第一幕 少女は黒猫の未来を憂う
第1話 その少女、魔女につき
小鳥の
やや熱を帯びた初夏の風は山間の街を吹き抜け、白い太陽が顔を出す。
ここは神秘と魔法に彩られた東欧の小国・クウィンザー王国。
その北西部に位置する街・シエラリスの中心街だ。
北に広がるフェレアの森に接するこの街には、世界最古の魔法学校が存在し、学生を初めとした多くの人々が日夜忙しなく行き交っている。
そんなシエラリス中央広場の目と鼻の先にある、場違いなほど広大なゴシック建築の屋敷では、朝日と共に一人の少女が目を覚ましていた。
胸元まである若葉色の美しい髪に、珊瑚を想わせる桃色の瞳。長い睫毛に朝日を浴びて目を開けた少女は、途端左頬に寄り添う黒い毛玉に気付いて、視線をそちらに向けている。
「おはようクロナ。またここで寝ていたのね。道理で頬の辺りがふわふわすると思った」
「にゃ~……。リーシェル、まだ五時にゃ……」
そう言って少女――花の四百路を
「五時は立派な起床時間よ。私は雑貨屋の方に行ってるから、クロナもご飯もらったらおいで」
「にゃぁぁ……」
眠そうに顔を覆う喋る黒猫・クロナを見つめ、リーシェルは笑顔で断言すると、風の精霊に願いながら身支度を整えていった。
世間ではロココと呼ばれる、コルセットをぎゅうと締め、左右に膨らんだパニエが印象的なパステルカラーのドレスが流行っているそうだが、彼女の服装はランタンスリーブのロングドレスに革製のベスト、翡翠色に金糸を施したローブと幾分シンプルだ。
本来、リーシェルが生まれたネセセリア家は「
にも
今日もきっと、勝手に着替えて仕事をしようとする彼女に、侍女のお小言が飛ぶのだろうが、クロナは
「あ。そうだ、クロナ。今日もまた新薬の実験を手伝ってくれる?」
言ったところで聞くわけもない彼女に、四五〇年も一緒にいるクロナが諦めていると、リーシェルはふと思い出した顔で問いかけた。
薬の精製にも長けている彼女は、屋敷の隣に立つ小ぢんまりとした雑貨屋を経営しながら、時折クロナと共に実験をしている。
事実それにより幾つかの新薬が発明されているのだが、実験の言葉にクロナは苦い顔でごろんと転がって、
「リーシェルの薬は舐めると心がむずむずするから嫌にゃ。眠くにゃるし」
「ちょっとだけだから。ねぇ、私の相棒でしょう?」
「にゃあ……」
「今日のご飯、クロナの好きなお魚にするから」
眠っていたクッションから転がり落ち、おなかを見せるクロナに懇願すると、それまでパタパタさせていた彼の長いしっぽがぴたりと止まった。
きっと機嫌を直してくれたのだろう。
それを察しながら答えを待つリーシェルに、クロナは悩んだ後で丸くなり。
「……ちょっとだけにゃら、いいにゃ」
「ありがとう。じゃあ後でね」
(心がむずむずする…か。それはいい兆候なのかしら)
結局はご飯に負けたクロナと別れ、
身の内に宿る
だが、少しばかり気の強そうな彼女の瞳には今苦悩が宿り、どこか悲しげに見える。
何か、取り掛かっている新薬に懸念事項でもあるのだろうか。
(いいえ、簡単に落ち込んではダメよね。私は諦めない。心を取り戻すまでは何度だって……)
果てしなく続くのではと思われる長い生垣を抜け、屋敷の横に建つ二階建ての小さな家を視界に入れたリーシェルは、気を取り直したように前を向くと、家の中へ入っていった。
「魔女の雑貨屋」と書かれたプレートが入り口を彩る店内には、見たこともない変なものが所狭しと並び、開店のときを待っている。
「風の精霊
青いサボテンに風船のような黒い花、薬が入っていると思われる紫色のビン、風もないのに動く蔓植物……入り口から見ただけでも不可思議が寄り集まったような雑貨屋の中で、リーシェルは杖を振ると精霊たちに願いながら開店準備を整えていった。
途端、彼女の声に合わせて風がビロードのカーテンと窓を開け、霧状の細かな水が風と共に床の汚れを拭き取っていく。
これが、かれこれ数百年続くリーシェルの日常だ。
「にぎゃあぁぁ~っ!」
「あ」
と、そのとき。玄関先から聞こえてきたのは、雑貨屋に来たらしいクロナの悲鳴だった。
何事かと思いそちらを見遣ると、風と水の精霊に囲まれたクロナがお掃除されている。
慌ててリーシェルが精霊を
「にゃああ! リーシェル! 僕そのお掃除嫌い! にゃんでいつもこうにゃるの!?」
「ごめんごめん。仕方ないじゃない。クロナの抜け毛はゴミだから、精霊たちはいつもクロナを大きなゴミの塊だと勘違いしちゃうみたいなのよ」
耳元でにゃあにゃあ喚き、勢い余って爪を立てるクロナに、リーシェルは困った笑顔で正直に理由を告げた。
クロナが精霊たちにお掃除されるのは今に始まったことではないが、彼にとっては不服なのだろう。
「ゴミ……」
だが、オブラートに包むことなくはっきりとゴミ宣言するリーシェルに、クロナの表情がふと暗いものになった。
確かに、魔力を持つわけでもない猫の抜け毛は、人間から見たらゴミなのかもしれない。
だけど、愛猫に向かって正直にゴミ宣言する飼い主って、正直どうなのだろう。
「にゃあ! もう怒った! 今日はリーシェルのおにゃかの上で眠るにゃ!」
不服とショックでリーシェルの肩を蹴り、近くの棚に飛び乗ったクロナは、そのままごろんと寝転ぶと拗ねたように断言した。
途端リーシェルは困った顔で、
「えぇ……それ重たいのよ。寝返り打てないし……」
「にゃあ足の間」
「それも身動き取れないのよ。お布団の中じゃだめなの?」
「お布団上にかかるの嫌にゃ」
「おはようございます、リーシェル先生。相変わらずお早いですね」
全力で寄りかかって来る「猫の重み」と言う幸せだけど辛い事象に、リーシェルがなけなしの攻防を繰り広げていると、不意に後ろから明るい声が掛かった。
声の主は茶髪に藍色の瞳をした雑貨屋の店員・スーリャだ。
魔法医と呼ばれる魔法族の中で医師にあたる資格を持つリーシェルの助手を務めるスーリャは、昔から彼女を先生と呼び慕っている。
「おはよう、スーリャ。今日は午後からまた実験したくて、早めに準備をしていたの」
「あれ、でも先生、今日は魔法学校で講義の日ではありませんか?」
「……!」
「先生のスケジュール表に講義の日、と書いてあったような……」
荷物をレジカウンター奥の棚にしまい、鈍器に成り得そうなほど分厚い予定表をめくりながら、スーリャは今日の予定を確認していった。
器用なのか風由来の気ままさなのか、リーシェルは雑貨屋を経営しながら魔法薬の実験を行い、時に魔法医として人々の治癒を行う傍ら、魔法学校で魔法薬学の教師としても働いている。
「えぇ…忘れてたぁ。それじゃあ実験できないじゃない……」
「残念ですが、ちゃんと出勤してくださいね。校長に怒られますよ」
「リーシェル先生」
拗ねた子供のように小首をかしげ、行きたくないをアピールするリーシェルに、スーリャが有無を言わさない圧のある笑顔で言った途端、今度は入り口に二つの影が現れた。
刺繍を施した黒のブリオーに外套という、中世のような格好の制服に身を包んだ二人は、リーシェルの現・教え子たちだ。
「あら、ミネアちゃんにレシノスじゃない。二人ともどうしたの?」
「えっと、フェズカ先生に、リーシェル先生はきっと今日の講義を忘れているだろうから迎えに行ってこいと言われたのです」
「その様子だとすっかり忘れてたっぽいっすね。遅刻しますよ、先生」
すると、しぶしぶ出勤準備を整えながら問うリーシェルに、ミネアはエメラルドの丸い瞳を逸らし、レシノスは面倒そうにモカベージュの髪を掻きながらそう告げた。
フェズカというのは、リーシェルの兄貴分で魔法学校の教師でもあるオジサンなのだが、先生のお願いとはいえ、寮生活の二人がそろって迎えに来てくれたことに、リーシェルはなぜか笑顔だ。
「あら~。それでわざわざ来てくれたの? 二人は仲良しね~」
「寝言は寝て言ってください。それより、行きますよ」
「フフフ。はいはい。じゃあスーリャ、店番よろしく」
微笑ましさを湛え、呟くリーシェルの言葉をにべもなく否定するレシノスと、隣で猛烈に頷くミネアと共に、彼女はクロナを連れ雑貨屋の外に出た。
先程より熱を帯びた白い太陽が照らす外は、夏らしい暑さを湛えている。
「暑いわね~。風の精霊に頼んで向かいましょうか」
精霊に願い空を渡る彼らの行先は、イオルシュタイン魔法学校。
魔女の一日が始まる。
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