第30話
25
映画館を出ると、冬至の空は、まだ三時を回ったばかりだというのに、早くも脱色し始めていた。
暗いというより、墨絵のように滲んだ空模様だった。
今観たばかりのモノクロ映画の続きを観ているような気になった。
観たのは『心の旅路』。リバイバルを何十年かぶりで観たのだ。
感動の余韻に譲治はまだ浸っていた。
ストーリーは、記憶喪失の経験を持つ男が、やがて伴侶となる女性の助けを借りて、喪失時期の記憶を取り戻し、その頃結婚していた女性と再び巡り会うというもの。その女性とは、実は当の伴侶になる女性だったという話だ。男と女は同じ相手と二度結婚することになる。
女性は、元の記憶を取り戻していなくなってしまった男を探しだし、過去を語ることもなくずっと彼の傍らにいたのだ。
最後の〝再会〟場面も感動的だが、この作品の白眉は、主人公の男と若い許婚者の別れのシーンであると思う。結婚の打ち合わせに訪れた教会で彼女は、男の愛が記憶の闇に封じ込められた〝誰か〟の上にあることを思い知る。それに気付いていく彼女の演技が見事だった。
こんな昼日中に映画を観たのは久し振りだ。休んでいた手伝いの女性がとうとう復帰してくれたのだ。今復帰しなくても、間もなく年末休暇になるのにとは思う。それでも精神的に楽になった。譲治自身は溜まった仕事を処理するために年内は休めそうにない。が、多少は自由になる時間を得られた。勧められるまま、気晴らしに出たのだ。
譲治は空を見上げた。この分だと、小雪ぐらいちらつくかもしれない。だが、しばらくは堪つだろう。
駅前の案内地図では、近くに広い公園があった。梅の名所らしい。そこを散歩してみよう――そう思った。
郊外のこの町は、中心部を外れるとすぐ、田園が広がる。公園はそのとっかかりにあった。小高い丘をそのまま利用して梅を植えて公園にした梅林公園なのだ。
だが、梅の時期には早すぎた。裸木ばかりだった。花のない梅の樹が思い思いの樹勢で立ち並ぶ景色は一種奇観だ。
梅の樹形は独特だ。西洋ではこういう樹は好まれないだろう。西洋は、公園にしても樹木にしても、きちんと管理された姿をしている。幾何学的なのだ。樹々は全体のプランに嵌め込まれたパーツの一つにすぎない。この西洋の嗜好はシンメトリーや安定した二等辺三角形構図を好む絵画にもよく表れている。
反対に、東洋はシンメトリーを嫌う。梅の樹勢は書にもつながる東洋の好みなのだ。
ちょっと登りが続いただけで、早くも息がきれてきた。運動不足だ。譲治は歩速を緩めた。
記憶と呼ぶには潜在してしまった感覚の断片が次々と胸を掠めてた。
花こそないが、譲治の脳裏には鮮やかな紅や白が、その馥郁たる香とともに去来していた。以前に経験した梅見の記憶――具体的な映像や会話ではなく、視覚、嗅覚、そして女性に触れた折の触覚、声のニュアンスを憶える聴覚、そうした五感が印象として留めている記憶に、譲治はしばし浸った。
裸の枝の間に町が眺望できた。高みに立つと、人は自然に市井の営みに思いを馳せるもののようだ。
だが、譲治はしをりのことを考えていた。
しをりとは、全く連絡が取れなくなってしまった。
少し前までは、何とか接触しようと試みた。
彼女の自宅まで何度も足を運んだ。しかしいつも留守の様子だった。
母親の家にも行ってみた。しをりから何処と正確に教わったことはないが、町名と周辺の様子は聞いていたので、表札を頼りに探し出すのはそう難しくなかった。
だが、母親には結局会わなかった。
玄関の前に立ち、訪いを入れる段になって、どう話せばいいのか迷った。
別れる肚は決まっている。が、お嬢さんと付き合っている男だが、別れる積りだから、ついては居場所を教えてくれ――まさかそう言うのか? あるいはただ、近ごろ会えなくなったから、今の居場所を教えてくれ――そう言うのか?
どちらにしても、自分より年上の男にいきなり娘のボーイフレンドだと言われて、怪しまないわけがない。それに例の若い男とうまくやっているのなら、却ってしをりに迷惑をかけることになるだろう。
うかつにものこのこ訪ねていって、土壇場で初めてそんなことに気付き、断念したのだ。自分の間抜けぶりを呪いたくなった。
それにしても、しをりは一体何処に行ってしまったのだろう?
男と女が別れる一番スマートな方法は、一切会わないこと、連絡もしないことだとは百も承知なのに、尚未練たらしく、そこを最後に一目だけ会って、きちんと気持ちを伝えたいとむきになったわけだが、成り行き的に、そのスマートな形になってしまうようだ。
ならば、もう大人しく諦めることだ。自分は仕事中心の淡々とした生活に戻るのだ。時々会ってくれる由香里が生活に彩りを添えてくれるだろう。社会人の日常なんて、大体そんなものだろう。由香里がいるだけ、まだ自分は恵まれているのだ。あまり多くを望んではいけないのだ……。
公園に入ってから、誰にも出合わなかった。
急ぐ必要はない。譲治は思いに耽りながら、寒々と独り、ゆっくりと歩を運んだ。
傍らの斜面に山茶花が咲いていた。この寒いのに健気なことだ。山茶花は他との生存競争の結果、この時期の開花を選んだのだろう。植物は環境に適合して進化してきた。動物も然り。人もまたそのようにすべきなのか……。
入口で見た地図の記憶では、ほぼ中央辺りに来たようだ。外周部を除く殆どの道はこの広場につながっていたように思う。
四阿には人がいた。
チャコールグレーのつばの帽子――
ずっと会いたいと思い続けてきた者の姿がそこにあった。
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