第29話

「失礼します」

 部屋の外から声を掛けて、斎藤が戻ってきた。

 斎藤は封筒を坂巻に渡した。坂巻はそれをしをりの前に置いた。

 中を確かめるまでもなかった。明らかに金だ。

「何ですか、これは?」

「取っておきなさい」と柏田が言った。

「どういうことですか?」

「会社からじゃない。俺のポケットマネーだ。婿の槙嶋にこれまで付き合ってくれた謝礼と思ってくれ」

「付き合いを止めさせたのはあなたですよね?」

 柏田は鷹揚な仕草でレコーダーを指差した。

「それを聞くまで、槙嶋がプロポーズしたことは知らなかった」

「知っていたら、それでも槙嶋さんとお嬢さんの結婚話を進めましたか?」

「進めた」

 こともなげに柏田はそう言った。

「正直ですね」

「訊いたから答えたまでだ」

 妙なことだが、しをりは少しだけ柏田に好感を持った。彼女の知っている男達――譲治や英樹にはない明快さだった。それがゆるぎない自信から来ていることも感じた。

「お金なんかほしくないんです」

「金がほしくないと言う人間を社会は信用しない」

「それは、あなたが住んでいる狭い社会での論理です」

 傍らの坂巻が心配そうに柏田をちらりと見た。

 だが、柏田は怒らなかった。

「金は幾らあってもこまらないよ」

「お金なんて、単なる手段です。対象を手に入れるための」

「金が増えることで、対象も拡がる」

 しをりは笑ってかぶりを振った。

「それで、これが槙嶋さんの対価ですか? じゃ、反対にこれと同じ金額を差し上げたら、槙嶋さんを手に入れることができますか?」

 柏田は頬が弛みだすのを抑えられなかった。

 しをりが気に入った。青臭い理屈も可愛らしい口から言われると、甘い睦言のようだ。

 槙嶋から引き剥がしたのは正解だと思った。

 朋美のためにではなく、まして英樹のためではない。自分のためにだ。

「どんな対象も手に入るとなれば、人生なんて詰まらないじゃありませんか? 何が生き甲斐になるんです? すぐ手が届かない対象だから、知識を身につけたり、コツコツ貯めたり、知恵を絞ったり、工夫するんですよ。それを夢と言うんです、きっと」

「あんたの夢は槙嶋か?」

 しをりはまたかぶりを振った。

「いいえ。今話していて、よく分かりました。きっと初めから槙嶋さんを好きになったことなんかなかったんです」

 ここで嘘をついた。が、あながち嘘でもないと思い直した。この日、槙嶋の影の面を色々実見して、自分の気持ちが分からなくなっていた。だが、今この瞬間に限って言えば、槙嶋など全く好きではなかった。なので、真実を言ったとも言えた。

「ほんとのこと言うと ここには取引しに来たわけじゃないんです。槙嶋さんと柏田さんに仕返ししたかっただけなんです。その結果、これが出てきた」

 しをりは目の前の封筒を指差した。

「でも、もう気が済みました。お金は要らないし、この録音だって必要ないんです。内容を考えれば、手元においておきたくないくらいです。お望みなら差し上げます」

「貰おう」

 平然と柏田は言った。

「だが、この金は取ってくれ。取引じゃないと言っても、あんたじゃないが、ものには対価がある。未熟者の面倒を見てくれたお礼だ」

「要りません」

「あんたは食うことは好きか?」

 唐突に柏田が話柄を変えた。

「? 好きです」

「じゃ、この金で食事でもしよう。もう俺の金じゃないが、あんたも要らないというなら、誰のものでもない宙に浮いた金だ。有りがたく使わない手はない。どうだ?」

「何回……何十回かは食べられそうですね」

「もっとだ。この金は俺が預かって投資に回す。儲けるのは得意だ」

「逆に失敗すれば、早く打ちきりになりますね」

「それはそれで、夢が持てたのだからいいのだ。あんたの言い方をすれば」

 しをりは柏田の強引さに呆れつつも、男っぽさを感じて気に入った。年上の、頼り甲斐がある男が好きになるしをりの性癖がまた顔を出していた。

 少し付き合ってみても面白いかもしれない……

「いいでしょう 。いつでもあたしの一存で打ち切るという条件付きで同意します」

 そう言っていた。

 柏田は満足げに、唸るように頷いた。坂巻と斎藤は無表情だった。


「録音したか?」

 しをりが帰ると 、早速柏田は坂巻に訊いた。

「しました」

「使えるか?」

「無理ですね。恐喝めいたことは一言もいいませんでした」

「うむ」

 柏田の判断も同じだった。

「一応、女の録音と一緒に木内に聴かせておけ」

 木内は法務部の部長で、柏田派だ。

「はい」

「面白い女だ」

 ふっふと笑った。

 坂巻は斎藤と目を合わせた。

 また悪い癖が――と斎藤の目が言っていた。

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