第13話 クロナと願い
「にゃ……にゃあ僕は、エデアの心を持った猫ってことにゃの……?」
深い霧に包まれたフェレアの森の教会で…――。
リーシェルは追いかけて来たクロナに、過去のすべてを打ち明けた。
クロナに宿る心は、リーシェルの大切な許婚のものであり、クロナに彼女と出逢う以前の記憶がないのは、
一見嘘のようだが、間違いのない真実に、クロナの瞳が、小さく揺れている。
「そうよ。あなたに時々試してもらっていた薬は、欠けた心を補うための薬だったの。あなたが持つ
「にゃ……」
「だけど、諦めないって決めたから。本当は、薬が完成するまで黙っていたかったな」
涙のせいか、赤くなった目元に困り笑顔を乗せ、リーシェルはクロナを撫でると呟いた。
彼女の手は冷たくて、いつも傍にあった香りにクロナは安心してしまったけれど、聞かされた事実には、正直とても動揺している。
五十年に一度、フェレアの森に向かうリーシェルは、決まって悲痛な顔をしていた。
今までは、彼女が何に苦しんでいるのか分からなくて、ただひとり置いて行かれることに駄々を
それが何よりショックで、心の奥がぎゅっと痛くなる。
「にしても、九度目の来訪でついに知られちまうとはなぁ。気配の付与でもしていたか?」
「……!」
すると、リーシェルの膝の上に乗り、ぺったりくっついたまま動揺するクロナに、様子を見守っていたフェズカが呆れ半分で言い出した。
その口調はいつものように軽いが、エデアはフェズカにとって実の弟だったはず。
これまでもフェズカとは度々喧嘩が勃発して、引っ掻いた経験も一度や二度では済まないけれど、弟の
「その通りにゃ。流石魔法生物学者はよく知っているにゃあ」
「ま、そういうのを研究するのが俺の本職だからな」
そんな気持ちを隠しながら、クロナはフェズカに目を向けると、珍しく褒めるように呟いた。
内心、この飄々としたリーシェルの兄貴分を快く思っていなかったことは確かだが、過去の話を聞いた以上、その気持ちを貫けそうにはない。
きっと彼もまた、言わないだけでこの出来事にひどく心を痛めている。
話を聞くうちに、なんとなくそれが分かってしまったのだ。
「……さて、じゃあ話すことは話したし、エデアの無事も確認したんだ。そろそろ街へ帰ろうぜ、リーシェル。また五十年、別れのときだ」
そして、ステンドグラス越しに注ぐ光が、夕日色を帯び始めたころ。
ひと通りの話を終え、滞在のリミットを察したフェズカは、リーシェルにそう促した。
彼らの滞在は大抵半日から一日余りと短く、それ以上この地に留まることはない。
元は、リーシェルがこの場に入り浸ってしまう可能性を防ぐため、フェズカが決めたルールだったが、いつの間にかそれが定着しているようだ。
「そうね。あんまり遅くなるとハヴィやスーリャにも心配かけちゃうし」
「ああ。もしかすると、いなくなったこいつ探して慌ててるかもしれないぜ」
「ふふ、確かに」
フェズカの言葉に顔を上げ、クロナを抱き上げたリーシェルは、うんと頷くと、最後にもう一度だけエデアを見遣った。
わずかな寝息を立てる彼は、あのころと変わらない
正直、
でも、だからこそ、次の来訪までには必ず、薬を完成させなければ。
「……リーシェル、僕、ずっと傍にいるにゃ」
「え……?」
「どれだけ時間がかかろうとも、リーシェルが諦めない限り、ずっと傍にいる。リーシェルの実験、絶対に成功させようにゃ」
「……!」
すると、彼と同じ氷色の瞳でまっすぐにエデアを見つめ、クロナは自らの意思をそう告げた。
驚くリーシェルにぎゅうっとくっつき、喉を鳴らす姿はいつも通りのかわいい愛猫だが、これまで散々実験されるのを渋っていたクロナが、そんなことを言い出すなんて、流石に予想だにしなかった。
それに、今の言い方……。
「なんか、エデアみたいなこと言ってるなぁ、こいつ。リーシェルの傍にずっといるんだって、エデアもよく息巻いていた。懐かしいな」
「うん。私もびっくりしたわ。でも、クロナがそう言ってくれるなら、きっと彼も同じ気持ちよね。また頑張るわ。彼のために、絶対……!」
「ああ。分かったから帰るぞ。また面倒な魔法を張り巡らさなきゃいけねぇんだ。陽が暮れる前に出ようぜ」
――こうして、五十年に一度の来訪は幕を閉じ、シエラリスの街に戻った彼らは、また穏やかな時間を過ごしていった。
案の定、突然いなくなったクロナに、ハヴィは発狂せんばかりの心配を見せ、当分の外出禁止令まで出てしまったが、猫が言うことを聞くわけもなく、彼はいつもリーシェルについていく。
魔女の雑貨屋にも、魔法医としての往診にも、今まで以上に寄り添うクロナに、街の人々は微笑ましげな眼差しを向け、リーシェルもまた、何かを察したように微笑む。
正直、クロナには彼女の傍にいることしかできないけれど、これは、彼女のためにできることをしようと思った、クロナなりの意思表示だ。
「にゃあ、リーシェル」
「なぁに?」
「どうしてリーシェルは、こんなにも諦めずに頑張れるんにゃ?」
「……!」
そんなある日。
これまでと違い、実験に協力的になってくれたクロナのための薬を用意するリーシェルに、彼はふと気になった顔で口を開いた。
樫木の机の上に行儀よく座り、小首をかしげる彼は、紫色の粉が入った瓶を手に驚くリーシェルを、不思議そうに見つめている。
「にゃあ……リーシェルのことだから、償いとか責任とか、エデアのためにたくさん背負ったんにゃろうけど、こんなに長い期間、一度たりとも諦めようと思わにゃあリーシェルは不思議にゃ」
「……」
「誰だって、ずっと上手くいかにゃあことは、諦めたくにゃるでしょう?」
「……野暮な子ねぇ。そんなの決まっているじゃない」
すると、今さら誰も聞こうとしない理由を言及するクロナに、リーシェルはしばらく間を開けた後で、ふと小さく息を吐いて言った。
「?」
彼女が頑張り続けられる理由、そんなものはひとつだ。
「大好きだからよ。私は、エデアのことが今でもずっと好き。彼のためならどんな努力も惜しむ気はないし、いつまででも頑張れる」
「にゃ……」
「それに私、楽しみにしていたんだから。彼との結婚式。エデアが目覚めて、もし彼も変わらない気持ちでいてくれたなら、一番にしたいことよ。純白のドレスを纏って彼の隣に立つことを今でも夢見ているわ。だから私は、どれだけ歳を重ねても、心や振る舞いは少女でいようって決めているの」
「……!」
今まで見てきたどんな笑顔よりも幸せそうな笑みを浮かべ、リーシェルは、彼との未来の夢をそう語った。
どれだけ辛い状況に陥ろうとも、希望と夢と諦めない気持ちさえあれば、きっと報われる日が来る。彼女はそれを信じ、これまで邁進し続けてきたのだ。
夢の先を、本物の未来へと変えるために。
「にゃっ……、まだ薬を舐めてにゃいのに、なんだか心がふわふわするにゃあ。リーシェル、何か魔法を使ったんじゃにゃあのか?」
と、晴れやかな笑顔で語るリーシェルに、クロナは突然全身の毛を逆立てると、ころりと机の上を転がった。
心の内側がふわふわする感覚は、リーシェルがくれる心の薬と似ているような気もするが、もっと複雑で、形容しがたい気持ちのようにも感じる。
だが、この気持ちの正体が分からず、ごろごろ体をくねらせるクロナに、彼女は何かを悟った様子で言った。
「ふふ、それはきっと、クロナの心が照れているのね。エデアも、自分から言うときは平気な顔しているのに、私が好きって言うとすぐ照れるんだもの。顔を赤くして
「にゃあああ~……」
「かわいい。クロナもエデアも大好きよ」
彼の面影を愛猫に乗せ、ダメ押しのように告げたリーシェルは、撃沈したクロナに微笑むと、光が降り注ぐ窓の外へ、そっと目を向けた。
季節はゆっくり移ろい行き、もうすぐ短いようで長かった夏季休暇も明ける。
あの年以降、彼と季節を歩むことはできなくなってしまったけれど、否応なしにやって来る秋の気配を感じながら、リーシェルは果てしない空を見上げた。
いつかまた、共に星空を眺める日が来ることを、願って。
(私は諦めないわよ、エデア。きっと、あなたの心を取り戻して見せるから…――)
第一幕 完
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