気がした。
「……顔を見せろと言われただけよ。思ったより傷がひどくなければ、寵姫にすると言われたわ。ノーラン伯爵令嬢がそばにいるのに、ひどいひとよね」
なんてことないと主張するように軽く笑いながら告げれば、ソルは悔やむように顔を顰めた。
「君を寵姫に? 冗談じゃない。人の妻になんてことを……」
苦々しい表情で、ソルは殿下が去っていった広間のほうを睨んでいた。明らかな怒りのにじんだ声に、不覚にもときめいてしまう。
……仮初の妻なのに、そんなに怒ってくれるなんて。
やっぱり、彼は優しいひとだ。彼が怒ってくれたことが嬉しくて、殿下に言われた悍ましい言葉などもう忘れてしまった。
「ソル、ありがとう。……疲れてしまったから、今夜はもう帰りましょう。サラ、支度してくれる?」
「はい、馬車を呼んで参ります」
一足先に、サラもバルコニーから出ていく。残されたのは私とソルだけだ。
私たちもサラのあとを追って門を目指してもいいはずなのだが、ソルは私からなかなか腕を離そうとせず、ぴくりとも動かない。
「ソル……?」
ソルの腕のなかでわずかに体の向きを変え、彼の顔を見上げる。彼は、いつかと同じひどく翳った瞳をしていた。
「エステル……もうこんな場所に来るのはよそう。君に群がる不快な人間が多すぎる。ダンスなら、屋敷でふたりきりで踊ればいい」
昼も夜も眩いほどの明るさを保つ彼にしては、珍しい発言だった。
……確かに、私を連れて歩くのは苦労するでしょうね。
どこに行ったって、「傷痕姫」は疎まれるのだ。きっと今日と似たようなことがこの先も起こるだろう。ソルはそれを想像して、うんざりしてしまったのかもしれない。
「悪かったわ、ソル。……お詫びというわけではないけれど、屋敷に帰ったあとの時間はあなたの好きなように使って」
暗に、恋人のもとへ行ってもいいと伝えたつもりだ。ただでさえ今夜は精霊祭であるのだし、形式上の妻が王太子に絡まれる、なんて面倒ごとを経験したあとではなおさら恋人に会いたいだろう。
だが、ソルは翳った瞳のまま私を見ると、どこか意味ありげに笑った。朗らかさよりも色気のある表情に、どきりとする。
「本当に好きにしていいの? ……じゃあ君の時間をひとりじめさせてもらおうかな」
怪しげな甘さを孕んだ声に、かあっと顔が熱くなった。演技だとわかっていても、動悸が収まらない。
……もう誰も見ていないのだから、演技なんてする必要ないのに。
「……この先の時間は、そういうことをしなくていいと言いたかったの。とにかく、帰りましょう」
ふい、と視線を逸らして、ソルよりも先に歩き出す。
私は、今日も彼の徹底した「夫」役に翻弄されてばかりだ。
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