最終章 侯爵令嬢の溺愛結婚

最終話 侯爵令嬢の溺愛結婚

「ソル、入るわよ」


 ノックをして、ソルが休む彼の私室へ足を踏み入れる。開け放たれた窓から、ふわりと朝の風が迷い込んできた。このところはすこし、涼しくなってきた気がする。


「ああ、エステル。おはよう」


 寝台の上でわずかに上体を起こしたソルが、小さく微笑んで出迎えてくれる。今日も、身支度はすでに終えているようだ。


 ……私の支度は散々手伝ったのに、私には手伝わせてくれないのね。


 心の片隅でほんのすこしつまらない思いを抱きながら、水が張った器と包帯を寝台の横のテーブルに置いた。


 あの夜、カイルが起こした火災でソルは右腕に熱風を受け、軽い火傷を負ってしまった。医者に見せたところひと月もせずに治ると言うが、念の為完治するまでは屋敷で療養してもらうことにしたのだ。


 ソルが右腕に火傷を負ったのは、私とソフィアを熱風から守るため盾になってくれたせいだった。そのおかげで、私のソフィアもあの火災で負傷はしていない。


「包帯を解くわ。痛かったら言ってね」


 ソルにひと言断って、右腕に巻かれた包帯を解いていく。私が十年前に負った傷ほどではないものの、赤く爛れたような彼の肌を見ると私まで痛いような気がしてくる。


 清潔な布を綺麗な水に浸し、丁寧に洗う。十年前の私は火傷から感染してずいぶん長い間熱を出していたようだが、毎日こうして洗っているおかげか、ソルはずっと元気に過ごせているようだった。


「……こんなの、エステルがすることないのに。大変だろう」


 ソルはわずかに視線を逸らしてつぶやいた。私が包帯を替えるたびに繰り返している言葉だ。


「何を言っているのよ。私がしたくてしているの」


 清潔な新しい布を当て、包帯を巻く。初めは綺麗に巻くのにずいぶん苦労したが、今ではお手のものだ。


「……さっき、お父さまから報せが届いたわ。カイルは、騎士団直属の療養所へ送られるのですって」


 あの夜、ソルは大神殿に着く前に院長だけでなく神官たちや商会にも連絡を取っていたようで、周囲に待機していた人々によって火の手が広がる前に火災は鎮火した。カイルと院長は生きて救出されたが、火をつけた本人であるカイルの火傷はひどく、今後命を落としてもおかしくはない状況だという。


 カイルが一連の火災の放火犯であることは、院長が隠し持っていた証拠品の瓶と礼拝室に巻かれた油の種類が一致したことで証明された。神官の身分や出自の問題があるため公には処刑されないだろうが、おそらく今後日の目を見ることはないだろう。


 一方、院長は幸い軽症で、今では騎士達の聴取に応じているらしい。あの夜から二週間が経って、大体の事情がわかってきた。


 院長は、かつてノーラン伯爵家で働くメイドだったそうだ。目が光に弱いのは本当なようで、夜に書斎の整理や玄関の掃除を任されていたのだという。


 そこで酔ったノーラン伯爵の目に留まり、院長は身籠った。


 やがて、院長はカイルとイヴリンを産んだのだと言う。彼らは双子だと、院長は騎士団で告白したそうだ。


 ……思いきったことをしたわね。


 カイルはともかく、イヴリンは今や王太子殿下の婚約者だ。しかも話によると、結婚前だがすでに懐妊しているらしい。王族の血を継ぐ子を宿したイヴリンを今更婚約者の座から引き摺り下ろすわけにもいかず、イヴリンが双子の片割れである事実は今のところ公表されていなかった。


 そもそも双子を殺す風習自体、あまりにも前時代的ではないかという声は一部の高位神官からも上がっているようで、これを機に見直そうという動きも出てきている。


 ……いい方向へ転がればいいけれど。


 院長が不在の今、双子を救う活動の拠点は孤児院からかつて私とソフィアが過ごしていた療養所へ移している。私にできることは、寄付金を装って資金を援助することだけだ。


「そういえば、私が外に出ていない間も、あなたが孤児院や双子を助ける活動にお金を援助してくれていたのですってね。それも、かなりの額を」


 それは、私がソルに渡した「契約」の対価と同等の金額だった。孤児院を新しく建て替え、衣服や調度品を改め、子どもたちのために教師を呼んでもまだ余るほどの額だ。


「僕の都合で君を閉じ込めていたんだ。……子どもたちに不便な思いをさせるわけにはいかないと思っただけだよ」


 ソルは巻き終わった包帯を見て「ありがとう」と呟きながら、背中に敷き詰めたクッションにもたれかかった。


「それにしても、君が双子を助ける活動をしていたなんてな……。もっと早く知っていれば、君にソフィアとの関係を打ち明けられたのに」


「そのくらいの警戒心があったからこそ、あなたたちはここまで無事に生き延びたのよ」


 残りの包帯をサイドテーブルの上に置いて、にいっとソルの顔を覗き込む。ベールがない視界は、いつでも澄んでいてソルの表情がよく見えた。


「それに、あなたとソフィアが恋人だと思っていなければ、あなたに契約結婚なんて持ち込まなかったと思うわ。だから、これでよかったと思うのよ」


 私を踏み台にして幸せになる前に、初恋のひとの自由を二年間だけでも奪ってやると思って始めたことだったが、ソフィアの影がなければその発想には至らなかっただろう。ある意味、彼らの嘘は私たちを運命的に結びつけてくれたと言ってもいい。


「……ソフィアとの関係を偽っていなければ、ひょっとすると僕らは初めから普通の夫婦でいられたかもしれない、とも思うけど」


 ソルはクッションに体を預けたまま、わずかに首を傾けて私の髪を撫でた。


「……君に契約結婚を持ち込まれたころ、本当は君をデートに誘う手紙を用意していたんだ」


「え……?」


 知らなかった。その手紙をもらっていたら、きっと私の考えはずいぶん違っただろう。私に好意を寄せているかもしれない相手を「契約結婚」には絶対に誘わなかった。


「……どこに誘おうとしてくれていたの?」


「精霊エルヴィーナの湖に。……結果的に、去年行けたからよかったけど、また行きたいな」


「そうね。今年は晴れるといいわね」


 帰り際に雨に降られたときは大変だった。あの時期は天候が不安定なのかもしれない。


「今年は初めから宿を用意して行こう。……そのほうがゆっくりできるから」


 弄ぶように指に絡めた私の髪にくちづけながら、ソルは甘く微笑んだ。


 彼と打ち解けてからも、こういう甘い言動にはすぐに顔が熱くなってしまう。この先も夫婦の関係を続けていく上で、私の心臓は持つのだろうか。


「そ、そうね……今度は、お食事もしたいし……礼拝堂にもまた行きたいわ。ソフィアを連れて行ってもいいわね」


 おそらくあのとき、彼は礼拝堂で私にソフィアとの関係を打ち明けようとしてくれていたのだと思う。関係が整理された今、三人で出かけるのも楽しそうだ。


「それ、本気で言ってるの?」


「きゃ……」


 ソルはどこか意地悪につぶやいたかと思うと、素早く私を抱き上げ、寝台の上に寝かせてしまった。軽症とは言え火傷を負っていることを感じさせない動きだ。


「ソル……無理に動かしちゃだめよ。まだ治っていないのに」


「ごめん。……毎日エステルが来てくれるのに触れられないのも結構限界なんだ」


 そう言いながら、ソルは私の肩口に顔を埋めるようにして縋りついてきた。


 思えば彼は私を屋敷に閉じ込めていたときも、この体勢で私を抱きしめることを好んでいた気がする。甘えたがりなのかもしれない。


「あれ、石鹸変えた? いつもと違う花の香りがする」


 首筋に顔を埋めながら、ソルは柔らかく笑った。吐息が肌に触れてくすぐったい。


「……よくわかったわね。ソフィアが、おすすめのものを教えてくれたの。古傷や乾燥にもいいのですって。気に入ったのなら分けましょうか?」


「わかってないな。……エステルが使うからいい匂いになるんだよ」


 ちゅ、と頬にくちづけられ、心臓が早鐘を打ち始める。


「あ……朝からそんなふしだらなことをしてはだめなのよ」


 嫌なわけではないが、これでは一日中ソルから離れられなくなってしまう。心を鬼にして、そっと彼の胸に手を当てて距離を取った。


「それわざと言ってる? 逆効果だよ」


 ソルはにこにこと微笑みながら簡単に私の手をどけ、いっそう絡みついてきた。身動きが取れなくなってしまう。

 

「そ、ソル……今日は私、ちゃんとあなたに伝えたいことがあるのよ」


 彼の腕の中で抗議の声を上げれば、ソルはじっと私を見つめてきた。深い紫の瞳には、もう翳りは見えない。


「伝えたいこと? 改まってどうしたの?」


「あなたに、見せたいものがあって……」


 ソルの拘束がわずかに緩んだのを機に、上体を起こす。そのまま、サイドテーブルの隅に置いておいた一枚の紙に手を伸ばした。


 ソルも続けて体を起こしたようで、持ってきた紙を彼にも見せた。


「……契約書? 君の、名前の――」


 軽く文面に目を通して、ソルははっとしたように顔を上げた。彼にとってはあまり面白くないものだろう。


 何せこれは、十年前に私が「精霊の微睡」を行うことをカイル大神官に誓った契約書なのだから。


「……カイル大神官の執務室に保管されていたものが、返却されてきたの。『精霊の微睡』を行う意思はもうない、って伝えたら、神殿側で処分しようかとも言ってくれたのだけれど……あなたの前で破棄したくて」


 すでに十分に伝わっているとは思うが、改めて、私にもう死ぬ意志はないことを伝えておきたかった。


 二週間弱とは言え、あれだけ彼を翳らせたのは私のせいなのだ。もう二度と、彼にあんな表情をしてほしくない。


「破いちゃうわね」


 ソルを一瞥して、真ん中から思い切り契約書を破く。それを何回か繰り返し、粉々になった契約書を水の張った器の中に沈めた。これで完全に、カイル大神官との契約はなかったことになる。


「……これからは、死にたいなんて言わないわ。こんな傷、どうでもいいの。それに……生きたくても生きられなかった令嬢たちもいるのだもの。せっかく助かった命を放り出す真似は、もうできない」


 カイルの言葉が、呪いになっているわけではない。重たい枷として私にのしかかる前に、ソルと院長が解いてくれたからだ。


 でも、カイルに殺された令嬢たちのことを知って、同じ事件に巻き込まれた私が死を望むのは間違いだと思ったのは確かだ。彼女たちのぶんも幸せになろう、なんて言えるわけではないが、助かった者の定めとしてこの古傷と共に生きて行こうと思うのだ。


「その決断をさせてくれたのは……あなたのおかげよ。もちろん、ソフィアもだけれど。……あなたのいる未来ならば、私、いつまででも生きていきたい」


 横になっていたせいで乱れた彼の前髪をそっと整えながら、笑いかける。以前の私ならば、こんなふうに素顔で彼と話すことなんてできなかった。


 私を変えてくれたのは、他でもないソルだ。ソルの言葉が、微笑みが、果てのない愛情が、私をこんなに前向きにしてくれた。


「だから……二年間だけじゃなくて、この先もずっと私と一緒にいてくれる? たったひとりの夫として……ずっと、私のそばにいてほしいの」


 ぎゅ、と自らの手を握りしめながら、ソルの瞳を見上げる。


「好き……ソルが、ずっと好きなの。愛しているわ」


 一呼吸置いて、ソルの顔がみるみるうちに赤く染め上がっていく。先ほどまで、私の首筋に顔を埋め、くちづけていたひととは思えない反応だ。


 ソルは何かを言おうと唇をわずかに開けたあと、慌てたように私からわずかに離れた。


「あ……エステル、ちょっと、ちょっとだけ待ってて。本当にちょっとだけ」


 そう言ったかと思うと、ソルは寝台から滑り降り、続き部屋になっている彼の私室のほうへ駆けて行った。なんだか、予想外な反応だ。


 言葉通り、ソルはすぐに戻ってきた。その手には、私の杖とよく似た白い木材で作られた小箱が握られている。


「これ……君にあげたくて……本当は、火傷が治ってからどこか出かけたときに渡そうと思っていたんだけど……」


 そう言いながら、ソルは小箱を私に見えるように開けてくれた。中には、杖に嵌め込まれているものと同じ種類の宝石が散りばめられた、繊細な指輪が収められている。


「きれい……」


「着けてみて。大きさも調整したから、合うはずだよ」


 ソルは私の左手を取ると、薬指に指輪をつけてくれた。火傷で引きつれている部分もあるのに、引っかかることなくぴたりとはまる。


「異国では、恋人に求婚するときに指輪を贈るんだって。レヴァイン商会で学んだんだ。それを知ってから、ずっと、エステルに贈りたくて……」


 この宝石の配置からして既存品ではないことは明らかだ。だが、彼と心が通じあってから準備したにしては早すぎる。


「いつから、用意してくれていたの……?」


「……君と契約結婚を始めたときに、ソフィアに頼んだんだ。契約が終わるときに、駄目で元々で君に求婚しようと思っていて……」


 ソルはいまだに赤みの残る頬をわずかに掻いて、気恥ずかしそうに笑った。


「でも、君に先を越されちゃったな。僕らの恋路においては、君がいつも一歩先をいくようにできているみたいだ」


 ソルはそっと私の両手を取ると、じっと瞳を覗き込んできた。


「……僕も、ずっとエステルと一緒に生きていきたい。そうなったらどんなにいいだろうって……きっと君より長く夢見ていた」


 ソルの瞳に、わずかに涙がにじんでいた。深い紫の中にきらきらと光を反射して、まるで星空のようだ。


「大好きだよ、エステル。僕にとっても君が初恋で、最後の恋だ」


 そう言いながら、ソルは甘く微笑んで額をすり合わせてきた。


 私もそれに応えるように瞼を閉じ、わずかに顔を上向ける。幸せに満ちた涙がひと粒、頬を滑り落ちていった。


「ふふ……今度は、対価も期限もない、本物の結婚生活ね」


「ああ、そうだよ。いつまでも終わらない、夢のような日々だ」


 祈るように額を擦り合わせたまま、涙ににじんだ視線が絡みあう。ここは、ふたりきりの世界だった。


「君の永遠を僕にちょうだい、エステル」


「ええ……あげるわ。私たち、いつまでも一緒よ、ソル」


 誓いの言葉のように囁きあって、くすくすと笑いあう。やがて吸い寄せられるようにふたりの唇は重なっていた。


 ひとりぼっちの傷痕姫も、世界を呪って生きてきた忌み子ももういない。


 ここにいるのは、真の誓いで結ばれた、平凡で幸福なひと組の夫婦だった。



                                    [終]

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傷痕姫の契約結婚 染井由乃 @Yoshino02

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