第5話 クロナの記憶

 昨日よりもほんの少し熱を帯びた太陽が、シエラリスの街を照らす朝。

クロナへの宣言通り、新薬の実験をすることにしたリーシェルは、眠たげな彼を連れ、朝から屋敷の隣に立つ小ぢんまりとした雑貨屋にいた。

リーシェルの実験室は、不可思議が寄り集まったような雑貨屋の奥に存在し、樫木でできた豪奢な机には、よく分からない植物をはじめとした実験器具が多く置かれている。


「リーシェル、今日はにゃんの実験にゃ? 昨日の変身薬?」

 すると、ビロードのカーテンが開け放たれ、日差しが注ぐ机の上で、クロナはとぐろを巻いた細長い葉っぱと、どんぐりのような形の青い木の実を手にするリーシェルに問いかけた。

実験にけるクロナの役割は、大抵が薬を舐めて感想を告げることなので、彼自身あまり詳細を教えてもらえないことも多い。

もちろん、リーシェルが危険なものを寄越すわけもないのだが、昨日の今日である以上、内容も気になっているようだ。

「ううん。あれは正直、臨床試験できるような代物じゃない試作品よ。昨日のおかげで、方向性が合っていることは分かったけれど、もっと改良しなきゃ。……不味かったでしょう?」

「にゃ……。泥水に落ちたときの味がしたにゃ……」

「フフ、やっぱり。そうじゃなくて今日は、この間試してもらった治癒薬の改良版よ」

 長い尻尾を前脚に巻き付け、首を伸ばして問うクロナに、リーシェルは昨日の感想も聞きながら、内容をそう明かした。


 毎日とはいかないものの、新薬の開発・実験に余念のないリーシェルは、雑貨屋の店番をクロナやスーリャに任せ、この部屋に籠っていることも多かった。

開発する薬の内容は、怪我や病気などに対応する治癒方面の回復薬から、昨日見せた変身薬、惚れ薬といった類も含まれる精神薬など様々。

その中でも一番の功績と称されるのは、三十年程前に完成させた、人狼の変身を抑制する薬だろう。これにより、通常時は人と同じ生活を送るものの、満月の夜にのみ獰猛な獣となる人狼の変身が抑制され、世界中の人狼被害が減ったと欧州国際連盟が感謝状を贈呈したほどだ。

もっとも、本人には別の意図があったようだが……。


「それって心がむずむずするやつかにゃ?」

 それはさておき、リーシェルの回答にふと目を細めたクロナは、嫌そうに呟いた。

「うん。主に記憶とか、心に影響を与える薬よ」

「にゃんでリーシェルはそれの開発をするにゃ? くすぐったくて眠くにゃるのに」

 だが、滲み出るクロナの嫌に気付かないふりをして、取り出した紫色の粉に仕上げを始めるリーシェルを見つめ、彼は駄々をこねるように問いかける。

すると、青い木の実をり潰して出てきた銀色の液体を、紫色の粉に混ぜる手を止めた彼女は、少しだけもの悲しそうに言った。

「……クロナはさ、記憶がないでしょう?」

「にゃ?」

「私と会う前の記憶。私はそれを取り戻してあげたいのよ」

「……!」


 珊瑚を想わせる桃色の瞳に悲哀を乗せ、リーシェルはそっとクロナの喉元を撫でた。

十七歳の夏に出会い、それから今まで四五〇年。

クロナはリーシェルの相棒として、いつでも一緒に過ごしてきた。

どこに行くも何をするも、ある一点を除いてはいつも一緒で、充実した幸せな日々。

だが、そんな彼には、リーシェルと出逢う以前の記憶がなかった。

自分がどこで生まれ、どうして人語を操れるのか、何も分からない。

気付いたときにはリーシェルのベッドの上にいて、丸くなっていたのが最初の記憶。

そのときにはもう人の言葉を理解していた。

だけど……。


「僕は、リーシェルと一緒にいる今が幸せにゃから、昔のことなんて気にしにゃあよ」

「それでも私は、思い出してもらいたい。これはそのための薬よ」

 クロナにとって大事なのは、過去よりもリーシェルの相棒である今だ。

だが、何か特別な想いがあるのか、首を振った彼女は淡い黄緑色となった薬を差し出して言う。

 魔力エレメントを用いた薬や、魔法を使う際に生じる礫には、それぞれの特性が色として出る。

一般の魔法使いの場合、それらは透明に近い灰色だが、魔法名家は加護を受けた精霊の色が影響を与え、変化するのが常だった。


 そもそも魔法名家は、ここクウィンザー王国と、フェレアの森を挟んで北にあるソフィリス王国に存在する特別な家系で、一般的には

炎の精霊の加護を受け、緋色の礫を持つ「炎帝えんていの一族・カルムード家」

大地の精霊の加護を受け、黄土色の礫を持つ「地祇ちぎの一族・フロウヴィス家」

光の精霊の加護を受け、金色の礫を持つ「陽華ようかの一族・アフォロニア家」

風の精霊の加護を受け、黄緑色の礫を持つ「風伯ふうはくの一族・ネセセリア家」

森の精霊の加護を受け、緑色の礫を持つ「緑葉りょくようの一族・グリーフィア家」

氷の精霊の加護を受け、薄青色の礫を持つ「氷晶ひょうしょうの一族・シープス家」

水の精霊の加護を受け、青い礫を持つ「粋碧すいへきの一族・レースクラウン家」の七つを指す。

さらには、人が持つ負の感情を、魔力を使って取り込むことで藍や紫と言った負の礫に転換する闇魔法の使い手、そして、七つの精霊を掛け合わせた象徴的存在白を含め、これらは世界十大要素と呼ばれている。


 故にリーシェルが作った薬は黄緑色なのだが、過去何度かこの薬を体験しているクロナは、やっぱり嫌そうだ。

「にゃあ…でも記憶を取り戻すのに、にゃんで心がむずむずする薬を作るんにゃ? 記憶は頭にあるんじゃにゃあの?」

 木製の器に入った光沢のある液体を前に、腰が引けた様子で一歩後ろに下がったクロナは、何とかして薬の摂取を回避すべく問いかけた。

苦し紛れとはいえ、的をた質問に、リーシェルは一瞬驚いた様子で彼を見つめたが、やがて彼女は理由をこう説明する。

「そうね。これはあくまで私たち魔法族の定説だけれど、「心」って言うのは、心臓を包むように存在する魔力エレメントの結晶よ。人や動物を、そのいきものたらしめる要素エレメント。これが欠けてしまうと、そのいきものには記憶障害や人格の瓦解がかいなど、様々な弊害が出ると言われているわ」

「……!」

「おそらくクロナの記憶は、この心が影響しているんだと思うの。もちろん、強いショックを受けると人は自衛のために記憶を失くすとも聞くから、絶対とは言い切れないけれど……。でも、この薬が完成すればあなたはもちろん、人々の心の治癒にも役立つわ。さ、覚悟が決まったら試してちょうだいな」


 難しい話をクロナが理解しているかどうかはさておき、この薬を作る理由を一気に告げたリーシェルは、笑顔で薬を引き寄せた。

きっとどう足掻いても、クロナは薬を舐めなければいけないのだろう。

このまま時が過ぎ、お昼ご飯や日向ぼっこの時間を奪われるくらいなら、早急に片づけてしまった方がいいのかもしれない。

「にゃ……」

 幾度かの逡巡の末、そんな結論に達したクロナは、覚悟を決めた顔で薬を舐めた。

爽やかな清涼感とほんのりフローラルが香る薬は、昨日舐めた変身薬に比べたら不味くはない。

だが、途端襲うむず痒さと眠気に、クロナは微妙な面持ちだ。


「どう? 何か変化はある?」

 すると、何とか薬を舐め切り、ゆっくりと香箱座りでうとうとしだすクロナに、リーシェルは背中の辺りを撫でながら問いかけた。

心が何か影響を与えているのか、この薬を舐めるとクロナは必ず眠りにつく。

それが良い兆候なのかどうかは不明だが、彼女の質問にクロナはとろんとした瞳で言った。

「にゃあぁ……。体の内側がむずむずするにゃ……。そして眠いにゃ……」

「うーん。記憶や心の方には、特に変化はなあい?」

「分からにゃあ……。とにかくむずむず、ふわふわ、体の中に炎の精霊が迷い込んだみたいに、少し熱を持ったようにゃ…感覚にゃあ……」

 左の頬に手を当て、もう片方の手でなでなでしてくれるリーシェルを見つめ、クロナは何とか感想を告げると、力尽きたように頭を垂れた。

その、見事なまでのごめん寝に、リーシェルはかわいいものを見る目でクロナを撫でていたが、しばらくして傍を離れた彼女は、日差しが差し込む窓辺で悩むようにひとりごちる。


(むずむず、ふわふわ……熱を持った感覚。薬の作用と私の魔力エレメントがクロナの心に届いてはいるのだろうけれど、一体、どうしたら……)

 難しい顔で瞳を細め、窓の外を睨むように、彼女は考えた。

クロナには決して言えないけれど、リーシェルは、彼がなぜ記憶を失くしたのか、その理由を知っている。

そして、どうしても記憶を取り戻してもらいたい理由も。

もちろん、本人に話したところで、クロナ自身にはどうすることも出来ないだろう。

だからこそ真意は告げず、実験と称して薬を舐めてもらっているのだ。

(………)

 だが、それもかれこれ数百年。

期待と諦めきれないもどかしさに、彼女の心は複雑だ。



「――…先生! リーシェル先生!」

「……!」


 と、そのとき。

不意に実験室の扉が開いて、薄茶色の髪をした少女が飛び込んできた。

雑貨屋店番中のスーリャを連れた彼女は、たれ目がちの瞳に大粒の涙を溜め、青ざめた表情でリーシェルを見つめている。

「シルキアじゃない。どうしたの、そんなに慌てて……。何かあった?」

 突然響いた大きな音に、リーシェルは一瞬、呆気に取られた様子で目を瞬いていたが、相手が誰であるかに気付くと、すぐさま駆け寄って言った。

シエラリスで街を照らす魔法とうの制作をしているシルキアは、リーシェルの元教え子だ。


「先生……助けてください。……彼を、助けて……っ」

 だが、普段の溌溂とした彼女とはかけ離れた姿に声を掛けた途端、シルキアはくずおれるように呟いた。

悲痛な様子を鑑みるに、きっと何かあったのだろう。

嫌な予感にリーシェルが心配を募らせていると、シルキアは大きく息を吸った後で、彼女に向かって叫んだ。


「私の彼が、事故に巻き込まれてしまったんです……! 先生、どうか彼を助けてくださいませんか……っ!」

「……!」

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