第8話 クロナを置いて
フェレアの森へ向かう。
突きつけられた事実に表情を強張らせたリーシェルは、今にも泣きそうな顔で頷いた。
五十年に一度、彼らは必ずクロナを置いて、フェレアの森を訪れる。
そこには、彼らだけの秘密があった。
「にぎゃあああ~っ! 僕も一緒に行くにゃああああ~っ!」
旅立ちの三日前。
ついに訪れた時期を前に、リーシェルはクロナに向き直ると、お留守番を言いつけた。
いつも一緒にいる相棒も、この時ばかりは連れてはいけない。
理由はもちろん、クロナに知られたくない事実があるからに他ならないのだが、カーペットの上をごろごろ転がった彼は、全力でお留守番に抵抗している。
「いやにゃあああ! 一緒に行きたいにゃあああ~!」
「ダメ。クロナはハヴィとお留守番よ」
「いやにゃあああ!」
「ダメなものはダメなの。聞き分けて」
「にゃあああ!」
毎度のこととはいえ、いつまでも駄々を
途端彼は、ソファに座って自分を見下ろす彼女の膝の上に飛び乗ってみたり、ぷにぷにの肉球と、ちょっぴり爪が覗くかわいらしい手で叩いてみたり、物理攻撃も仕掛けてくる。
だが、梃子でも心を動かさないと決めたリーシェルは、クロナの猫パンチを受け止めながら、困ったように言った。
「数日で戻って来るから、大人しく待っていてちょうだい。シェフたちにはクロナの好きなご飯、作ってもらえるように言っておくわ」
「にゃああ……」
小さな子供を
一度決めたことは絶対に覆さない彼女の性格を考えると、今回もお留守番は決定事項なのだろう。
だが、そうは分かっていても、リーシェルと離れたくないクロナは、いじけたように言う。
「にゃんでリーシェルはフェズカと森に行くんにゃ? 僕じゃダメにゃの?」
「……」
「僕はリーシェルの相棒にゃのに。リーシェル、フェレアの森に行くの本当はいやにゃんでしょ? 僕じゃ力になれにゃあの?」
「それは……」
悲しげな口調で、爪とぎをするようにリーシェルのスカートを微妙に引っ掻きながら、クロナは彼女に問いかけた。
シエラリスの街を出て北に広がるフェレアの森は、隣国・ソフィリスとの国境であり、国土の三分の一を覆うほど広大な面積を持つ、自然豊かな森だった。
国の成り立ちと同程度の歴史を持つと言う森には、様々な魔法動植物をはじめ、未知の現象や神秘に溢れているという。
そんなフェレアの森を、リーシェルとフェズカは五十年に一度、必ず夏の時期に訪れる。
彼らがそこで何をしているのか、何が目的なのか、それは誰にも分からない。
もしかしたら、クロナが知らないだけかもしれないが、ハヴィも、ティジーも、スーリャも、何も言わず、彼らをただただ見送るばかりだ。
「……逃げないと決めたの。それに、嫌なんかじゃないよ。あの森には、大切な用事があって訪れているんだから」
クロナの的を
彼女の言葉は本心のように聞こえるが、苦心に満ちた声音に、クロナはなおも食い下がる。
「でもリーシェル……。リーシェルは、フェズカに森に行くって言われると、いつも辛そうにゃ顔をしてるにゃ。全然、大切な用事って顔じゃにゃあ。僕に嘘言ってる?」
「嘘じゃない、本当よ。だけど辛いのも本当……。……あの森には私の後悔が置いてあるの。その後悔を決して忘れないために、私は森へ向かうのよ」
「……?」
「クロナにはまだ見せられないけれど、いつかきっと教えてあげるわ。だから待っていて」
それから先の三日間、リーシェルは気丈に振舞おうと顔を上げながらも、どこか沈んだ面持ちで準備を進めて行った。
相変わらず、雑貨屋の対応はスーリャに任せ、彼女は訪れる患者たちの治癒をしたり、実験室に籠って、薬草や治癒薬を鞄に詰めたりと忙しない。
天気もまるで、彼女の心を反映したように曇りがちで、時折、温かい雨が覗いていた。
そして……。
「……じゃあ、そろそろ出掛けるわね。クロナ、いい加減降りてちょうだい」
「やっぱりいやにゃああ……。リーシェルと離れたくにゃいいい……」
久方ぶりの晴れ空が広がる
暁からぺったりとくっついて離れない彼は、甘えと駄々の狭間でごねている。
すると、そんな彼らの様子を、向かいのソファに座って気だるげに眺めていたフェズカは、大きなため息を吐いて言った。
「はぁ。リーシェル、もう一時間経つぞ。いっそこいつを魔法の檻に閉じ込めるか」
「えっ」
一生懸命喉を鳴らし、どうにか留まってほしいと甘えるクロナを半眼で見つめ、フェズカはポケットから小さな四角いものを取り出した。
魔法で圧縮されたそれは、元の大きさを取り戻した途端、魔法生物を保護・捕獲するための堅牢な檻になる。
だが、魔法生物学者ならではの持ち物と言えるそれに、クロナはジト目を向けて告げた。
「……にゃんて酷い奴にゃんだ。それでよく魔法生物学の教師にゃんてできるにゃあ。愛猫虐待っ、クークスが可哀想にゃ!」
「残念だが、俺の使い魔はお前みたいに駄々は言わん! どう転んだって、お前はここで留守番なんだ。いい加減離れろ!」
「にゃああああ~」
フェズカの隣で丸くなり、我関せずと言った様子を見せる白狐・クークスをふと見つめたフェズカは、勢いよく立ち上がると、ついに実力行使を始めた。
風の精霊に頼んでクロナを引っぺがし、脇に控えていたハヴィに押し付ける。
流れるような一連の動作は、苛立ちの滲む口調と違って優しいものだったが、それでもクロナは不満そうだ。
「にゃ~あ~……リーシェルぅ……。行かにゃあで……」
「ごめんね、クロナ。できるだけ早く帰って来るわ」
「にゃああ…………」
悲哀に満ちたクロナの鳴き声に後ろ髪を引かれながら、彼の傍を離れたリーシェルは、フェズカと共に屋敷を出て、朝影の庭を歩き出した。
クロナを置いてフェレアの森へ向かうのは、今回で九回目だ。
毎度彼の駄々には手を焼いているものの、いざ離れると思うと、こちらも寂しくなる。
そう思って俯くリーシェルに、クークスを肩に乗せたフェズカは静かに切り出した。
「行くぞ、リーシェル」
「……うん」
「あいつには「言わない」ってお前が決めたんだ。大事な愛猫…そしてあいつの心を持つ猫だとしても、このときばかりは気をしっかり持て」
「……分かっているわ。事実を教えても、今はまだクロナを傷つけるだけだもの」
普段の気さくで明るい雰囲気とは打って変わり、真面目な口調で諭すフェズカに、リーシェルは頷くと、今度はしっかり前を向いて言った。
熱を帯びた夏風が、彼女の若葉色の髪を優しく撫でる。
――今から向かうフェレアの森には、リーシェルの後悔と、クロナの秘密が置いてあった。
それを知るのはリーシェルの家族と、フェズカの両親、そして、当時のことを知るほんの一握りの使用人たちだけだ。
だが、彼らは誰もリーシェルの行いを否定しない。
たとえそれが、どれだけ虚しいものだとしても、彼女の強い想いを見守るばかり。
フェズカは、そんな妹分を支えるため、自らついて行くことを志願した。
クロナの秘密は、普段喧嘩ばかりのフェズカにとっても重要な意味を持つ。
なぜなら彼は…――。
「リーシェル。森の入り口までは、風に乗って行こう。そこから先は飛行禁止区域だから歩くしかねぇが、ちゃんと準備は整えて来たよな」
名残惜しむように正門まで歩く彼女を見つめ、フェズカは静かに問いかけた。
気遣いの滲む声音にリーシェルは頷き、無理に笑顔を作って言う。
「大丈夫よ。フェズ兄みたいに頻繁に出掛けるなんてしないけれど、流石にもう慣れたわ」
「最初は野宿に苦戦してたのにな」
「それは…地面痛いじゃない。あのころ私、ベッド以外で眠ったことなんてなかったのよ。今では大抵どこでも眠れるようになったけどね」
「フーン」
実にわざとらしいやり取りだと分かっていながら、彼らはしばらくの間、いつも通りを装うように話を続けていた。
こうでもしていないと気が紛れないほど、彼らにとって、フェレアの森を訪れるというのは覚悟の要ることだった。
だが、正門がはっきりと見える位置までやって来たリーシェルは、一転表情を引き締めると、自分よりも随分上背のあるフェズカを見上げ言った。
「じゃあ行きましょうか、フェズ兄」
「ああ、頼む」
そして、懐から杖を取り出した彼女は、精霊に願いを語り出す。
「風の精霊、
途端、周囲を彩る優しい風に運ばれ、二人はついに旅立った。
行先は、フェレアの森。
そこに眠る後悔と、秘密の蓋を開けに…――。
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