第19話
北海道支社云々という話は作り話だ。英樹は自分で社内では将来を嘱望されている一人だと自惚れているが、そういう社内の評価を肌で感じているのも確かだ。そんな自分を人事が平のまま北海道に飛ばすはずがなかった。縁談を断ればそうなるぞとのあからさまな脅しなのだ。
考え所だった。この先何十年かの会社人生がこの一瞬にかかっていた。英樹は猛烈な勢いで頭を働かせた。
北海道なら、キャリアは大きな停滞を余儀なくされる。柏田の時代は今正に始まろうとしている。それが長く続くようなら、再び浮き上がる目はない。三十の身空で落伍者と決まるのだ。
一方、係長試験は柏田の引きがあれば確実に通る。出世競争で同期の中で頭一つ抜け出すことができる。
一方、ついああは言ったが、しをりと一緒になりたい気持ちも強い。
目の前で、短気な柏田が辛抱強く英樹の返事を待っていた。だが、その顔が次第に苛立ってくるのが分かった。部下の愚図愚図した報告を聞いている時の顔だった。
英樹は追い詰められた。
少し考えさせて下さいという言葉は柏田には禁句だった。
柏田は何よりも保留を嫌った。判断の材料が揃っていない時は保留を認めたが、揃っている時は、その場逃れのような保留をけして認めなかった。素早く正確な判断、それが柏田が自分にも部下にも要求することだった。
また、少し時間を稼いだところで状況が変わる訳もなく、寧ろ悛巡したことが後々まで柏田の不興を買い続けるかもしれなかった。
そう考えること自体、もう既に柏田に阿り始めているのだが。
英樹は腹を括った。
「思いがけないお話でしたので、つい動転してしまいました。自分には勿体ない話ですが、 喜んでお受けさせていただきます」
深々と頭を下げた。柏田に一点の疑念も抱かせないよう、潔い仕草で。
「うむ」
柏田の表情が和らいだ。
「ですが、お嬢様はこの話ご存知なのですか?」
「勿論だ。今朋美がいたのは、お前に対するあいつなりの挨拶だ。俺の指示じゃない」
「そうでしたか」
「お前のためにもこの話はいいことだ。今日からお前ははっきりと俺の派閥だ。旗幟は鮮明だ 。するとな、いい意味で勢いもつくが、妬まれもする。足を引っ張る奴もでてくる。まあ、おいおい処世術は教えていくが、驕るなよ? 畏れられるのはいいが、嫌悪されるのは駄目だ」
英樹は内心驚いた。他人の感情には全く無頓着で、我意を通すだけの男と柏田を見ていたからだ。選択は正しかったかもしれないと感じた。
「俺がもうすぐ社長になるのはわかってるな? なれば、何もなければ俺は六、七年はやる積りだ。その後は代表権のある会長に退く。それで五年。合計十二年だ。それだけあれば充分だろう。後はお前自身の才覚と努力でなんとかしろ。お前にはそれだけの能力がある。ここ暫く俺はお前を引きずり回したな? お前という人物を見ていた。お前は嫌な顔をせず、俺の要求によく応えた。不測の事態にも臨機応変に対応した。お前は根性も想像力もあるようだ。そう思わなければ、縁談も持ち出さなかった」
18
タクシーは古書店街に入っていた。
丁度街をあげての「古書祭」の最中だった。歩道の車道側に露店が連なっている。露店はそれぞれオーナーが異なる。大体真ん前の書店がオーナーだ。
かなりの人出だ。中高年の、それも男性が多いが、極端に偏っている訳ではない。自分と同年輩の女性だっている。皆一心不乱に棚に視を落としている。
譲治に連れられて何度か来たことがある美術書専門店に差し掛かった。数人がうろうろしてひやかしていた。
目は自然譲治の姿を探していた。
自分は譲治を思いきれるだろうか?――
しをりは自問した。
譲治に気持ちが残るのは確かだ。男女の仲だったのだから当然だ。でも、そもそもどうして自分は彼にひかれたのだろう?
エレクトラコンプレックス――それは否定できない。だが依存していたわけではない。反対に譲治の方が頼っていた面もあった。我儘な男だが、世間知らずな所がある 。子供っぽい面を残したまま年をとった感じだ。男って可愛いと誰かも言っていたっけ。
カンナ畑を周章狼狽して必死で脱け出てきた譲治の顔は忘れられない。抱き締めたいくらい可愛かった 。あの頃自分は幸せだった。
だが、あの〝事件〟で関係は変わってしまった。もう無邪気に彼を信頼することは出来ない。
男の浮気は、それがただの浮気なら、父を見て育った自分は赦すことができる。
だが、その時から今まで、譲治には全く誠意がない。一緒にいた女性とは付き合いが長そうだった。譲治は二股をかけていたのだ。自分のことを愛してくれているかどうかは疑わしいのだ。
しをりは小さく溜め息をついた。俯くと、自分でも気に入っている形のいい指がきちんと揃って膝に乗っていた。膝小僧を見ていると、そこに添えられた譲治の手の感触が思い出された。
謝ってくれなくてもいい。反対に何を下らないことぐずぐず言ってるんだ、なんて怒られてもいい。黙り込んで何も言わない、何もしようとしないより遥かにましだ。明々白々でも、男は絶対浮気を認めてはいけないと父親なんかは考えていた節があった。強引にそれで押し切ってしまえば、結局うやむやになるのだ。それはそれで一つの解決法だとは言える。何もしようとしない譲治は全然男らしくない。
二人の間には今や大きな淵が横たわっている。深く荒涼とした淵が。向こう岸の譲治は今にも背を向けて、一言も言わずに去ってしまいそうだ。このままだと自分の方もまた同じことをしてしまいそうだ。でも、それでいいのだろうか?
譲治との関係がどうなるにせよ、二度と〝パパ〟と呼ぶことはないだろう。
こんなことが大人になるということなのだろうか? 大人とは裏切られた子供だと誰かがどこかで書いていた。裏切られ続けた者は自己防衛のためにいつか打算するようになる。 それが大人なら、自分も打算しよう。そうすればもう傷付かないで済むのだろう――
そう思って、しをりは泣きたくなった。
タクシーは右折し、JRの高架の下を潜り、しばらくすると、江戸の昔からの老舗が立ち並ぶ街区に入った 。界隈は近年かつての勢いを失っていたが、ここ数年の再開発で俄然息を吹き返してきた。
江戸期から続く老舗百貨店の正面玄関前でタクシーを降りた。
案内カウンターのすぐ横にあるエレベーターに乗り、7階で降り、長い通路を端まで歩いて食堂に入った。
ここの食堂は 、子供を連れて入れる程カジュアルではないが、裃姿で入る程格式張ってもいない。席と席は程よく離れており、係員の物腰は丁寧で、お好み食堂風になんでもあるのに、料理は美味しい。
いつも大体何組かが順番待ちをしている。
が、予約して入る個室が広いフロアの更に奥にあることを知らない人は多い。
しをりは入口で名前を告げて、個室の一つに案内された。
部屋には既に母親の葉月が来ていた。
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