第12話 リーシェル秘密

 しとしとと降る雨が、苦しげな嗚咽おえつを掻き消していく。

 フェズカから真実を聞かされ数時間、月明かりすらない暗闇の中で、リーシェルはただ枯れるほどの涙を流していた。

 もう彼女の傍に、優しかった彼はいない。

 共に思い描いた未来は、たった一度の歪で、いとも簡単に崩れ去ってしまったのだから……。


「……リーシェル?」

 すると、泣き咽ぶリーシェルを気遣うように、不意に姉のラエーレが現れた。

 魔法灯の明かりを手にした彼女は、膝を抱えてうずくまるリーシェルにそっと近付くと、優しく肩を抱いて、慈しむように頭を撫でる。

 夏だと言うのに、凍えるほど冷えた彼女の身体に、姉のぬくもりはとても優しかった。




 ――男がリーシェルとエデアの元へ襲来したのは、今から五日前の出来事だと言う。

 恋人たちの逢瀬に水を差すまいと気を回したつもりなのか、ほとんどの使用人が出払った大きな屋敷の一階で、フェズカは同い年のラエーレ、彼女の四つ上の兄であるヘリゼと共に、他愛のない会話を楽しんでいた。

 当時の彼らは、魔法学校を卒業して数年と言った身で、ようやく一人前の魔法使いとしての勝手が分かって来たと、同世代だからこそ分かる話で、様々に盛り上がっていたのだ。

「……?」

 そんな折、不意に落雷のような大きな光が屋敷中をほとばしり、次の瞬間、異様なほど精霊たちが騒ぐ気配が伝わって来た。

 同時に、風をはじめとした数多の精霊が暴れ出し、彼らは異変を察して立ち上がる。


「何事だ、こりゃ?」

「分からないが、実に異様な空気だな。屋敷の東側が出処か?」

 初めて見る光景に、困惑を拭えないままフェズカが呟くと、窓から外に出ていたヘリゼは、流麗な瞳に疑問を乗せ、室内の二人に向き直った。

 リーシェルと同じ若葉色の髪をなびかせた彼は、一見冷静そうに見えるが、おそらく内心は動揺しているのだろう。

 語尾が微妙に上ずっていることに気付いたラエーレだが、彼女はすぐに大事なことを思い出すと、慌てた様子で目を見開いた。

「ちょっと待って。東側って言ったら今、リーシェルとエデアくんくらいしかいないわよ? まさか二人に何かあったんじゃ……!」

「そりゃまずい。すぐ確認しに行こうぜ」

「ああ」


 ラエーレの言葉を皮切りに、すぐさま部屋を飛び出した三人は、屋敷の三階にあるリーシェルの部屋に向かって、はしたなくも階段を駆け上がった。

 肌に感じる異様な気配は階段を上るほどに強まり、暴れた精霊たちが傷つけたのであろう痕跡が、幾つも見受けられる。


「……!」

 そして、三階の東に辿り着いた彼らが見たものは、とてつもない惨状だった。

 蝶番が破壊され、部屋の扉がひしゃげた室内で、リーシェルとエデアは傷だらけのまま、寄り添うように気を失っている。

 また、彼らの前には、元は人だったのかもしれない肉塊が幾つか転がり、赤黒い血溜まりが、カーペットに大きな模様を残していた。

 窓ガラスは粉々に砕け、室内を彩るシャンデリアも、棚も、カーテンもボロボロ。まるで、爆弾でも落ちたかのような光景に、ラエーレは思わず悲鳴を上げた。

「きゃあああ! リーシェル! エデアくん……っ!」

「なんてこった……。何があったんだ、こりゃあ」

「……っ。二人とも、考えるのは後回しだ。一先ひとまず妹たちの容体を確認しよう」

 そう言って、立ちすくむフェズカとラエーレを鼓舞するように、率先して室内へと足を踏み入れたヘリゼは、風の精霊に願い二人を運び出すと、すぐさま治癒を開始した。

 不幸中の幸いと言うべきか、それぞれに魔法医としての資格を持つ彼らの治癒は迅速に進み、表立った傷や、男に損壊させられたエデアの腕も元の状態を取り戻した。


 だが……。


「心の一部が、欠けている……?」

 目を覚ましたリーシェルが聞かされたのは、エデアの身に起きた非常事態だった。

 フェズカが説明する心とは、心臓を包むように存在する魔力エレメントの結晶で、人や動物を、そのいきものたらしめる要素エレメントそのものを指す。

 薄いガラスを想起させる心は、強い衝撃や負担によって稀に破損し、様々な障害を引き起こすと言われていた。

 だが、実際にそれを目の当たりにするのは、ここにいる誰もが初めての経験だったのだ。

「ただ欠けて、破片が体やそこらへんに転がっていりゃあ、治癒と同じ要領で心も治すことができるらしい。だが、エデアの場合、その欠片が見つからねぇんだ」

「……っ」

「部屋中はもちろん、屋敷ん中も全部探したが見つからない。これがない以上、あいつの心を元に戻すことはできない……」

 目を見開き、呆然とした様子で話を聞くリーシェルに、フェズカは苦しげに呟いた。

 普段は陽気で、ふざけ半分の冗談を気軽に言ってくるような彼も、この状況で嘘は吐かないだろう。

 それでも、嘘だと思いたい状況に、涙が零れた。


「……じゃあ、エデアはこのまま、心を失ってしまうの……?」

 蹲るように膝を抱え顔を伏せたリーシェルは、しばらく沈黙した後で、涙に声をくぐもらせて囁いた。

 エデアの現状は、言うなれば穴の開いたグラス同然。

 瓦解がかいした心から要素エレメントが完全に零れ落ちてしまえば、彼の心は失われ、ただ肉体だけの入れ物になってしまう。

 だが、フェズカが言ったように、欠片がない以上、今の自分たちにはどうすることもできないだろう。

 八方塞がりな状況に、涙が止まらなかった。


「それなんだがな、リーシェル……」

「……?」

 すると、突き落とされた絶望の中で涙するリーシェルを、ただ黙って見つめていたフェズカは、ラエーレとヘリゼに目配せしながら、口を開いた。

 そして、リーシェルの足元で眠っていた黒猫を彼女の元へ運び、こう説明する。

「エデアの心は、一旦この黒猫に移した」

「え……?」

「邪法なのは承知だが、このまま要素エレメントが零れ落ちるのを待つくらいなら、いっそ別の器に要素を移し、心の回復を待った方が望みはある。ヘリゼ主導の元、ネセセリア家にある古い文献を漁って実行したんだ」


 驚いた顔で、フェズカと、眠そうな顔で辺りを見回す黒猫を交互に見つめたリーシェルは、治癒が行われたあの日のことを、さらに詳細に聞かされた。

 まだ子猫と思われるこの猫は、男が襲撃する少し前に、ラエーレが門前で見つけた保護猫で、魔力を有していたことから、屋敷での飼育を検討しようと連れてきたらしい。

 その後、エデアの心の瓦解を知った三人は、魔力を有している猫ならば、要素エレメントの移譲やそれに伴う負荷にも適応できると考え、実行。

 エデア本人には眠りの魔法を与え、容体を注視し続けているとのことだった。


「勝手にこんなことをして、帰って来た父上にはこっ酷く叱られたよ。だが、僕らは今できる最善を尽くしたまでだ。このままエデアくんを見殺しには出来ない」

「あたりまえでしょう。あの子は私たちにとっても弟同然…というか、ほぼ弟なんだから」

「じゃあ、この猫さんにエデアの要素エレメントがあるなら、彼の心を修復次第、また要素を元に戻すことで、目を覚ます可能性があるって、いうこと……?」

 リーシェルが眠っていた五日間を振り返るように、肩を竦めて話す兄姉を見つめ、リーシェルは、望みを見出すべく問いかけた。

 もし兄たちの話が本当なら、絶望に手を伸ばすのは、まだ先でもいいのかもしれない。

「理論上はそういうことだ。だが、長い魔法族の歴史においても、心の修復に成功したという例はない。きっと…とても難しいことなのだろう」

「でも、希望があるなら私、エデアの心を治したい。だって、彼の心を壊したのは、私なんでしょう……?」

「……っ」


 ぽろぽろと真珠のような涙を零しながら、リーシェルは自らの意志を告げると、彼らに向かって恐る恐る呟いた。

 誰も、直接的な原因を言及しようとはしないけれど、あのとき、自分の魔力が強く弾け、精霊たちを刺激したのは憶えている。

 だからきっと、エデアの心を壊したのも、自分なのだろうと予想していた。

「お前のせいじゃないよ、リーシェル。ダグニス・テラーが現れたと言っていたね。ならばすべてはあの男のせいだ。自分を責めてはいけない」

「でもあいつは、私の類稀な魔力エレメントを見初めたって、言っていた。それで奪いに来たんだと……。だからやっぱり、私のせいだよ……。私がエデアを壊したんだ。ずっと一緒にいようねって、約束したのに……っ」

「…………」

 暗闇の中、一縷の光を見つけ、それでも共に居ることができない現状に、心を激しく乱しながら、リーシェルは悲しげに呟いた。

 彼女にはもう、エデアと見上げた星空のような煌めく未来はどこにもない。

 ただ光とも言えないほど遠い星に手を伸ばすことが、今の彼女にできる精一杯の償いで、諦めの否定だけが、この先を生きていく唯一のよすが

 意志を示したリーシェルの決断に、兄姉たちはただ静かに頷くだけだった……。



 その後、両親も含め今後のことを話し合ったリーシェルは、彼らを無理やり納得させると、エデアのための薬を作り始めた。

 今はまだ、何が正解なのか、何が効くのかも分らないが、じっとしてはいられない。

 彼の心を取り戻す、途方もない目標を前に、リーシェルは邁進し続けた。

「にゃあ、リーシェル~」

 一方、そんな彼女に懐いた黒猫は、エデアの要素エレメントを有しているせいか、拾われたころの記憶を失くす代わりに人語を操り、いつからか実験にも協力してくれるようになった。

 リーシェルは彼を「クロナ」と名付け、自身の使い魔として絆を深めていく。

 クロナはこの国で、時間を意味する言葉だ。

 エデアと歩むはずだった時間、失った未来、そして、希望を見出すための時間、そんな意味を込めているのだという。



 ――それから四五〇年。

 人知れず森の奥の教会へと移されたエデアは眠り続け、リーシェルを追いかけてきたクロナは、ついに彼女の秘密を知った。

 驚きに固まる彼が何を思うのか、痛いほどの沈黙の中、リーシェルはただ黙って彼を見つめるばかりだ。

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