第2話 初めての恋
『レヴァイン侯爵家に、それはそれは美しい令嬢が生まれたらしい。その上、優しく朗らかで、まるで精霊の使いのように愛くるしい少女なのだそうだ』
生まれてからの九年間、私に対する評価は「精霊の使いのように完璧な少女」だった。お母さまの美貌にさらに磨きをかけて生まれた私は当代一の美少女と謳われ、大人たちの前に姿を現すだけで大絶賛された。私より四つ年上の王太子殿下にもひと目で気に入られ、いつしか王太子殿下の婚約者筆頭候補とまで噂されるようになった。
生まれたときからそのように扱われていたから、人から美しいと言われることに違和感は覚えなかった。むしろ、生まれ持った自分の美貌に誇りを持ってさえいたと思う。柔らかなはちみつ色の髪、星の輝きに例えられる碧の瞳、透き通るような肌。すべてが完璧だと自分でも思っていた。
けれど、その美しさも長くは続かなかったのだ。
今から九年前、ちょうど私が九歳を迎えたころ、私と家族が滞在していたレヴァイン邸が火事に見舞われた。大きな白亜の屋敷は全焼し、家財もずいぶん失った。
火事の原因は、そのころ幼い子どものいる貴族家にばかり火をつけて回っていた放火犯のせいだろうと思われたが、犯人は結局捕まらなかった。
我が家からは幸い死人は出なかったが、逃げ遅れた私はそのときに左半身にやけどを負ってしまった。
一時は命も危ぶまれ、火事のあとひと月ほどの記憶はひどく曖昧だ。痛みと高熱に苦しんでいる間に、憔悴しきった父が手を握ってくれたことだけはなんとなく覚えている。
火傷の傷についた感染もなんとか収まって、私がまともに起き上がれるようになったのは火事からふた月が経ってからだった。重ねるように包帯を巻かれた左腕と左脚を忌々しく思いながら、ひさしぶりに私は鏡を覗き込んだ。
『っきゃあああああ!』
そこに映ったのは、私の知らない誰かだった。当代一の美少女と謳われたあの完璧な姿はどこにもない。
左目のあたりは赤く爛れ、ところどころ引きつれており、形の良い二重は跡形もなくなっている。ふた月もろくに食べていなかったせいでふっくらとしていた頬はみずぼらしくこけて、汗や軟膏やらで薄汚い肌をしていた。
「精霊の使い」とまで呼ばれたあの美しい少女は、火事で焼け落ちてしまったのだ。あとに残るのは、醜い傷痕と、実家の権威に頼るしかない弱々しい自分だけ。
人生が、がらりと変わる予感がした。
その後、一年をかけて療養し、私は杖の力を借りてひとりで歩き回れるまでに回復した。私を哀れに思った父は、王国一、二を争う財力に物を言わせて、宝石の散りばめられたやけに豪華な杖を私に買い与えた。
「精霊の使い」であった私にはともかく、醜い傷の残る私が持つにはどうにもちぐはぐで、持ち歩くのには抵抗感があったけれど、父の心遣いを無碍にすることはできなかった。
醜い火傷を顔に残しながら、レースやリボンのたっぷりついたドレスを身につけ、ごてごてと宝石の埋め込まれた杖を持って新しい屋敷の中を歩き回る私のことを、いつしか使用人たちが蔑むように見ているのを知った。以前は「お嬢さまは国いちばんの美しさだ」とあれほど持て囃したものなのに、手のひらを返すとはまさにこのことだ。
あるときには、屋敷に新しく入ってきた使用人の少女が私の顔を目にして、悲鳴を上げたこともある。
『きゃあああああ! 化け物!』
彼女はまだ、私がこの屋敷の令嬢であることを知らなかったのだろう。その可能性はすぐに頭をよぎったが、気づけば衝動的に杖を振り上げていた。やり場のない怒りともどかしさを、理不尽にも自分より立場の弱い者にぶつけようとしたのだ。
だが、ふっと少女の泣き顔が目に焼きついて、はたと手を止める。
その少女は特別顔が整っている訳ではなかったが、火傷の痕がないというだけで泣き叫んでいる姿すら愛らしく見えた。
途端に自分がみじめに思えて、杖の先は静かに床に下ろした。
その一件以降、私は顔を薄手のベールで隠すようになった。もちろん、これも父が職人に作らせた一級品だ。
元から私の美しさだけを愛していた母は、このころにはもうすっかり屋敷に寄り付かなくなっていた。父は母のために豪華な別邸を建て、そこに母を住まわせているのだと使用人たちの噂話で知った。
父と母の仲は決して悪くなかったのに、私が醜くなったばかりにふたりがともに過ごす時間までも奪ってしまったのだ。
社交界にデビューしたあとも、家門同士の最低限の付き合いを除いて、夜会への積極的な誘いを受けることはなかった。醜い令嬢を招待したところで、得られるものは少ないと判断されていたのだろう。
王太子殿下との婚約話は、正式な取り決めが交わされる前だったのをいいことに、まるで初めからなかったことかのように扱われていた。いつのまにか、私の知らない美しい伯爵令嬢が殿下の婚約者になっていたのだ。
私には、何もない。持っているものも、できることも、何も。
それでも、優しい父を必要以上に心配させないように、義理で招待された数少ない集まりには顔を出すことにしていた。
集まりに顔を出すと言っても、若い令嬢や令息たちから冷ややかな視線と嘲笑を浴びせられながら、広間の隅で身を小さくしているだけだったが、それが私を現世に止める最後の細い糸のような気もしていた。
『ご覧になって、あの方が』
『ああ、噂の【傷痕姫】』
傷痕「姫」とは、皮肉もいいところだ。精霊の使いのようだと謳われたかつての美貌までも馬鹿にしているのだろう。気にしないことにしていたが、心は確かにすり減っていた。
だが、こんな陰口くらいならばまだいい。時には好奇心旺盛な令息たちに絡まれたり、令嬢たちに物を隠されたり、転ばされたりと、ささいな嫌がらせは山とあったのだから。
父に報告すればレヴァイン侯爵家の権力にものを言わせて彼らの家に責任を追求することもできただろうが、そこまでみじめになりたくなくて、じっと耐え忍んでいた。
醜くなりながらも、美しかったころの矜持だけはほとんどそのままに生きている。化け物、と言った使用人の少女の指摘は案外的確かもしれない。すでに私は救いようのない生き物であることは自覚していた。
そんな私が、憂鬱な夜会や舞踏会の中で見つけたたったひとつの光こそ、彼――ソル・グロリア子爵令息だった。
煌めく銀の髪と、神秘的な紫の瞳。どんな彫像も顔負けの、恐ろしいほどに整った目鼻立ち。加えて愛想もいい彼は、静かな微笑みを浮かべるたびに令嬢たちの心を奪っていた。
初めは、私が失った美貌を彷彿とさせるその美しさに目を奪われていただけだった。
私が今も彼くらいに美しかったら、どんなドレスを着ただろう。髪には何を飾っただろう。重たい宝石の杖ではなくて、優雅な扇を左手に持って、くるくると舞踏会を渡り歩いていたはずだ。
そんなふうに彼を通して妄想を膨らませることが、密かな心の癒しとなっていた。
でも、次第に彼から目を離せなくなっていったのは、彼の内側の魅力に気づいてしまったからだろう。
彼は、誰にでも優しかった。彼に無礼なほどの勢いで言いよる令嬢には丁重な断りの言葉をいちいち述べ、同年代の令息たちとも上手に付き合い、年配の紳士や婦人の体調を気遣って、誰からも感謝されていた。
『ソルさまが笑うと、あたりにぱっと灯りがつくようですわ』
『本当に、なんて美しくてお優しい方なのかしら』
私のことを口汚く罵る令嬢たちでさえ、うっとりとそんな言葉を口にしていた。
美しく、誰に対しても平等な優しさを持つ、完璧な青年。醜く、過去の栄光に縋り付いている化け物の私とは、まるで正反対のひとだった。
影は、光に惹かれるようにできているらしい。気づいたときには、夜会に出席するたびに彼の姿を探す私がいた。
その焦がれるような視線は、ベール越しにもわかってしまったのだろう。あるとき、令嬢たちに囲まれ、されるがままに私はバルコニーへと連れ出されてしまった。
侍女に助けを求めたかったが、醜い私を軽んじているのか、夜会の間は姿を消していることがほとんどで、このときもついに見つけることができなかった。
『レヴァイン侯爵令嬢、あなた、ソルさまがお好きなのね』
『ご自分のお顔を鏡でようく見直したほうがよろしくてよ』
『あなたのような化け物にまで好かれるなんて、ソルさまがお可哀想』
口々にかけられる罵倒の言葉を、じっと身を固くして受け止める。お化粧とすてきな髪飾りで美しく姿を整えた彼女たちが相手では、何も言い返せなかった。
『ソルさまのおそばに近寄れないように、わたくしたちがきちんと対策しないといけませんわね』
令嬢たちはくすくすと笑いながら、私が持つ杖に目をつけたようだった。宝石が散りばめられた、父から贈られた長年愛用している杖だ。
『傷痕姫の分際で、そのような杖は身に余るでしょう?』
『わたくしたちが処分して差し上げますわ』
くすくすと笑いながら、令嬢たちの白い手が私の持つ杖に伸びる。慌てて杖を胸に抱き締めるように力を込めたが、左手の火傷を隠すためにつけていた絹の手袋のせいで、強い力で引っ張られるとつるつると滑ってしまう。まもなく、杖は令嬢たちに奪われてしまった。
『返して……! それは、お父さまがくださったものなのよ』
私のような者が持つことには抵抗感があったが、杖自体が嫌いな訳ではなかった。お父さまが、私を思いやって用意してくれた世界で唯一の品なのだ。雑に扱っていいものではない。
『そう? じゃあお金持ちの侯爵さまに新しいものを買っていただきなさいな。今夜は這いつくばって帰ることね』
けたけたと笑いながら、令嬢は宝石の散りばめられた杖をバルコニーの柵の向こう側へと放り投げた。
杖に埋め込まれた宝石たちが、月影を反射して流れ星のように煌めく。そしてそれはすぐに、地面へと吸い込まれていった。
慌ててバルコニーから身を乗り出して、杖を確認する。途中で太い木の枝に当たったようで、杖は真ん中からぽっきりと折れていた。宝石も外れてしまったのか、折れた杖の周囲がきらきらと煌めいている。
ざあ、と夜風が吹き抜けた。風がベールをふわふわと舞い上げて、夜の庭に私の素顔を晒す。幸い令嬢たちは杖を落としたことで満足したのか、華やかな笑い声を上げながら広間へと戻っていくところのようだった。
眦に、何か生暖かいものが溜まって、風にさらわれていった。
それが涙だと気づいたのは、夜風にずいぶんと体が冷えてからのことだった。
バルコニーに寄りかかったまま、眩い月を見上げる。私の醜さを露わにするかのような光が、忌々しかった。
じっと、地面の上で無惨に散らばる宝石の輝きを見つめる。飛び降りるつもりなどないが、その煌めきに手招かれるような心地で、ぎし、とわずかにバルコニーから身を乗り出した。
『レヴァイン侯爵令嬢!?』
よく通る、美しく澄んだ低い声に呼び止められたのは、そのときだった。
ぐ、と力強い腕がお腹の前に回され、背後に引き寄せられる。そのままよろめくように、後ろに立つそのひとの胸板に頭を預けた。
『何をなさっているのですか!? そんなに身を乗り出しては危ないでしょう! もっと御身を大事になさってください!』
ひどく焦ったような声で私を叱責するのは、輝くような銀の髪の青年――ソル・グロリア子爵令息だった。
驚いて、声も出ない。何度か瞬きをしていると、彼は向かい合うように私の両肩に手を乗せて、深く息をついた。
私が柵から身を乗り出しているのを見て、駆け寄ってきてくれたのだろうか。よく見れば彼の肩は小刻みに上下していた。
……なんて、お優しい方。
思わず、胸もとにそっと手を当てる。ドレスの上からでもはっきりとわかるほどに、心臓が激しく跳ねていた。ソルと顔を合わせるどころか、事故のようなものとはいえ体が触れ合うことになるなんて、夢にも思わなかったことだ。
……それに、私のこと知ってくれていたのね。
彼は確かに私を「レヴァイン侯爵令嬢」と呼んだ。
それが嬉しくて久しぶりに心がじんわりと温かくなるような気がしたが、すぐに社交界で「傷痕姫」のことを知らぬ者などいないと気がついて、胸に鋭いものが刺さったような気がした。
彼は礼儀正しい人だから私を蔑称で呼ばなかった。ただそれだけのことなのだ。
『どうしてあのような危険な真似をなさっていたのですか? 侍女はどこです?』
ソルは私たち以外の誰もいないバルコニーを見渡して、眉をひそめた。令嬢が侍女も連れずにこんなところにいることを、不審に思ったのだろう。――あるいは意図せずして「傷痕姫」とふたりきりになってしまったことを悔やんでいるのかもしれない。
『杖を……落としてしまって。様子を見ていただけですわ』
ソルは柵に近寄って、地面を覗き込んだ。すぐにぽっきりと折れた杖が目に入ったのだろう。まるで自分が痛みを覚えたかのように表情をくしゃりと崩して、私に向き直った。
『……悲しい想いをされましたね。大切にしていらしたでしょう?』
私を思いやるような共感の言葉に、不覚にも涙が溢れそうだった。生まれてこの方、人前ではいちども泣いたことがないというのに。
『……別に、そんなことは』
涙を誤魔化すように可愛くない返事をすれば、ソルはふっと困ったように笑った。
『杖の状態を見ていればわかります。よく手入れされていましたから』
……私の杖の状態をどうして知っているのかしら。
不思議に思ってソルを見上げると、彼は慌てたように笑みを取り繕った。
『知り合いが、杖の職人でして……レヴァイン侯爵令嬢の見事な杖には、思わず目を奪われていたものですから……』
責めている訳でもないのに言い訳めいた言葉を並べ始めた彼が、なんだかおかしかった。
くすり、と誰にもわからないくらいに小さく笑えば、ソルがはっと息を呑む。
しまった。火傷を負ってからというもの、人前では笑わないようにしていたのに。
薄手のベール越しでも、表情くらいは伝わってしまうのだ。醜い私が笑っても、相手を不快にさせるだけだと自分に言い聞かせてきたというのに、憧れのひとを目の前にすると歯止めが効かなくなってしまったらしい。
『……事情はおわかりになったでしょう? ご心配いただくようなことはありませんわ。どうぞ、会場にお戻りになって』
ソルから視線を逸らしながら、会話を終わらせようと試みる。これ以上、彼に醜い姿は晒していたくない。
『しかし……杖がなくては移動に不便でしょう』
『待っていれば、そのうち侍女が参りますから』
夜会の間私のそばから離れてはいるが、流石に帰るころになると私を迎えにやってくる。今日も、きっと来てくれるだろう。嫌がるだろうが侍女の手を借りて馬車に向かえばいい。
それに、多少足を引きずるが、杖がなくともまったく歩けないわけではないのだ。侍女が来るまでの時間もどうとでもなる。
『……レヴァイン侯爵令嬢、ご無礼をお許しください』
その言葉と同時に、ふわりと体が宙に浮き上がる。瞬く間に、私は彼に抱き上げられていた。
『グロリア子爵令息……』
『このまま夜風にあたっていてはお体に障ります。よろしければ、僕に馬車まであなたをお送りするお許しをいただきたい』
抱き上げられたせいで先ほどよりもずっと近くで目が合って、心臓がはちきれそうだった。緊張で涙目になりながら、動悸を抑え込むように胸に手を当てる。
すてきな殿方に抱き上げられることなんて、一生ないと思っていた。密かに心の片隅で抱いていた夢を、憧れの人に叶えてもらったことに、胸のなかが喜びでいっぱいになる。
……何を喜んでいるの。彼は親切にしてくれているだけなのに。
人の清らかな親切に己の邪な願いを重ね合わせるなんて、あまりに品がなくて我ながら眩暈がした。彼だって、私が抱き上げられて喜んでいると思ったら、気持ち悪くてすぐに手を離すに違いないのに。
己を律するようにいい聞かせ、いちどだけ深呼吸をする。ここから断るのも彼に失礼な気がして、あくまで淡々とした声で返事をした。
『……ありがとう。助かります』
『よかった。ゆっくり歩きますから、不都合があったらおっしゃってください』
こくりと私が頷いたのを確認して、彼はゆっくりと歩き始めた。
会場には戻らず、ひとけのない廊下を選んで慎重に歩いてくれる。ソルの足音だけが響き渡る薄暗い廊下を通るときには、わけもなく緊張してしまった。
移動中、言葉を交わすことはなかったが、彼の足音が響くたびに嬉しくなった。今だけは、みんなの人気者を私がひとりじめしている。
侯爵家の紋章が描かれた馬車のそばには、侍女の姿があった。どうやらこちらで時間を潰していたらしい。社交界の人気者に抱き上げられながら姿を現した私に、侍女はずいぶん驚いていたが、ソルに微笑みかけられてたちまち顔を赤くしていた。
ソルは私を座席に座らせるなり、恭しく手にくちづけた。紳士としてはありふれた礼儀の示し方なのに、ソルにされるとどきりとしてしまう。
『レヴァイン侯爵令嬢、よろしければ杖のことは僕にお任せください。……どうかゆっくり休まれますよう』
とろけるような甘い笑みを残して、彼は馬車から降りた。御者が余韻も何もなく、ばたりと機械的に扉を閉める。
馬車の窓から、恐る恐る外を見遣れば、ソルが見送りのために待機してくれていた。たまたま杖を失くした令嬢を馬車まで送り届けただけだというのに、律儀なひとだ。
『……出して』
御者に合図を送りながらも、心は馬車の外に置き去りになっていた。
心臓は、いつまでもばくばくと高鳴ったまま、屋敷に戻っても静まる気配を見せなかった。
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