第10話 森のヴェールが隠すもの
「はぁ。流石、獣道を行くのは老体に堪えるわね。フェズ兄は大丈夫?」
鬱蒼とした森を朝日が照らす。
リーシェルとフェズカの旅立ちから二日が経ち、彼らは着々と森の奥を進んで行った。
まるで、人の侵入を阻むかのように林立した木々は、霧のヴェールでその姿を覆い、足元には、見たこともない形状をした不思議な植物が立ち並ぶ。
環境保護の観点から、大々的な魔法が禁止された旅路では、普段の体力がものをいうせいか、彼女は少しばかり疲れた様子だ。
「ん? ああ。俺は未知の魔法動物を探しに、もっと険しい山とか行っているからな」
だが、息を荒げて問う妹分とは違い、フェズカは涼しい表情で振り返った。
相変わらず肩で眠るクークスを連れた彼は、まったくを持って平気そうだ。
「流石ね……」
「というか、その見た目で老体言うな。世間の
すると、むしろ余裕すら浮かぶ笑みに、感心を向けるリーシェルを見つめ、フェズカは前方の倒木を乗り越えながら、呆れたように指摘した。
実年齢はさておき、彼女の見た目はどう見ても十代だ。
その彼女が老体だなんて言い出したことに、なんとなく引っ掛かりを覚えたらしい。
途端リーシェルは、「いや、だって私四百越え……」などと不満そうにぼやいていたが、どこか悪戯っぽく笑ったフェズカは、彼女を鼓舞するように大きな声を上げた。
「見た目と心は少女だろ? ホラ、しゃきっとする! 次第に見えてくるぞ」
「はぁい……」
そして、さらに数時間が経過した昼時…――。
霧間に木漏れ日が注ぐ森の中、彼らの前方に小さな教会が見えてきた。
白壁と大きなステンドグラスが印象的なゴシック建築のそれは、木々に隠されるように建ち、まるで歴史に置いて行かれた残骸の如く、風化している。
「……五十年ぶりね。ちゃんと保護の魔法が効いているみたいでよかった」
「ああ。崩れてたら洒落にならんからな」
所々に蔦が絡まり、入り口が堅牢な錠で封鎖された教会を見つめ、リーシェルとフェズカは少しばかり安心したように胸を撫で下ろした。
この教会こそが彼らの目的地であり、リーシェルが置いて来た「後悔」を封じ込めた場所だ。
魔法を施してあるとはいえ、五十年ぶりの変わらぬ姿に、どうしても胸がいっぱいになる。
「大丈夫か、リーシェル」
「……うん。じゃあ開けるわ。フェズ兄」
「ああ」
懐かしく、苦しくもある教会を見つめ、しばらく黙りこくっていたリーシェルは、やがて覚悟を決めると、長い年月を経て、苔に侵食されつつある教会に近付いた。
観音開きの正面扉には、複雑な装飾を施した魔法の鍵が据えられ、開錠できるのは、この錠をかけたリーシェルだけ。
五十年ぶりとなる開錠に、彼女は小さく息を吐き、次の瞬間、そっと願いを語り出す。
「この教会を守護し大地と石の精霊たちよ。私は
言葉と共に淡い黄緑色の礫を周囲に光らせた彼女は、全神経を集中させ、扉の開錠を試みた。
この秘密を自分たち以外の誰にも明かさないため、リーシェルは自身の
もし誰かが無理に抉じ開けようとすれば、たちどころに風の精霊が対象者を襲い、決して無事では済まないだろう。
それほどの力を込めた扉に願いを語ると、やがて、カチリと小さな音がして鍵が開く。
どうやら精霊たちは、五十年ぶりの来訪者を認めたようだ。
魔法の礫を霧散させた彼女は、ひとつ深呼吸をした後で、扉に手を掛けた。
「中も、変わったところはなさそうね」
扉が軋む音を聞きながら、五十年ぶりに中へと足を踏み入れたリーシェルは、内装を確認するように辺りを見回した。
教会の中は、幾つかの長椅子と十字架あるだけのシンプルなもので、ネセセリア家の紋章である天馬を施したステンドグラス越しに、白い光が注いでいる。
そんな白い光の中央――ちょうど、十字架の目の前には、美しい装飾に彩られた棺があった。
白絹を
さらさらとした氷色の髪に長い睫毛、すらりとした鼻筋。
白いブリオーを身に着けたその姿はまるで、以前リーシェルの変身薬を舐めたクロナが見せた、氷色の髪と瞳の美しい青年のようだ。
「エデア……」
すると、内部を確かめ、ついに青年へと目を向けたリーシェルは、小さく彼の名を呟いた。
一歩一歩、不安と愛しさをごちゃ混ぜにしたような表情で歩み寄る彼女の瞳には、大粒の涙が浮かび、やがて、ぽろぽろと零れ落ちる。
だが、この青年が目を覚ますことは決してなかった。
わずかに聞こえる呼吸音だけが、彼がまだ生きていることを示す唯一の証で、血の通うその手を握るリーシェルの呼びかけにも、ただ無言を通すばかりだ。
「……」
「
「そうね。本当に…だけど……」
頬を伝う涙を気にもせず、棺に寄り添うようにして座り込み、彼の手を握るリーシェルと、永遠の眠りに就く青年を交互に見つめたフェズカは、
光が注ぐ中、寄り添う彼らの姿は絵画を思わせるほど美しく、どこか侵し難い。
だが、フェズカにとっても大事な意味を持つ再会に、顔を上げたリーシェルは、作り笑いのまま涙して言った。
「結局私はまた、五十年間何もできなかった……。大事な彼をこんなところで眠らせて、薬ひとつ完成させられないなんて、ダメな魔女だと思わない……?」
「何度も言うが、お前は何も悪くない。
「……フェズ兄は、いつもそう言ってくれるよね。本当は、私を憎んでもおかしくはない立場なのに」
「………」
「でも、やっぱり悪いのは私だよ。だって、彼の心を壊したのは、私なんだから」
眉根に皺を寄せ、心配そうに告げるフェズカに首を振ったリーシェルは、もう一度眠る青年を見つめ、震える声で呟いた。
この青年――エデアは、リーシェルの大切な許婚だった。
そして、フェズカの弟でもある、愛しい幼馴染み。
子供のころ、同い年の魔法名家の一員として出逢い、両親の勧めでなった許婚。
成人した十五歳で正式に婚約し、学校を卒業したら式を挙げたいと話していたのは、もうずっとずっと昔のこと。
なぜなら十七歳の夏、彼は永遠の眠りに就き、二人の路は分かたれた。
あの日に起きた出来事が今に続く後悔で、決してクロナには明かせない秘密のすべて。
彼が秘密を知るのは、きっと、リーシェルの言う薬が完成したときだろう。
それまでは、何としてでも秘密にしておかなければ……。
「……この間ね、クロナにまた薬を試してもらったの」
「ん?」
すると、両手で彼の手を握りしめ、涙に濡れた瞳を向けながら、リーシェルは懺悔のように呟いた。
「瓦解した心を補うための薬。あの子は身体の内側がむずむずすると言っていた。熱を持った感覚と過度な眠気。心に薬は間違いなく届いている。だけどまだ、欠けたものを補うほどの力はないみたい」
「心ばかりは生まれ持った器がものを言うからな。魔法族の持つ
ただエデアを一心に見つめ、本当は
家族の反対を突っ撥ね、未だに婚約を解消しようともしない彼女は、一途にエデアのための薬を作り続けている。
その副産物として完成した幾つもの薬は、今や魔法族にとって欠かせないものとなりつつあるが、リーシェルの目的はいつだって彼にしか向いていない。
そんな彼女が、今さら諦めるとは思えなかった。
「もちろんよ」
分かり切った答えと知り、それでもリーシェルに問うと、彼女は赤く腫らした目に強い意志を乗せ、きっぱりと宣言した。
そして、頼もしい姿に頬を緩めるフェズカに向かい、リーシェルはなおも言葉を紡ぐ。
「だって、薬を完成させて彼の心を元に戻してあげなくちゃ、エデアの心はいつまで経っても、
――カタン…ッ
涙に濡れた瞳で、それでなお前を向く彼女に、フェズカが笑みを深くした、そのとき。
不意に何かが落ちるような音がして、入り口にひとつの影が現れた。
氷色の瞳に動揺を宿した小さな影は、気付かぬ二人に震える声で問いかける。
「……それ、どういうこと…にゃ……」
「……!?」
途端、聞き知った声に振り返った二人が見たのは、動揺を滲ませたクロナ…――。
彼の手は、ついにリーシェルの秘密に届かんとしていた。
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