第2話 美しい恋人
その日の午後、私は書斎で無心で聖典を書き写していた。ひとより信仰心が特別篤い訳ではないが、心が乱されたときにはこういう単純作業で気分が落ち着く。本当はソルの誕生会のために色々と準備をしようとしていたのに、すべて使用人たちに任せてしまった。
……ソフィアが、ソルの恋人だったなんて。
何度考えても衝撃的で、眩暈がする。唯一の友人と初めて恋をした相手が、相思相愛だったなんて。皮肉にも程がある。
……私は、ソルの幸せだけでなく、ソフィアの幸せまでも壊していたのね。
いよいよ私は救えない存在のようだ。
ふたりの幸せを願うなら、今すぐにでも、この契約結婚を解消するのがいちばんなのだろう。それこそが、ソルがいちばん喜ぶ贈り物であることはわかっていた。
……覚悟をするときが、来たのかしら。
これ以上ソルを縛り付けていたところで、私が苦しいだけだ。私をみじめにさせた代償を払ってもらおうと半ばやけになって始めた契約だったが、この一年、彼は真摯に「夫」役を務めてくれた。それで、もう充分じゃないだろうか。
今すぐには無理でも、あと一年を待たずに話をしてみてもいいかもしれない。機を見て相談してみよう。
……それまでは、ソルとソフィアの幸せそうな姿を見ていても、罪にはならないかしら。
どうせ私は誰にも選ばれないのだ。私が一生手にすることのない幸福を、彼らが目の前で見せてくれるなら、それもいい気がしていた。
……でも、ソフィアを屋敷に留めるには相応の理由が必要よね。
ソフィアの真面目な性格を考えれば、そう遠くないうちに屋敷から出て行こうとするだろう。彼女は私のことを覚えていたようだし、友人と恋人が夫婦として暮らす屋敷で過ごすのはさぞ居心地が悪いはずだ。
……正妻が愛人の存在を認識してなお、愛人と夫との関係を許している場合といえば、たいていは子どもがいるときだけれど。
そこまで考えてはっとした。
……そうよ、子どもがいればいいのだわ。
ペンを置いて、息をつく。ソフィアに相談してみよう。
そう考えた矢先、書斎の扉が規則正しくノックされた。
「奥さま、お客さまのお支度が整いました」
サラが、硬い声音で告げる。サラにはソフィアの身なりを整える用頼んでおいたのだ。
私がソフィアを屋敷に連れて帰ると告げたとき、サラは危うく倒れるところだった。それくらい、この状況を受け入れられていないのに、淡々と私の頼みを聞いてくれている。
「どうぞ、入って」
ぎい、と扉が軋む音とともにふたりぶんの足音が近づいてくる。机に向かったまま顔を上げれば、眩いほどの美しさを放つ淑女の姿が目に飛び込んできた。
「っ……」
着飾ればさぞ美しくなるだろうと思っていたが、予想以上だ。
ソフィアは、春らしい新緑のドレスを纏っていた。先ほどはふわふわしていると思っていた亜麻色の髪だったが、丁寧に洗って櫛を通すと、癖ひとつない、艶のある髪に様変わりしている。恥じらうように頬を染め、長いまつ毛を伏せる様はなんとも庇護欲をそそられた。
何より、どこをとっても浮かび上がるように白い肌が羨ましかった。抜けるような透明感と、思わず触れたくなるようなきめ細やかな皮膚だ。流石に指先には作業の際に負ったらしい細かな傷があるが、それは彼女の努力の証だから何も恥ずべきことではない。
人は圧倒的な差を見せつけられると、嫉妬しないようにできているらしい。ソフィアのあまりの美しさに、ただただ感嘆の溜息がこぼれた。
「すばらしいわ……想像以上ね」
思わず席を立ち上がり、杖をついて彼女の前まで移動する。
ソフィアは、居心地悪そうに視線を伏せたままだ。近くで見ると、長く細やかなまつ毛が頬に影を落としているのがわかる。
「あの……奥さま、私は街で装飾品を作る職人でして……その、せっかくこんなに綺麗にしていただいても、奥さまのお役に立つような仕事はできないと思うのです……」
こんな服を着せられたら、私がメイドや侍女のような役割を期待していると思っても不思議はないだろう。ソフィアの言うことももっともだ。
「もちろん、あなたの職人としてのお仕事を奪うつもりはないわ。この屋敷でも好きにして。材料は使用人に伝えれば用意するように言っておくから」
「あの……でも、私……」
「わかってる。この屋敷にはいづらいでしょうね。でも、大切なひとのそばにいたいでしょう?」
にっと微笑みかけると、ソフィアはおずおずと私を見つめた。怯えているようにも見えるが、私の言葉が魅力的だったのだろう。
「私、これでも心苦しかったのよ。ソルに恋人がいることを知っておきながら、無理やり結婚したのだもの。……私がお金で彼の時間を買ったことは知っているのでしょう?」
後半の言葉は、サラには聞こえないように彼女の耳もとで囁いた。
ソフィアは、気まずそうにぎこちなく頷く。そこまで知っているのなら話は早い。
「日中は父とともに仕事、夜は私の話し相手、公の場ではいい夫役。ソルは本当によくやってくれているわ。……でも、心配なのよ。癒しがないと壊れてしまうんじゃないかって」
こつり、と杖の音を響かせて、ソフィアに笑いかける。
「だから、あなたが彼のそばにいてあげてちょうだい。彼の恋人として、この屋敷に滞在するのよ」
ソフィアは、大きな衝撃を受けたようだった。何かを言おうとしているが、震える唇からは言葉が出てこない。
「それに……ご存知の通り私と彼は白い結婚だから、後継のできようがないの。もしあなたがいいというのなら……レヴァイン侯爵家の後継になる子を産んで育ててくれてもいいわ」
よその夫婦と違うところはソルがレヴァイン侯爵家の婿である点だが、お父さまはソルを気に入っている。私が望めば、私と血がつながっていなくてもソルとソフィアの子どもを迎え入れてくれるかもしれない。
……そうよ。ソルとの契約終了より先に、私が「精霊の微睡」を行えば、話はもっとうまく――。
そう考えた矢先、沈黙を切り裂くように冷ややかな声が響いた。
「――そんなに後継が欲しいのなら、今すぐ寝室に行こう。エステル」
まるで、泣いているように震える声だった。
はっとして顔を上げれば、廊下へつながる扉の先にソルの姿があった。
「……おかえりなさい」
返す言葉に迷って、なんだか場違いな返事をしてしまう。
ソルは、ソフィアの姿を一瞥したのち、まっすぐに私の前に歩み寄ってきた。鬼気迫る勢いだ。
「聞こえなかった? 早く行こう? ああ……そういえば夫婦の寝室があるんだっけ? そこに行ってみる? せっかくあるのにいちども使ったことなかったね」
自嘲気味で、泣き出しそうな、聞いていて苦しい声だった。いつになく強い力で肩を掴まれ、反射的にびくりと肩を震わせてしまう。
「ソル……怒っているの?」
この一年で、私に対して怒っているところは初めて見た。翳りきった紫の瞳は憎悪すらにじませているようで、とても直視できない。
「その、悪かったわ。あなたとあなたの恋人に後継を強制する意図はないの。ただ、もしふたりが望むなら、レヴァイン侯爵家はあなたたちの子を保護すると言いたかっただけで――」
「――そんなことが言えてしまうくらい、君は僕の存在なんてどうでもいいんだね」
涙こそ流れていなかったが、彼は泣いていた。
そう思うほどに、彼のまなざしから、言葉から、肩を掴む手から、深い深い悲しみが伝わってくる。
「この一年……すこしは君に近づけていると思っていた。君も、心を開いてくれていると思っていたのに……舞い上がっているのは、いつも僕だけだ」
「ソル……その、私、あなたを悲しませるつもりはなかったの。ごめんなさい……今日はせっかくのお誕生日なのに」
彼を喜ばせるどころか、こんなにも傷つけてしまうなんて。ソフィアを連れてきた矢先に、子どもの話なんてしたのが間違いだったのだ。
「わかっているよ。君に悪気はないんだよね。――その事実がどれだけ僕を傷つけているか君は知らないだろう。嫉妬に身を任せて起こした行動だと言われたほうが、ずっとずっと救われるのに……」
「ソル……」
おずおずと彼を見上げていると、彼はふいと顔を背け、私から手を離した。
「……ごめん。こんなの八つ当たりだ。君は悪くないよ。でも……すこし、ひとりにしてほしい」
ふらり、と彼はおぼつかない足取りで書斎を後にした。ソフィアが、気まずそうに身を縮めている。
「……ソフィアさん。あなたはついて行ってソルのそばにいて」
額に手を当て、溜息をつきながらソフィアに促す。
ソフィアは何か言いたげに私を見たあと、ぎこちなく頭を下げてソルを追った。
……誕生会、という雰囲気でもなくなってしまったわ。
私が台なしにしたのだということは、わかっていた。もやもやとした気持ちを抱えたまま、椅子に座り直す。
……彼は思っていたよりずっと、私の「夫」という立場を大事にしてくれているのね。
そういう誠実なところも、好きなのだ。圧倒的な美貌を誇るソフィアの姿を見てもなお、彼に恋焦がれる気持ちはすこしも薄れてくれないから困る。
「ごめんなさい……ソル」
受け取る相手のいない謝罪は、書斎に虚しく吸い込まれていった。
どうすれば彼が許してくれるのか、それすら検討もつかない私は、やっぱり心根までも醜い「傷痕姫」でしかなかった。
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