第三章 旦那さまの恋人
第1話 誕生日の贈りもの
「ずいぶん書き溜まりましたね」
大教会の礼拝室の中、カイル大神官は私が書き綴った聖典の書き写しの山を見つめる。
もう、八十冊は書いただろうか。おかげで聖典の中身はほとんど暗記してしまった。
「『精霊の微睡』には必要なことですから。ここまで続けられたのも、カイル大神官のおかげです」
指を組みながら、敬虔な信者らしく感謝を捧げる。カイル大神官は、常に浮かべている笑みの中にわずかに慈愛の色をにじませた。
「嬉しいことを言ってくれますね」
こつ、と彼は陽光をたっぷりと取り込む大きな窓のそばに近づいた。もう、すぐそこまで春が迫っている。
「あと、一年ですか」
カイル大神官の言葉に、声もなく頷いた。ここまで、ずいぶん長く感じた。
「待ち遠しく思っておりますよ、エステルさま」
「……はい。そのときは、どうぞよろしくお願いいたします。カイル大神官さま」
私が「精霊の微睡」を行うまで、あと一年。
つまり、ソルとの契約結婚の期間は、折り返しを迎えていた。
◇
この一年、ソルとはつかず離れずの絶妙な距離感を保ってきた。
公の場では――なぜかふたりきりのときもそうだが――彼は完璧に「妻を溺愛する夫」を演じてくれたし、私もそれに満足していた。恋人の影は何度もちらついたが、当然指摘することはせずにここまで穏やかにやってきた。
残りの一年も、こんなふうに何事もなく過ごしていくのだろう。ともに大神殿へ通い、彼に知られないようにこっそりと双子を救って、聖典を書き溜め、彼と食事をして眠る。ほとんど同じことを繰り返している毎日だが、私にとっては人生でもっとも輝かしい二年間になることは、間違いなかった。
……もっとも、ソルにとってはできれば忘れてしまいたい二年間よね。
別に、細かいことは忘れてくれたっていいのだ。私の存在が、彼の心の片隅に刻み込まれていればそれで。一日一枚の金貨程度で、彼の心をずっと縛り付けたいだなんて思っていなかった。
「奥さま」
礼拝室の外で待っていたサラと合流する。この一年の間に、彼女はますます私に忠実な侍女となっていた。今では私の毎日に欠かせないひとだ。
「待たせたわね、サラ。行きましょうか」
「はい」
時間が許す限りソルが礼拝についてきてくれるのだが、今日はお父さまとお仕事の話があるらしく、代わりにサラが来てくれた。
……今日に限っては、サラがきてくれて助かったわ。
何を隠そう、今日はソルの二十一回目の誕生日なのだ。
普段であればこのまま屋敷に戻るところだが、今日はサラとともに街に出かける約束をしていた。もちろん、ソルの誕生日を祝う贈り物を探すためだ。
馬車に乗り込み、街へ走らせながらぼんやりと考え込む。
……何がいいかしら。やっぱり、高いものがいいわよね。
宝石商を屋敷に呼んでもよかったが、帰ってきたソルと鉢合わせても困る。せっかくの贈り物なのだ。すこしは驚かせたかった。
「……本当に、奥さまには頭が上がりません。よそに女を作っているというのに、奥さまはお誕生日の贈り物まで用意されるなんて」
「あら、ソルも私の誕生日を祝ってくれたわ。そのお返しよ」
サラは、納得がいかないとでも言わんばかりに私を見ていた。
ソルからは数えきれないほどの贈り物をもらっているが、誕生日はさらに気合が入っていた。非常に緻密な彫刻が施された、オルゴールをくれたのだ。下手な貴金属より、ずっと値が張るものだとひと目でわかった。
……まあ、それも恋人の作品なのでしょうけれど。
悔しいが、ソルの恋人は相当優秀な職人らしい。ソルの恋人の作ったものなんてみじめになるから使いたくないと思っていたのに、どの品も本当にすばらしく繊細で、いつしか「品物に罪はないから」と言い訳をつけて素直に受け取るようになっていた。オルゴールもまた、今では私のお気に入りだ。
「とりあえず、このあたりで降りるわ」
街の広場が見えてきたあたりで馬車を止め、馬車ごと御者を屋敷へ戻す。ここからであれば、すこし歩けば屋敷にたどり着けるのだ。風に春の香りがまじり始めたから、きっといい散歩になるだろう。
「旦那さまにふさわしいかはともかくとして、貴金属の店はこちらの大通りに並んでおります」
街に通い慣れたサラが案内してくれる。私は街に出てきたことなんて数回あるかどうかだから、彼女に付き従うのがよさそうだ。
サラに連れられて大通りを進んでいると、道ゆく人々の視線を感じた。今日はあまり貴族らしくない軽装にしたのだが、顔を覆い隠すベールが人目を引くのだろう。仕方のないことだった。
「無難なのは時計かしら?」
「そうですね……あちらのお店で見てみますか?」
サラが教えてくれたのは、大通りの中ほどにある店だった。遠目からでも品格のある佇まいであることがわかる。よさそうな店だ。
「そうね、そうしましょう」
「――いや! やめて! やめてください!」
サラと行き先を決めたところで、不意に道の反対側から怒鳴り声と悲鳴が聞こえてきた。あまりの大きな音に、無意識にそちらに注意を向けてしまう。
「いいから、来いって言ってるんだ! この俺が見初めてやっているのに、逆らえると思っているのか!」
怒鳴っているのは中年の男性だった。ずいぶん高級そうな服を着ているが、仕草や言動からして上流階級の者には見えない。ぶくぶくと太ったお腹が、今にも上着のボタンを跳ね飛ばしそうだった。
「やめてください……! 私は、ここで作品を作っていたいんです! あなたのお屋敷には参りません!」
地面に崩れ落ちながら小包を抱えているのは、私と同年代の可憐な少女だった。豊かな亜麻色の髪をうなじの辺りで簡単にまとめ、薄汚れたエプロンとワンピースを着ている。
涙が滲んだ亜麻色の瞳には、決して理不尽に屈しないという強い意志が宿っていた。何より、はっと息を呑むほど繊細で儚げな美貌の持ち主だ。まるで彼女の周りだけ淡く光り輝いているかのように錯覚するほど、美しいひとだった。
……あら、待って、あの子――。
遠い記憶が呼び覚まされる。波の音が、脳内で響き渡った。
――エステル、どちらが早く元気になれるか競争しましょうよ! 勝ったほうが、いつか王都でたくさんのお菓子をご馳走するのよ!
儚げな美貌に反して、いつでも太陽のように明るかった友人の姿が蘇る。もう十年も前に、療養先で一緒に居ただけの関係だが、忘れるはずがなかった。
私にとっては、唯一の友だちなのだから。
「……ソフィア?」
掠れるような声で呟いたその名は、隣にいるサラにも届かなかっただろう。
私が遠い記憶に囚われている間にも、中年の男はさらに彼女との距離と詰めていた。
「ほら! いくぞ! 店主と話は付けてあるんだ!」
「いや! 誰か! 誰か助けて!」
反射的に、体が動く。だがそれを、サラがすかさず静止した。
「奥さま……あの女です」
「え?」
サラは、躊躇うように私に耳打ちした。
「あの女が――旦那さまの、愛人です」
世界から、音が消え去っていくような気がした。
がん、と頭を重たいもので殴られたような衝撃を覚えて、眩暈がする。
……どういうこと? ソフィアが、ソルの恋人なの?
ゆっくりと周囲の音が戻ってくると同時に、心臓がひどく暴れ出していた。まともに立っていられないほどの動悸に、思わずサラの腕をつかんで寄りかかる。彼女は慌てて私の肩を抱くように支えてくれた。
「奥さま……! 顔色が優れません。どこか座って休みましょう」
「でも、あの子を……助けなきゃ」
「奥さま!」
ふらりと歩き出そうとした私を、サラが止める。そうして真剣なまなざしで私に囁きかけた。
「――奥さま、これはよい機会です。あの男はこのあたりの飲食店を営む経営者で、平民にしてはずいぶん財産があります。見るに、あの女はあの経営者の屋敷で囲われるそうじゃありませんか。身分を考えれば、あの女にとっては旦那さまよりもはるかに釣り合いの取れた相手です」
「つまり、どういうこと? ……まさか」
サラはわずかにまつ毛を伏せ、そうして決心したように再び私の目を捉えた。
「精霊エルヴィーナの敬虔な信者である奥さまには、軽蔑される覚悟で申し上げます。――あの女は、このまま見捨てるべきです。そうすれば、旦那さまは奥さまだけを慈しむようになるはずです」
「っ……!」
ぐらり、と心が揺らぐのがわかった。
……本当に? あのひとさえいなければ、ソルは私だけのものになってくれるのかしら?
ソルとふたりきりで過ごす、本物の甘い時間を想像してみる。思い描くだけで胸が温かくなるほど、幸せな光景だった。
……そうよ。ソフィアだって、ソルの妻が「エステル・エル・レヴァイン」だってわかった上で、それでもなお恋人関係を続けていたのよ。
恋人が友人の伴侶となったことを知ってもなお、関係を解消しなかったのだ。――あるいは、十年前に半年にも満たないほど一緒に居ただけの私のことなど、とうに忘れているのかもしれないが。
「――参りましょう、奥さま。奥さまは何もご覧になっておりません」
サラが、導くように私の腕を引く。彼女に連れられて、ふらふらと足が動いた。
「やめて!」
つんざくようなソフィアの声が響く。どうやら無理矢理連れていかれるところのようで、豊かな亜麻色の髪を無理矢理引っ張られていた。
「やだ……! 助けて! 誰か! 誰か!」
――そんなところでひとりぼっちでどうしたの? ねえ、一緒にここで本を読みましょうよ!
痛々しい叫び声と、幼い日の彼女のひだまりのような言葉が蘇る。
気づけば、サラの力に抗うように、その場に踏みとどまっていた。
「サラ……ごめんなさい。あなたが私をいちばんに思いやってくれているのはわかっている。……でも、見捨てられないわ」
「奥さま!?」
サラの呼び止める声を無視して、ソフィアと経営者の男のもとへ向かう。このふたりの姿を目撃しているひとは何人もいるのに、止めに入らない辺り、この男の影響力は絶大なものなのだろう。
下卑た笑みを浮かべてソフィアの髪を引っ張る男と、泣き叫ぶソフィアのそばに黙って立つ。すぐに、男が苛立ったように私に目を止めた。
「あ? なんだお嬢ちゃん。取り込み中だ。失せろ」
「その女性はいくらで買ったのです?」
「は?」
「だから、いくらで買ったのかと聞いているのです。お金を理由に、彼女をあなたの屋敷へ連れて行くところなのでしょう?」
男はソフィアの髪を引っ張る手をわずかに緩めて、苦笑した。
「金貨百枚だ。すでにこいつの働く工房の主に支払っている。平民の女を買う金としては破格だろ? それだけの価値があると、この俺が認めてやっているんだ。――わかったか? だから早く来い!」
男の怒鳴り声に、泣き崩れたソフィアがびくりと肩を跳ねさせる。長い髪で視界が覆われて、私の姿は見えていないようだ。
「――では、私は金貨三百枚払います。それで、この子をお譲りいただけませんこと?」
「さ、三百枚……?」
男が明らかに揺らぐのがわかった。言うまでもなく、金貨三百枚は大金だ。平民の何十年分もの給料に当たるのだから。
お父さまからもらったお小遣いを元手に、商会の新部門と商会まわりの貿易会社に投資していたおかげで、今も私の財産はすこしずつ増えている。ソルと別れる際に、彼を夫として雇った契約代とは別にいくらか渡そうと思っていたのだが、ここで使ったほうが彼のためになることはわかっていた。
「見たとこ貴族の嬢ちゃんのようだが……どうしてそこまでする?」
「私、彼女の作る作品を気に入っているのです。あなたの屋敷に囲われて、新作が手に入らないのは困ります」
淡々と言葉を続けると、男は私の姿を頭から爪先まで観察して、舌打ちした。
「そのベール……最悪だ、あんたレヴァイン大商会の元締めの令嬢か」
「そんなふうに言われたのは初めてですけれど、まあ、そうですわね」
男はわずかに計算を巡らせるように沈黙した。飲食店を営んでいるようだから、ここで私に盾突いて、王都の物流を司っているレヴァイン商会を敵に回しては厄介だとでも考えているのだろう。心配しなくとも私情で商会を動かす気はないのだが、勝手に悪い想像を巡らせてくれるぶんにはこちらが有利だ。
「……ちっ、わかったよ。そんな女、譲ってやる」
「話が早くて助かります。――サラ、私はそこの商会の支部で待っているから、お金をお渡ししたら迎えに来て」
「奥さま……」
サラは、まったく納得いっていないようだった。彼女からすれば、その反応も当然だ。
男とサラが遠ざかって行くのを確認してから、くるりとソフィアに向き直った。
ソフィアは、いつのまにか泣き止んで、食い入るように私を見つめていた。
髪はぐちゃぐちゃで、頬には涙の跡がこびりついているというのに、すこしも美しさを損なっていない。宝石のような美女という言葉は、まさに彼女にぴったりだった。
「エステル……? エステルなのね……? 私を、助けてくれたの……?」
……覚えていてくれたのね。
懐かしさと友人と再会した喜びが心のうちに広がっていったが、それも一瞬のことだった。
……そう、覚えていてなお、あなたはソルとの関係を続けることを選んだのね。
ソルが、友人の――私の伴侶となっても恋人であり続けたのはつまり、私との友情よりもソルとの恋を選んだということなのだろう。それくらい熱烈で、誰にも壊せない恋なのだ。
それどころか、贈り物を通じて自身の存在を匂わせていたのだから、なかなか強かな女性なのかもしれない。
自分がふたりの恋を邪魔していることは棚に上げて、みじめさと悔しさに身を焼かれた。一瞬彼女を救ったことすらも後悔しかけたが、長い息をついてやり過ごす。
すべて、私が悪いのだとわかっている。それでも、この状況でソフィアを歓迎する気持ちにはなれなかった。
……友人としては扱えないわ。
だから、忘れたふりをしよう。彼女のことなんて、知らないふりをしよう。
「――夫から私の名前を聞いていたにしても、失礼よ。愛人の分際で、気安く名前を呼ばないでちょうだい」
冷たくソフィアを睨みつければ、彼女はびくりと肩を震わせた後に顔を真っ赤にした。
「あ……そ、そうよね……! あんな昔のこと、あなたみたいな特別なひとが覚えているわけないのに……私、その……恥ずかしいわ」
白く抜けるようだった首筋まで真っ赤にして、ソフィアは耐え忍ぶようにぎゅう、と目を閉じた。
彼女は、当然私も彼女のことを覚えていると確信していたのだ。それくらい、私たちの友情に信頼を置いてくれていたのだろう。
……何よ。ソルとは別れなかったくせに。ひどいひとだわ。
心の中で言い訳めいた毒を吐きながら、私も視線を逸らす。
……でも、私が知らないふりをしたせいで、彼女に恥をかかせてしまったのね。
予想以上に純真な反応に、ずきずきと心が痛む。いたたまれない。
「――申し訳ありませんでした、奥さま。助けていただいてありがとうございました。お金は……きっと、きっと返します」
ソフィアは姿勢を正すと、地面に這いつくばるようにして礼を述べた。
違う、友人のこんな姿を見るために助けたわけじゃない。
「……何言っているの、あなたは私たちの屋敷に来るのよ」
「……え?」
ソフィアは、目を丸くして私を見上げた。傷も染みもない美しい肌を見ると、ぎゅう、と胸が締め付けられる。
「このままあなたを街に置いて、またあの野蛮な男が押しかけたらどうするの? あなたが攫われたり傷つけられたりしたら、夫はきっとひどく落ち込むわ。……そんな姿を見せつけられるくらいなら、私の屋敷で夫のそばにいなさい」
こつり、と杖をついて彼女の前に歩み寄る。
彼女は、これ以上ないというほどに目を見開いて私を見ていた。潤んだ亜麻色の瞳がこぼれ落ちてしまいそうだ。
彼女の動揺に気づかないふりをして、にいっと唇を歪める。
「――ちょうど、夫への誕生日の贈りものを探していたの。あなたはぴったりだわ」
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