第二章 偽りの溺愛
第1話 恋人の影
ソルは、実にうまく私の「夫」としての役割を果たしてくれている。公の場だけではなく、屋敷の中でも使用人たちの目を欺くために新婚夫婦らしい振る舞いをしてくれるのだ。
「エステル、庭の池に鴨の子どもが生まれたみたいだ。一緒に見にいこう」
「今日、養父上とともにレヴァイン大商会の本部に見学に行ったら、君に似合いそうな手袋を見つけたんだ。夏でも涼しそうだろう? よかったら使ってほしい」
「今度の休日には、観劇に行こう。貴族に人気の演目があるらしいんだ」
日中はお父さまにレヴァイン侯爵としての仕事を叩き込まれているというのに、ソルは疲れひとつ見せずに私に構ってくれた。毎日のように贈り物もくれる。当然これは彼に支払う金額に含まれていないから、贈り物はひとつひとつ書きとめて、いずれは予想される金額を彼に返すつもりでいた。
……それでも、嬉しいわ。
彼からもらった手袋をつけ、布地の上から火傷の痕をなぞる。彼が選んでくれた使用人たちも皆親切で、この白亜の屋敷の中では私が「傷痕姫」と揶揄される醜い悪女であることを忘れられた。
穏やかな心地で、書斎で聖典を書き写す。彼がいない日中は、こうして写本をして過ごすことが多かった。
「精霊の微睡」のためには、自らの手で書き写した写本が百冊必要だ。このところ結婚式やら新居の整理やらで忙しくしていたから、作業が滞っていた。
黙々と書き綴っていると、音もなくそばに置いてあったグラスが取り替えられる。みずみずしいレモンが浮いた冷たい水だ。
「ありがとう、サラ」
手を止めずに礼を述べるも、彼女が立ち去る気配はなかった。不思議に思い、ペンを置いて彼女を見上げる。
サラは、何かを迷うような、傷ついているような複雑な表情をしていた。あまり感情が表に出ないひとなのに、珍しいこともあるものだ。
「奥さま……その、お伝えするべきか迷ったのですが……」
「何かあった?」
くるりと椅子の上で体の向きを変え、サラと向かいあう。
彼女はぎゅう、と自らの手を握り締め、言いづらそうに切り出した。
「……アンが買い出しに行った際に、旦那さまをお見かけしたと申しておりまして……」
その言葉を選ぶような雰囲気から、なんとなく察してしまった。
……ついに、来たのね。
いちどだけ深呼吸をして、続きを促す。
「……いいわ、話して」
サラはますます俯くように視線を伏せて、途切れ途切れに告げた。
「その……旦那さまは、下町のある小さな家に入っていったというのです。出迎えたのは亜麻色の髪の若い女性だったとか……」
ずん、と胸が重くなる。指先がかたかたと震え、慌てて力を込めて誤魔化した。
……そろそろだと思っていたわ。
目を閉じて、自分を落ち着かせるように長い息を吐く。
ソルの立場になって考えてみれば、予想するのは簡単だ。日中は慣れない侯爵の仕事を学んで、屋敷では私の「夫」として振る舞って、疲れが溜まってくるころだろうと思っていた。
疲れが溜まれば、癒しがほしくなるはずだ。恋人が恋しくなって当然だった。
「もちろん、お仕事関係の方かもしれません。近くには工房もあるようでしたし……もうすこし、調べてみましょうか」
サラの言う通り仕事関係で街に出ていたのだとしても、既婚者である彼が女性の家にひとりで招かれることはないはずだ。
そうでなくても彼は次期レヴァイン侯爵なのだ。付き人もつけずに、ひとりで出歩いているのはどう考えても不自然だった。
「……その必要はないわ。わかっていたことだもの。そっとしておいてあげて」
ソルに美しい恋人がいるという噂は有名だ。社交界では知らないひとはいない。当然、使用人たちの間にもその噂は広まっているだろう。
サラは、痛みに耐えるように、ぐ、と表情を硬くした。
「まだ、奥さまと結婚されてひと月しか経っていません! こんなのは……あんまりです」
……私の気持ちを思いやってくれているのね。
サラは忠誠心の厚いメイドだ。その優しさに、すこしだけ心が軽くなる。
……こんなのは覚悟していたことよ。私に彼を責める権利はひとつもないわ。
無理やり笑みを取り繕って、サラを見上げる。契約のことを話すわけにはいかないが、ひと言伝えておいたほうがいいだろう。
「ソルに恋人がいるのは、わかっていたわ。それをわかった上で、私は彼と結婚したのよ。だから彼を責めてはいけないし、あなたが苦しむ必要もないわ」
サラが、目を丸くする。今日はサラのいろいろな表情を見られる日だ。
「なぜ、そのようなことを……? お嬢さまであれば、もっとよい条件の縁談がいくらでもあるでしょう」
「本当にそう思う? 私は『傷痕姫』よ」
くすりと笑って、自らの左手を撫でた。
「こんな醜い女を妻にしてくれるのは、彼くらいだわ。……本当に感謝しているの」
かたちだけとはいえ、二年も一緒にいてくれるのはソルしかいないだろう。どんな大金を積まれても断るひとのほうが多いに違いない。
「……あなたは、美しい方です。奥さま」
サラは、くしゃりと顔を歪めて告げた。まるで悔しがっているみたいだ。
「お世辞にしても無理があるわ。でも……ありがとう。あなたはとても忠実なメイドで、優しいひとね。これからもよろしく」
サラになら、身の回りの支度を手伝ってもらってもいいかもしれない。それくらい、彼女はいいひとだ。
「もちろんです、奥さま。……私ども使用人は、奥さまの味方です」
「ありがとう、心強いわ」
サラが運んできてくれたグラスを手に取って、窓の外を見やる。
胸の痛みなんて、感じてはいけない。その権利すら、私にはない。
こくりとレモン水をひと口飲み込んで、息をつく。
「……苦い」
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