第一章 傷痕姫の旦那さま

第1話 新居と花束

「レヴァイン侯爵令嬢、ご結婚おめでとうございます」


 エルヴィーナ教の大神殿で華々しい結婚式を終えたあと、控室で侍女たちとともに休んでいたところへ、馴染みの大神官が訪ねてきた。


「カイル大神官……わざわざありがとうございます」


 黒い髪をひとつに結び、純白の神官服を纏った青年を前に膝を折る。彼もまた、胸に手を当てて丁寧に礼をしてくれた。


 大神官カイル。彼とは、もう九年の付き合いになる仲だ。火傷を負ったあとから神殿に足繁く通い出した私を、彼がずっと導いてくれた。


「まさかあなたが結婚なさるとは……正直、驚いています」


 カイルは穏やかな笑みを浮かべ、赤い瞳を細めた。神殿に仕えるだけあって、現世離れした清らかな雰囲気のあるひとだ。


「……いちどくらい、結婚してみてもいいかと思いまして」


「そうですね。人生にはひとつでも悔いがないほうがいい」

 

 よく響き渡る不思議な声は、いつもまるで耳もとで囁かれているかのような錯覚を覚える。今日も、十分に距離はとっているのにすぐそばで語りかけられているようなくすぐったさを感じた。


「……『精霊の微睡』については、予定通りでよろしいですか?」


 カイルが笑みを崩さぬままに、確認する。迷いもなく、こくりと頷いた。


「ええ……予定通り、二年後に。私が二十歳になったらすぐにでもお願いします。……あなたには、申し訳なく思っていますが」

 

 言葉を濁せば、カイル大神官は祈るように指を組んだ。


「それは無用なご心配です、レヴァイン侯爵令嬢。――私は、そのときのために生きながらえている精霊のしもべですから」


 カイルが話し終えると同時に、休憩室の扉がノックされる。どうやら、ソルが迎えにきたようだ。


「……ご主人は『精霊の微睡』のことをご存知で?」


 横目に扉を見つめ、カイルはぽつりと問う。姿見の前でベールを治しながら、思わずくすりと笑った。


「言うわけありません。二年後のその日まで……誰にも伝えるつもりはありませんもの」


「それがよろしいかと。しかし、悪い奥さまですね、あなたは」


 カイルにふっと笑いかけると同時に、扉の開く音がする。どうやら侍女がソルを招き入れたようだ。


「エステル、迎えにきたよ」


 甘くとろけるような笑みを浮かべる礼服姿の彼を目にして、目が眩んだ。今日の彼は、輪をかけて輝かしい美貌をしている。朝からその姿は何度も見かけているというのに、すこしも慣れない。


「……それではカイル大神官、また礼拝に伺います」


「はい、お待ちしておりますよ。レヴァイン侯爵令嬢」


 お互いに決まりきった礼をし終えると同時に、ソルが私の目の前まで距離を詰めてきた。どうやらエスコートしてくれるつもりらしい。


「行こうか、エステル」


 差し出された腕に、そっと手を添える。彼と触れあうのは、いまだに緊張した。


「……ええ」


 カイル大神官に見送られなが大神殿を後にして、馬車に乗り込む。本来であれば新婚夫婦のお披露目の夜会が開かれるところだが、私が希望しなかったためこのまま新居へ向かう予定だ。


 グロリア子爵家の末の息子であるソルは、レヴァイン侯爵家に婿入りするかたちで私と婚姻を結んだ。つまり結婚後はお父さまの庇護下にあるわけだが、二年間は我慢してもらうほかにない。


 新居は、王都の隅に二年ほど前に建てられた屋敷だ。商会の拠点をそのすぐそばに作る予定であるようで、通いやすいように屋敷を建てたようだが、私の縁談の話が上がってからは私のために改築してくれた。


 本来ならば婿としてやってきたソルがレヴァイン侯爵領について学ぶためにも、私たちは領地で暮らすのがいいのかもしれないが、実際のところは二年間の期限付きの婚姻だ。領地のことなど学んでも仕方がない。


 事情を知らないお父さまには「大神殿にいつでも通える距離にいたい」と私がわがままを言って、王都の隅の屋敷をわけてもらった次第だった。


 半刻ほど馬車に揺られ、新居に着く。


 白亜の屋敷が、夕暮れに染め上がっていて火事にあったレヴァイン邸を彷彿とさせた。


 ……新婚初日にはふさわしくない不吉さね。


 内心くすりと笑いながら、ソルの手を借りて屋敷の中へ入る。新たに揃えられた使用人たちは、慎ましく新婚夫婦を迎え入れてくれた。


「エステル、ずいぶん歩いて疲れただろう。まずはゆっくり休んで、それから晩餐にしよう」


 ソルは私を私室まで送り届けながら、早速気づかいの言葉をくれた。


 私が契約結婚を持ちかけてからというもの、彼には砕けた口調で話すようにお願いしている。他人の目を気にしていることももちろんだが、契約結婚だからと言って彼を使用人のように扱うつもりはない、という私なりの意思表示だった。


「……そうね。荷物も解かないといけないし」


「晩餐の支度ができるころにまた迎えに来るよ」


 ソルは優しく微笑んだかと思うと、私の指先にくちづけを落とした。もちろん、絹の手袋越しにだ。


 ……今は誰も見ていないのだから、ここまでしてくれなくてもいいのに。


 するりと彼から手を離して、私室に閉じこもる。ぱたんと扉を閉じた後に、しばらくしてから足音が遠ざかっていくのを聞いた。


 私はソルの時間を一日一枚の金貨で二年分買った。この契約期間の間は「夫」として振る舞うよう、契約書を交わしている。


 とはいっても、私が彼に求めることはひとつだけだ。使用人や世間の目を欺くため、公の場所では夫婦を演じること。それだけだった。彼の心も体も求めるつもりはない。


 ソルはお父さまからの支援を受けて、グロリア子爵家を立て直し、いずれ恋人と幸せになる。その幸せの踏み台となった私の存在を、彼の記憶に深く刻みつけておきたかった。かたちだけとはいえ、二年もの間婚姻生活を続けた相手であれば、忘れようにも忘れられないに違いない。


 ……私をみじめにさせた代償を払ってもらうわ。


 彼にとってこの結婚生活は、牢獄の中で過ごすような心地だろうか。好きなひとを苦しめることでしか繋ぎ止められなかった自分の醜さには、心底うんざりする。


 大きなため息をついて、鏡台の前の椅子に座り込む。髪飾りと共に丁寧に留めたベールを外して、思い切り伸びをした。


 ……ゆったりとした服に着替えたいわ。


 火傷を負ってからというもの、基本的に身支度はひとりでしている。流石に舞踏会へいくときなどはメイドの手を借りないといけないが、そのときも肌着までは完全に自分で整えることにしていた。メイドとはいえ、人の目にこの醜い傷を晒したくないのだ。


 するりと絹の手袋を取り、軽く指を曲げ伸ばしする。左手にはひきつれたような火傷の跡が残っており、右手に比べるとやや動かしにくい。左手が必要となる細かい動作は苦手だった。


 そのとき、こんこん、と扉が叩かれる音がした。本邸では私が呼ぶまで誰も来ないのが通例だったから、妙な感覚だ。


「どなた?」


 冷たく問い返せば扉の向こうから中年の女性の声が聞こえてきた。


「奥さま、旦那さまより奥さま付きの侍女として命じられたサラと申します。身の回りのお世話をお手伝いさせていただいてもよろしいですか?」


 落ち着いた、慎ましやかな声だった。そういえば、この屋敷の使用人はソルが選び抜いたと聞いた。あとで手間賃をソルに渡さなければならない。


「悪いけれど、私はひとりが好きなの。本邸のメイド達から引き継ぎを受けていないかしら? 呼ばない限り来なくて結構よ」


「かしこまりました。では、お部屋の外で待機いたします。何かあればお申し付けください」


「えっ……」


 本邸のメイドたちであれば、このように冷たく突き放せばすぐに離れていったのに。


 しばらく耳を澄ませてみるも、部屋から遠ざかるような足音は聞こえなかった。本当に扉の外で待機しているらしい。


 ……これじゃあ、私が意地悪して部屋に入れていないみたいじゃない。


 小さく息をついて、ベールを付け直す。手袋にもするりと指を通してから、扉を開けにいった。


 扉のすぐそばにはくるみ色の髪をひとつにまとめ上げた私と同年代の女性が立っていた。お仕着せも髪型も僅かにも乱れておらず、侍女の鑑と言った佇まいをしている。


「サラ。……身支度は自分でするけれど、荷解きを手伝ってくれる?」


「かしこまりました」


 サラは慎ましく礼をすると、早速私の部屋の中に入り、荷物の整理を始めてくれた。物音をほとんど立てていないのに、素早く本や小物を棚に収めていく。相当仕事ができそうだ。


 ……お喋りでもなさそうだし、悪くないかも。


 サラの仕事ぶりを横目に、私は衣裳室へ移動した。衣類はすでに新しく揃えられているようだから、その中から適当に選べばいい。


 衣裳室の中には、私の好きな淡い色合いのドレスやワンピースがぎっしりと詰まっていた。よく見れば、顔を覆うベールもいくつか種類がある。どれも私好みの可憐なデザインだった。


 ……お父さまにしてはやるわね。


 派手なものが好きなお母さまに散々贈り物をしてきたお父さまの趣味は、私とは正直合わない。けれど、段々と私の好みがわかってきたらしい。


 夜にふさわしい深い青のイブニングドレスに着替え、せっかくなのでベールもドレスに合わせて青色のものを選んだ。レースにはところどころ銀糸が織り込まれているようで、星空のように美しいベールだ。


 蜂蜜色の髪は結婚式のときのかたちのままにまとめ上げ、支度は完了だ。休むつもりだったのに、もう晩餐の準備ができてしまった。


 ……これじゃあ、私ばかり浮かれているみたいでみっともないわね。


 心の中で自嘲をこぼしながら、サラが作業をしている居室へ戻る。


「すこしお庭を見てくるわ」


「では、旦那さまを呼んで参ります」


 サラの申し出はもっともだが、首を横に振って断った。


「ひとりで歩きたいの。晩餐の時間になったら戻るから」


 それだけ告げて、部屋を出る。お父さまからこの屋敷の庭は花々が咲き乱れる、それは美しい場所だと聞いている。温室もあるようだから、様子を見てみたかった。


 ……落ち着いたら、温室で薬草を育ててみようかしら。


 大神殿が管理するいくつかの孤児院は、まだまだ支援が足りていない。すぐに熱を出したり怪我をしたりする子どもたちには、薬草はいくつあっても足りないだろう。


 考え事をしながら黙々と歩き続ける。庭園から話し声が聞こえてきたのは、屋敷から温室へ至る連絡通路にさしかかったときだった。


「この薔薇は、こちらに束ねたほうが見栄えがいいだろうか……」


「いいや、旦那さま。そいつが一番見事に咲いているんだから、真ん中に置くのが筋ってもんでしょう」


「一日中花の相手をしているのに趣がなくて嫌だわ。旦那さま、真ん中を避けてそこに生けるのはいい考えだと思いますわ。おしゃれでとってもすてき」


 よく見れば、ソルが庭師らしき年配の男性と、若手のメイドらしき女性と話し込んでいる。ソルはなにやら大きな花の束を抱えていた。


 彼が、誰かと楽しそうに話をしているのが好きだ。彼をひとりじめしたい気持ちはもちろんあるけれど、私とふたりきりでは彼はあんなふうに笑わないだろう。


 ……恋人の前ではもっと甘く優しく笑うのかしら。


 ソルと恋人が微笑みあう姿を想像するだけで胸が痛むのに、その笑みを見てみたいと思う私もいた。契約結婚が終わるころには、彼の恋人への謝罪も兼ねていちど会わせてもらうのもいいかもしれない。


 そんなことを考えて三人の姿に目を奪われていると、ソルが視線に気がついたのかはっとしたように顔を上げた。


「エステル?」


 名前を呼ばれ、とたんに居心地が悪くなった。三人の話を盗み聞くつもりはなかったのだが、結果的にそうなってしまったことをなんと言い訳しよう。


 庭師とメイドはあわてて頭を下げ、その間からソルがこちらへ歩み寄ってきた。その手にはさまざまな花が束ねられた大きな花束を抱えている。


「……話を遮るつもりはなかったの。すこし、お庭を歩こうかと思っただけで」


「言ってくれれば迎えにいったのに。今日は調子がいいんだね」


 ソルはにこやかに微笑んで私の姿を眺めた。


 日によって――特に雨の日などは、足に負った火傷の傷が痛んで、杖を使ってもろくに歩けないことがある。


 ……でも、ソルの前でその話をしたことがあったかしら?


 すこし考えを巡らせてみるも、心当たりはない。


 きっと、お父さまか私の主治医から聞いているのだろう。契約結婚だというのに、私の体の問題まで把握させられてかわいそうだ。


「これ……本当は晩餐の席で渡そうと思ってたんだけど、君に」


 そう言ってソルは抱えていた花束を差し出した。片手では抱えきれないほどの大きな花束だ。この庭で育てていたのか、摘みたてのみずみずしい香りがする。


 ……私が彼の時間を買っているだけだというのに、こんなことまでしてくれるなんて。


 ぎゅ、と花束を抱き締める。彼を契約結婚というかたちで縛り付けた自分の醜さが浮き彫りになるようで、恥ずかしさと喜びが入りまじっておかしな気持ちだ。


「ありがとう。……でも、私には気をつかわなくていいの。以前伝えたように、公の場で夫として振る舞ってくれるだけでいいから」


 やんわりと指摘すれば、ソルはどこか寂しそうに目を細めた。


 そんな顔をされると、まるで私が彼の親切を無下にしている悪女のようでますます立場がない。


「……この花は、受け取るわ。とにかく、そういうことだから」


 花束を抱え、くるりと踵を返す。お庭の散策は、また今度だ。


 ぎこちない契約結婚の一日目が終わっていく。自分で始めたわがままなのに、これをあと二年続けると思うと気が重くてならなかった。

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