第2話 銀の髪飾り
その日、ソルは夜遅くに戻ってきた。夕食の時間はとうにすぎ、湯浴みを済ませたあたりで帰宅したのだ。そのまま私室に戻るかと思っていたのだが、彼はわざわざ私の部屋を訪ねてきた。
「遅くなってごめん、エステル。精霊祭が近づいているから、商会に色々と手配を頼む必要があって……」
精霊エルヴィーナを祀るこの国で、精霊祭は一年でいちばん大きな行事と言ってもいい。街中に精霊エルヴィーナにまつわる装飾が施され、出店が並び、王城では貴族のほとんどを招いた大舞踏会が開かれる。
その精霊祭はあと二週間後に迫っていた。大商会を所有するお父さまも、この時期は毎年忙しそうにしていたものだっけ。
……まあ、今日に限っては恋人のもとへ行っていたことの言い訳でしょうけれど。
別に、隠さなくてもいいのに。優しいのか狡猾なのか、時々彼のことがわからなくなる。
「お疲れさま。気にしないで。この時期は忙しいって、使用人たちもわかっているもの」
だから無理はしなくていいのだと暗に伝えたつもりだが、彼はどこか寂しそうに微笑んだ。
「……君は何をしていたの?」
「私はいつも通り聖典を書き写していたわ。ああ……あと、精霊祭のドレスの確認もしたわね」
夕方ころに、前々から注文してあったドレスの最終確認のために仕立て屋が訪れたのだ。薄紫の生地に、星屑のように真珠と宝石を散らした瀟洒なドレスだった。孤児院の院長からもらったレースでベールを作ってもらったので、あとは装飾品を選べば準備は万端だ。
「見たかったな……。でも、当日までのお楽しみだね」
ソルは甘くとろけるような笑みを見せた。ゆらめく橙色の燭台に照らされた彼があんまりにも綺麗で、思わず目を逸らしてしまう。
……今はふたりきりなのだから、夫婦の演技をする必要はないのに。
屋敷にいるというだけで、演技する癖がついてしまったのかもしれない。
「今日は、これも取りに行っていたから仕事が押してしまったんだけど……よかったら、受け取ってほしい」
ソルはそう言って、銀の小箱を取り出した。深紅のりぼんがつけられたそれをゆっくりと解き、私の目の前で開けてくれる。
それは、精霊エルヴィーナの象徴である月と翼をモチーフにした、銀の髪飾りだった。よく見れば、杖に嵌め込まれている宝石と同じ種類の小さな宝石が散りばめられている。
「……きれい」
思わずそう呟いてしまうほど、繊細で見事な品だった。ソルは、なんだか得意げだ。
「君の杖を直した職人に頼んだんだ。……君に褒めてもらえて、彼女もきっと喜ぶ」
吸い寄せられるように髪飾りに伸ばしていた手が、自分の意志に反してぴたりと止まった。
どくん、と大きく心臓が揺れ動く。
ソルは、愛おしそうに髪飾りを見ていた。慈しむようなそのまなざしは、初めて見る。
……そう。
すとん、と納得する。明確な言葉がなくとも、わかってしまった。
……その職人が、あなたの恋人なのね。
いつのまにか震え出していた手を押さえつけるように、思わず膝の上で指を組む。
私はずっと、彼の恋人が作った杖を、慎重に大切に使っていたのか。
そうとも知らずに喜ぶ私は、彼らから見ればさぞかし滑稽だっただろう。
――君の杖で、簡単に舞い上がっていたよ。扱いやすくて助かる。
――まあ、あなたってひどいひとね、ソル。
そんなふうに笑いあうソルと恋人の姿を想像して、吐き気がした。
わかっている、こんなのはただの私の妄想だ。
それでも、ひどく惨めで、悔しくてならなかった。
……彼の時間を二年も奪えば気が済むと思っていたのに。
彼に幸福の踏み台にされたと知ったときよりも、ずっとずっとみじめだった。消えてなくなりたいほどに。
思わず乾いた笑みがこぼれる。唇がわなわなと震えていた。
「エステル、よかったらつけてあげるよ。君がつけているところを見てみたいんだ」
そう言ってソルは、ゆっくりと私のベールに手を伸ばした。
「……いやっ!」
思わず、払い除けるように彼の手を叩いてしまう。その拍子に、銀の髪飾りが絨毯の上に転がり落ちていった。
「あ……」
幸い壊れてはいないようだが、贈り物に対してひどい扱いをしてしまった。
すぐにでも拾い上げるべきだ。だが、手も足も震えてうまく動かない。
私が動けないでいる間に、ソルが代わりに髪飾りを拾ってくれた。そうして自らの手巾で丁寧に拭き、どこか傷ついたように微笑む。
「ごめん……舞い上がりすぎた。君が嫌がることをするつもりはなかったんだ」
ええ、わかっているわ。こちらこそ大袈裟な反応をしてしまってごめんなさい。
そう告げるべきなのに、震えたままの唇からはひと言も言葉が出てこない。それどころか体の震えは大きくなるばかりで、これ以上まともに彼と向きあえる気がしなかった。
「ごめん、本当にごめん。急に触ろうとするなんて。……サラを呼ぼうか? それとも、何か飲む? 温かいミルクとか、紅茶とか……」
ソルは私の様子を見て、明らかにうろたえていた。私に触れようにも触れられず、困っているようだ。
ただただ首を横に振って、ふらりと立ち上がる。
もう、誰にも会いたくない。何も話したくない。
「エステル……」
今だけは、ソルからもらった杖も使いたくない。ソルの呼びかけを無視して、ふらふらとした不安定な足取りで寝室へ向かう。
案の定、絨毯に左足のつま先が引っかかって、すぐに転んでしまった。
「エステル!」
慌ててソルが駆け寄り、私を抱き起こそうとする。その手が先ほどまで恋人に触れていたのかと思うと、思わず身をこわばらせてしまった。
女性らしくもない、痩せ細ったこの体は、きっと彼の美しい恋人と比べるとさぞかしみすぼらしいだろう。触れられたら、その違いをいっそう知らしめてしまう。これ以上、みじめな気持ちになりたくない。
がたがたと震えていると、ソルの瞳がわずかに翳った。
美しい紫色の宝石がじわりと濁るような変化に、思わず息を呑む。
「……そんなに、僕に触れられるのは嫌?」
その言葉に、私の反応がソルを傷つけているのだと悟った。優しい彼のことだ。誰のことも怯えさせたくはないだろう。
……ああ、嫌だな。
私はいつも、自分のことばかりだ。彼に恋人がいて、私は利用されているだけだとわかっていたはずなのに、いざその片鱗を見せつけられるとこんなに動揺してしまうなんて。
じわりと涙がにじみそうになるのを、唇を噛んで必死に耐えた。
泣いてはいけない。ここで泣いたら最悪だ。
その瞬間、こんこん、と廊下から扉を叩く音が響き渡った。
「奥さま、サラです。大きな物音がしましたが、何かございましたか」
先ほど私が倒れた音を聞いて、様子を見にきてくれたのだろう。
まるで彼女が救世主のように思えた。私とソル以外の人がいるだけで、空気がずいぶんと柔らかくなる気がする。思わずほっと息をついた。
ソルは私のその様子を翳った瞳で見つめたのち、その場に立ち上がった。
「サラ、入ってくれ」
ソルの言葉に、ぎい、と扉が開く。ソルがいることは予想外だったのだろう。サラは驚いたような表情をしていたが、絨毯の上に座り込む私とソルを見比べて、わずかに表情を険しくした。
「エステルが転んだんだ。寝台まで連れて行ってあげてくれ。それから、怪我がないかよく見て、必要なら医者を呼ぶように」
ソルもサラの怪訝な表情には気づいているだろうが、淡々と指示を出した。いつもの朗らかな様子とは違って、冷徹にも見える横顔だ。
……こんな顔もあるのね、知らなかった。
こんなときでさえ、醜い恋心は恋慕うひとの新たな一面を見つけて大切にしまい込もうとするのだから、救えない。
サラの登場で、震えはずいぶんと治まっていた。絨毯に手をついて、ゆっくりとその場に立ち上がる。サラが慌てて私のそばに駆け寄ってきた。
「奥さま……」
「大丈夫、ちょっと転んだだけなの。どこも怪我していないから、お医者はいらないわ」
サラは状況が掴めないようで、ぎこちなく頷いた。そうこうしているあいだに、ソルは扉のほうへ歩き始めている。
ひと言、謝らなければ。彼を傷つけてしまった。
「ソル……ごめんなさい。大袈裟にしてしまって。それから、髪飾り、ありがとう。精霊祭につけていくわ」
無理やり笑みを取り繕って、途切れ途切れに言葉を紡ぐ。ソルは、半身で振り返って私を見ていた。
「……無理に笑わないでくれ、エステル。その中途半端な優しさがいちばん傷つく」
ソルは瞳から翳りを消すことはないままに、どこか自嘲気味に笑った。見たことのない、彼の影の姿だ。
彼はそれ以上何も言わず、部屋から出て行った。ぱたりと、扉が閉められたのを見て、なんだか力が抜けてしまう。
「奥さま!?」
慌てて、サラが私の腕を掴んで転ぶのを防いでくれた。彼女の手を借りて、再び姿勢を正す。
「なんでもないの、すこし疲れただけ……」
「……旦那さまに、何をされたのです?」
「何もされてないわ。彼は私に髪飾りをつけようとしてくれただけよ。ベールを取られるのが怖くて、私が大袈裟に彼を拒絶してしまったの。それだけよ」
安心させるようにサラに微笑みかければ、彼女は悔しそうに視線を伏せた。
「……この状況で奥さまが旦那さまを拒絶なさるのは当然のことです」
「そんなことないわ。本当に違うの。彼は何も悪くないのよ……」
契約を知らないサラにとっては、ソルの心証が悪くなるのは当然だ。
反対に私は、浮気されても彼を責めない健気な妻のように見えてしまうだろう。そんなことを、望んでいるわけではないのに。
「とにかく……もう休むわ。起こしてしまって悪かったわね」
私を寝台に連れて行った後も、サラは何か言いたげだったが、忠実なメイドらしく口をつぐんで礼をした。そうして私に薄手の毛布をかけて寝室を後にする。
……どうやったら仲直りできるのかしら。
ぐるぐると、黒く重い感情が渦巻く。なんだか、頭がくらくらとした。
……ごめんね、ごめんなさい、ソル。
涙がひと粒、枕に吸い込まれていく。これほど自分の行いを後悔した夜は、他になかった。
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