第31話
譲治は立ち止まって、しをりは腰かけたまま、見詰めあった。
あの夏の日と同じような澄んだ目だった。
「偶然なのか?」
しをりはかぶりを振った。
「画廊に行ったら、田宮さんが映画館を教えてくれたの」
田宮とは、復帰したばかりの手伝いの女性だ。
「着いたら映画は終ってた。でもパパのことだから、きっとここに来ると思った」
しをりは昔のように譲治のことをまたパパと呼んだ。
しをりは薄手の黒っぽいコートを着ている。アームホールの辺りがギャザーになっていて、袖は緩やかに腕にかけて膨らみ、袖口はカフスの上でまたギャザーになっていた。大きなボタンは縁が金だ。脚は黒いストッキング、靴も黒で、踵に金があしらってあった。
好みが変わったと感じた。例の若い男の好みなのか。変わらないのは帽子の好みだけのようだ。
「ね、座って?」
しをりがベンチの自分のすぐ横を叩いた。
その手はチャコールグレーのウールの手袋に包まれていた。手の甲にライトグレーの丸い毛の玉が二つ付いていた。
「寒くないのか?」
そう言いながら、譲治はしをりの横に腰を下ろした。
「久し振りだな」
「うん」
「もう会わない積りなのかと思ってた」
「一時期そう思ってた」
「どうして気が変わったんだ?」
「やっぱり思いきれなかった」
予想しなかった言葉だった。譲治は動揺し、動揺したことに自分で驚き、やっと頷くことだけできた。
熱い感情がこみあげてきた。が、こう言っていた。
「別れた方がお前のためだ」
「何故?」
「俺は我儘だ。他の女とも付き合うことなんか屁とも思っちゃいない。エゴの塊だ。嫌な思いをする前に別れた方がいいぞ」
少し前に、会ったら言おうと考えていた科白だった。しをりに負い目を感じさせずに別れるには、しをりが自分を憎むように仕向けるのが上策だった。その台本通り、心を痛ませながら、そう喋り切った。
「じゃ、何故あたしに会いたがったの?」
「そうだと分からせたかった」
あははは……としをりは笑った
「エゴな人なのに、そんなこと考えるの?」
言われればたしかにそうだ。笑われて当たり前か。動揺を隠すために、わざとむっとした顔を作って言った
「お前への最後の誠意だ」
しをりはまだ可笑しそうにしている。
「本心?」
「実際経験したろ?」
「本心?」
重ねて問いつつ、しをりは面白そうに譲治の目を覗いた。
「……」
情けないことに、譲治はもう突っ張れなかった。
――こんな強い目力だったか?
「それはもういいの」
花が綻びるように、しをりが笑んだ。山茶花より温かげに思えた。
「何故?」
「男の人だから」
「男ならいいのか?」
「……人間だから?」
「ああ?」
「人は誰でも、常に異性に惹かれるものなのよ」
「お前もそうだと言ってるように聞こえるけど……」
「同じみたい」
「一体どうしたんだ? 何があった?」
俄然興味が湧いてきた。しをりについて、自分の中の空白のページが埋められそうなことに喜びを感じだしていた。いやでもしをりが好きなことを再認識させられた。
「すごく色々経験しちゃった。初めは訳わかんなくて。辛かったり、混乱したりしたけど、だんだん色んなことが理解できてきて、世界が広くなった」
「そうか? だが結婚するなら、俺と会ったりしちゃ駄目だぞ?」
「結婚しないもん」
「しない? 付き合ってた若い男はどうした? お前には理想的だと思ったが」
「幻よ、パパ」
「何だと?」
「理想の男なんか存在しないの。はじめから」
しをりは、譲治が男の存在を知っていると分かっても、驚かなかった。以前男が譲治の身辺を洗ったことがあった。その時逆に譲治も彼の存在に勘づいたのだろうと判断したのか。あの時の若者の目は、女に夢中な男の目だった。
「ん」譲治は小さく唸っただけだった。しをりが過去のことのように話すのと同様、譲治もまた当時の自分を引いて見られていることに気付いていた。
「あたし、このところ二ヶ月くらい、ある人とお付き合いしてみたの……」
「うん?」
付き合ったのは柏田だ。
初めは約束通り会って食事をするだけだったのが、そのうち深い仲に発展した。
柏田は何に関してもアグレッシブだった。頭がよく、自信に満ち、類まれな判断力と行動力を備えていた。
しをりに対しては柏田なりに気を使ってくれた。余裕のある男の醸す存在感にしをりはどんどん惹かれていった。父親のような頼り甲斐を感じた。自分のこのエレクトラコンプレックスの性向だけはどうにもならなかった。
柏田はまた、房事でも精力的だった。初めは乱暴ではないかと心配したが、意外に穏健だった。しかし迷いのない、意志が感じられる動きをした。しをりは柏田により、新しい官能を掘り起こされた。
気の毒なのは英樹だった。
柏田はしをりが同席していても平気で英樹を呼びつけ、顎で用を言い付けた。時にそれはしをりに関するプライベートな用事だったりした。そんな時英樹は柏田の手前あからさまに嫌な顔はしなかったが、元気はなかった。
柏田はそれを全く意に介さなかった。しをりももう英樹に同情はしなかったが、柏田はもっと人の心に配慮すべきだと思った。だが、それも柏田の個性だと考えることにした。
ところが、その後の英樹の立ち直りは早かった。日を置かず持ち前の元気を取り戻した。彼はしをりとの過去を捨てきったのだ。彼女をただ柏田の愛人として位置づけた。そうなると彼の長所である気配りで、彼女に愛想よく接しだした。それは心地よくすらあった。過去を捨てたのはしをりも同様だったが、それでもうっかりすると、今の英樹に新たに好感と信頼を寄せようとしている自分に気が付いて驚いた。
会社というフィルターを通して身近で見る英樹は、けして要領がいいだけの男ではなかった。先を読む力があり、経営感覚もあった。柏田が見込んだだけのことはあった。しをりは英樹は必ず出世すると思った。だからと言ってもう恋心を抱くということはなかったが。
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