第32話

 しばらく柏田に夢中になったしをりだったが、次第に柏田に物足りなさを感じ始めた。

 柏田には繊細な部分がなさすぎた。そこが譲治と大きく違っていた。

 繊細さは弱さでもある。が、弱さは時として魅力にも変わる。良し悪しはともかく、弱さは他者に対する受容器だ。そこに女は細やかな感情を通わせることができる。ワンマンな柏田と付き合ったことで、そのことが初めて見えてきた。

 生活を共にしているわけではないから、割り切って付き合えばいいようなものだが、しをりは柏田との距離感にも疑問を感じ始めていた。

 強権的な男の許では、同じ野心を共有できない限り、単なる愛玩物に止まってしまうのではないか? 寵愛した祇王を即決で追い出し、佛御前を据え代えた平清盛の例もある。

 少し冷静になってみると、それまで意識していなかったことだが、しをりはどうやら柏田を専ら譲治の当て馬と見ていたらしいことに気が付いた。もちろんその後は柏田の男の魅力に惚れていったわけだが。柏田は――譲治も――ずっと年上である。エレクトラコンプレックス(ファザコン)の性向がある自分に、それは仕方がないことだった。

 だが、ここに至って、ようやく深く潜行していた影の主役が浮上してきたようだ。

 しをりは、無性に譲治に逢いたくなった。

 譲治には欠点が多々ある。が、今は欠点も長所も丸ごと受け入れたくなった。

 今ならしをりはその感情を〝愛〟と呼べる。

 他の女性が譲治とどうであれ、もはや関係なかった。自分の気持ちは偽れないし、偽ることに意味はなかった。更に言えば、譲治の自分に対する気持ちのあり方も、もう気にならなかった。二人の関係に未来はないかもしれない。だがそれは柏田とでも同じなのだ。ずっと先のことは分からない。自分にもかつての英樹のような似つかわしい相手が見つかるかもしれない。でも不確かなことに夢を膨らませても仕方がない。大切なのは今――今この瞬間なのだ。


「その人に教えられたの。あなたが好きだって」

「……俺の知ってる男か?」

 譲治は画廊で見た英樹の顔を思い浮かべた。

「ううん。違う。」

「……」

 続く言葉を待ってしをりの顔を見ていたが、彼女は微笑むばかりで、続きはなかった。それ以上、言葉は無用と判断したようだった。

 服装ばかりではなく、しをりは確かに変わったようだ。以前は、飼い主の足元にじゃれつく仔犬のようだった。譲治の後をどこにでも付いてきたものだが、今は譲治の一挙手一投足に左右されない〝大人〟を感じる。

 どうやら二人の関係は対等になったようだ

 以前しをりは譲治の視野の半径内にいた。それが、そこからいったん出ていって、今また帰って来たように思うのは間違いだ。しをりは自分自身の円を持ったのだ。帰ってきたように見えるのは、二つの円が重なっているからだ。

 だが、譲治にはそれももうどうでもよかった。どうあろうと、自分のスタンスは変わらないし、しをりにしても同じだろう。

「そう言われたら天にも舞い上がりそうだが、老い先短い老人を急いで天国に行かせてはいけないよ」

「あはは……本気だよ?」

「頑固で身勝手、その上ジイサンだぞ?」

「うん」

 譲治は頷いた。目を見て信じた。本気だと。

 急に愉快な気持ちになった。

 結局何も変わらないのだ。

 昨日に住むには早すぎる。明日を語るには遅すぎる。自分達の関係に将来はないかもしれないが、今日を大事に生きることだ。今日を全うすることで、明日は来る。そうやって今日を紡いでいけば、何か見えてくるものがあるかもしれない。

 きっと微笑んでいたのだろう。

「よかった。嬉しい!」

 しをりが跳ねるように立ち上がった。

 手を握られて、譲治も立ち上がった。

 手をつないで二人は歩みだした。

 歩き出したことで、凍えた四肢に血が通い始めた。

 暮れかかっていた。

 光のない暮れは、暮れきったことを知るのが難しい。いきなりストンと闇に包まれるのだ。だが二人は急いでいなかった。

 風もでてきて、更に寒くなった。

「明日からまた少しずつ日が伸びるのよ」

 しをりの声は明るかった。

「え? ああそうだ。今日は冬至だった」

「すぐ春ね。梅が咲いたら、ここに連れてきて?」

「ああ。いいとも」

 譲治はしをりを抱き寄せた。

 北風が哭きながら梅の枝を揺らしていった。

 風に抗うように、二人は強く抱き締めあった。

                                   〈完〉

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今日愛して 凩 光夫 @7800303

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