今日愛して
凩 光夫
第1話
1
梅の香を意識しなくなった。
鼻が慣れたのか。その代わり風に乗って草木の匂いが満ちた。今腰を下ろしている辺りからというわけではなく、見晴らす谷から寄せて来るようだ。
丁度緩やかな谷底に沿ってゴトゴトと列車が通り過ぎるところだった。緩くカーブするポイントで赤っぽい車体の一輌一輌が律儀に同じ軋み声をあげ、リズムを刻んでいく。
毎日毎日代わり映えしない営みを、ただ耐えて反復する人生のようだ。
傾き始めた冬の陽を浴びた列車は冬枯れの景色によく溶け込んで見えた。
最後尾が通過した。
弱すぎる入射光の中に微かに車掌の輪郭をうかべて次第に遠ざかっていった。
後には衰微した風景が残った。
美しい、と彼は思った。
滅びゆくものは時として美しい。
譲治は溜め息をついた。
もう充分に酔ってしまった。立ち上がるのも億劫だ。こうしてもう三十分も斜面に座っていた。
だが冬の日が暮れるのは早い。また二時間程列車を乗り継いで帰らなければならないのだ。
風が敷いた新聞紙を捲り上げ、載っていたカンビールの空き缶を転倒させた。
しをりの手が機敏にそれを抑えた。もう片方の手は開けたばかりの缶を握っている。
「もう行こう」
譲治が切り出すと、
「まだ時間はある」とあっさり言われた。
「折角梅見にきたんだから、早く帰っちゃもったいない」
「だって梅に背を向けて、さっきから飲んでばかりだぞ?」
「通はさりげなく楽しむものなのよ、パパ。『徒然草』にもあるじゃない」
大学で国文学を専攻したしをりはすぐそんなことを言う。
「『徒然草』に梅見なんかあったか?」
譲治は古い記憶をまさぐった。
「ううん、祭見物。都人は夢中になって眺めたりしない。見ているような、見ていないような、さりげなく眺めるのが通なのよ」
「『徒然草』じゃなく、さけなくてなんの己が桜かな、という気がするのはどうしてかな?」
「深読みよ」
「そうか?」
思わず笑ってしまった。言葉が適当になっている。酔うとしをりは必ずこうだ。
「夜の梅ってあるじゃない?」
話が変えられた。
「羊羮か?」
と茶化す。本当は分かっていた。
「違う。浮世絵。若い男女が夜、梅の枝を折ってる……。中性的な男の子が折ろうとして 女の子がそれを眺めてる……」
「鈴木春信だ。でもそれ、『風流四季歌仙二月水辺梅』だよ。どっちも傑作だけど」
「そっか。あれ、よくない? 幻想的で懐かしくて、早春の微かな温もりも感じられて……」
「木版自体ぬくもりがあるからね」
「木版なの? 梅の木?」
「桜だろ? 版木ってこれくらいだぞ」
譲治は両掌を向かい合わせて平行につきだした。
「梅なんて捩じ枉ってるし、そんなに太い木ないだろう」
「そっか……。あー、いい匂い!」
一瞬馥郁と香がたった。夕風なのだろう。
二人とも沈黙し、香を聞こうとした。だが更に聞くことは叶わなかった。
「風向きだね?」
「うん、或いは慣れかもな。どんな美しいものでも、人は必ず慣れて気付かなくなってしまう……。美は心の中から廃れていく」
――そして愛も、と続く言葉を譲治は飲み込んだ。
愛というものがあるとして……。
愛なるものがあるとかないとか、どうせ分からないなら、考えるのは無駄だった。こうして心の交流は存在するのだし、今この瞬間の気持ちに嘘はない。
「頽廃的なのね」
「うん。だから人は美にすがろうとする」
「言ってることが矛盾してるわ」
しをりが微かに笑った。譲治はこの笑みがとても好きだ。暮れをひかえた凪の海のようだ。
「そして永遠に救われないのさ」
「老年よ、大志を抱け!」
「ふん、神々の黄昏さ」
譲治の物言いも怪しくなってきた。
「パパだけよ」
閉園時間が近いというアナウンスが流れた。
「行こう」
譲治は立ち上がった。
しをりに付き合っていてはきりがない。
駅へと続くなだらかな下りで丁度背から夕照を浴びた。
二つ並んだ長い影は時折別の影と交わったり溶け合ったりした。しをりは無口になり、 ずっと影を追って下を向いていた。
男女の一団が追い付いてきた。二十歳そこそこの女から中年の男まで、年齢は様々だったが、一目で水商売に従事している者達と分かる。小旅行だろうか。彼らの仕事はこれからで、日中は暇なのだろう。彼らの巨きな塊となった影がしをりの影を呑んだ。脇に寄って道を譲りながら、譲治はそれを眺めていた。
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