第18話

     17

「今度は一体何だっていうんだ? 俺を私物化してないか?」

 エレベーターを下り、役員室へ繋がる細い廊下を足早に歩きながら、英樹は心の中で文句を言った。

 電話の主は常務の柏田恒雄だった。

 柏田は英樹を所時間を構わずいつでも呼びつけ、用をいいつけた。そうなって久しい。はっきりと私用の場合も少なくなく、既に企業の上司と部下の関係を逸脱していた。

 夜中に自宅に掛けてくることもある。そんな時、柏田は大体飲んでいた 。英樹はどうせ一人住まいだからと気楽に声をかけるのだろうが、夜中に叩き起こされて、他人の気紛れな酒の相手をするためにタクシーを飛ばしていくのは、腹が立つ以上に情けなかった。

 だが、英樹はそれを拒めなかった 。彼は出世したかった。未成年の頃の苦労が骨身にしみていた。

 柏田は社内で次期社長と目されている。五十を出たばかりの若さだが、既に幾つかのプロジェクトで実績をあげていた。

 柏田の上には副社長と専務がいるが、副社長は現社長の永年の腹心で、現社長と進退を共にすると考えられている。専務は七十八才と高齢で、今期での勇退が確実視されていた。

 英樹は受付にいる女性に声をかけ、柏田に訪いを入れた。女性は柏田に内線を入れ、入室の許可を取り次いだ。

 英樹は扉をノックし、部屋の外から「失礼します」と声をかけた。

「おう」

 いつもの嗄れた声がした。

 常務室はチーク材をふんだんに使った重厚な仕上げの部屋だ。

 柏田は常のように窓を背にして執務机に向かい、こちらを見ていた。

 一礼をした英樹は、その前面の応接に腰かけた女性を認めて、密かに眉を顰めた。

 柏田の娘の朋美だった。

 英樹は朋美が苦手だった。我儘で浪費家で、父親以外の誰にも女王のように振る舞った。 その上いつも水商売の女のようなけばけばしい服装をしている。結婚しているくせによく亭主が許すものだ。亭主も亭主だ。そして柏田も娘をこんな格好で会社に出入りさせるのはどうかと常々思う。

 どうして朋美がここにいるのかと疑問に思いながら、しかし次には英樹は満面の笑みを作って朋美に語りかけていた。

「お嬢様、お久し振りですね!」と。

 朋美は鷹揚に頷くと ミニスカートの脚を組み直した。ショッキングピンクのスーツの大きく開いた胸元から膨らみの上部が覗いている。下に何か着けているのか疑わしくなる程ローカットだ。そこにはぶ厚いゴールドのネックレスが光っていた。靴もテーブルに置いたバッグも金ぴかだった。

「そうね」

 真っ赤に染めた髪を後ろにかきやって、朋美は少し笑った。

「お元気そうだ」

「貴方もね」

「カンヌはどうでしたか? 丁度映画祭だったでしょう?」

 たしか少し前に朋美はカンヌに行ったはずだと思い出しながら、如才なくそう言った。

「映画に興味はないわ。退屈だっただけ。言葉は通じないし。誰かに一緒に来てもらえばよかった」

「私でよければいつでもご一緒しますよ。常務がいないから言えるけど」

 柏田が微かに苦笑した。

「次はお願いするわ」

「お父様には内緒ですよ?」

「いいわ」

「お前達、そんな仲だったのか?」

「そうよ 。パパ知らなかった?」

 朋美は潤んだような目を英樹に向けてきた。真昼間から風俗嬢に言い寄られたようで、彼は落ち着かない気分になった。

「さて、お仕事の邪魔をしちゃ悪いから、もう行くわ 。あと宜しくね 、パパ」

 朋美が立ち上がった。空気が動き、甘ったるい香水の匂いが鼻についた。

 何が宜しくなんだか。会社で私用を頼むなよな――

 とにかく英樹がほっとして見送ると、

「まあ掛けてくれ」と、柏田が今まで朋美が座っていた辺りを開いた手で示した。

「はい」

 珍しいことだった。柏田はいつも英樹を直立不動にさせたまま話をするのが常だった。これは何かある、と嫌な予感がした。

 とにかく言われるままに英樹は座った。朋美の体の温もりが心地悪かった。

 柏田も執務机を離れ、英樹の真ん前に腰を下ろした。これも異例だった。

「娘をどう思う?」

「また一段と女性っぽくなられましたね。それに元々頭がいい方ですし。魅力的です」

 頭がいいのは本当だ。それをどうしてもっと社会のために活かさないのかと思う。まあ美人の方だが、女性っぽくなったとは当然お世辞だ。一段とケバくなったと言いたいところだった。

「本心から言っているのか?」

 見透かされたように柏田に言われた。人の心の奥底を抉るような目だった。英樹は背筋が冷たくなった。

「先程は常務を茶化すようなことを口にしまして、申し訳ございません。久し振りにお嬢様にお会いできて嬉しくなり、つい調子に乗ってしまいました。ですが、心にもないことを言うのは、実は得意ではありません」

 そう言って、意識して柔和に笑んだ。

「うむ」

 柏田は微かな笑みを浮かべ、この男の癖で唸るように頷くと、

「来てもらったのは他でもない。娘のことだ」と言った。

「はい」

 意味がわからない。話を聞く態勢になった。すると、

「お前、朋美を貰ってくれ」

 と、いきなり予想もしない言葉を聞かされた。

 さっきの流れで、冗談かと思った。

 だが、柏田の目を見て違うと感じた。大きな目玉がギョロリと英樹を見据えていた。厚い唇が一文字に結ばれ、両端がへの字に下がっている。柏田が人に命令する時の顔つきだった。

「貰ってくれと仰るのは、どういうことですか?」

 訳がわからなかった。

「だから、結婚しろ……してくれということだ」

「結婚? お嬢様は既に結婚されているじゃありませんか?」

「離婚したんだ。ついこないだ」

 柏田はほろ苦い顔をした。普段の厚顔ぶりからは遠い表情だった。

 英樹は絶句した。何か悪い夢を見ているのではないか?

「本当の所どうなんだ? 朋美をどう思う?」

 英樹が黙っていると、柏田は更に苦い顔になった。

「あいつは我儘な奴だ。お前もそう思うだろ?」

「いえ……」

 否定しようと思ったが、うまく言葉が続けられなかった。

「母親を早く亡くしたせいかな。それでつい甘やかしたからな。だがな、離婚してあいつも今度は傷付いた。少しは社会勉強をし、大人になった。お前の知っている朋美とはもう違うよ」

 尚も英樹が黙っていると、

「お前、まさか結婚相手がいるのか?」

 初めてそこに思い至ったという顔で、柏田が訊いた。

「付き合っている女性は確かにいます」

 つい正直にそう言った。言ってしまってから、まずかったかなと悔やみ始めている自分に気が付いた。

 柏田が目を細めた。不機嫌な時の表情だ。ぞっとした。

「回りくどい言い方はやめろ。その女と結婚するのか?」

「婚約はしてません」

 事実そうだ。

「プロポーズもです」

 図らずも嘘をついていた。

「それで?」

 柏田はますます苛立ってきた。

「結婚は考えていませんでした」

 迎合していた。

 柏田はまた唸りながら頷いた。

「なら、別れろ」

「……」

「北海道支社の方から一人若手を営業部員に欲しいと依頼が来ている」

 急に話題が跳んだ。

「?」

「人事の方は、お前を遣ろうかと考えているようだ」

 いったん言葉を切って、柏田は英樹を睨み付けた。

「それとは別に、俺はお前は本社に留めて係長試験を受けさせようと思っていたところだ」

 お前はどっちを選ぶんだ? と柏田の顔が訊いていた。

 よく言うぜ、この狸がよ、と英樹は内心毒づいた。

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