第17話
15
「ところでプロポーズは受ける気になってくれた?」
東京近郊のテーマパークの中のオープンカフェだ。
英樹は黒と焦茶の中間のような色のポロシャツにベージュの綿パン、胸元から日焼けした肌と金のチョーカーが覗いていた。
英樹の連れていくデートスポットは話題の人気スポットばかりだ。
相手が変わると行く場所がこうも変わるものかとしをりは驚いていた。
こうして連れ回されると、知らなかったことを色々知って、社会の今の姿が見えてくるようで、新鮮で楽しかった。
譲治が連れていく所は、回りは中高年ばかり、若者といえば、勉強のために来る芸術家の卵で、恋人と一緒の時間を楽しもうなどという手合いはまずいない。
お喋りしたり 、手をつないだり、飲んだり食べたり、とにかく一緒にいる時間を楽しむには、英樹のチョイスの方が圧倒的に勝っていた。
「……ごめん」
しをりは本心から済まなく思った。
この二日、譲治から連絡がない。それを気にしている事で、英樹に対し引け目を感じる。
「君のお相手のことなら、僕も一緒に考えようか」
「え?」
「人と話すことで、はっきりしてくることもあるよ」
「うん……」
「そもそも好きなのか?」
「好きだった。でも今はわからなくなった」
しをりは素直に心情を吐露した。
「なんで?」
「浮気されたの。ひょっとすると、相手の女性とはずっと付き合ってたかもしれない」
あの日の二人の様子を思い浮かべると、いまだに酸っぱい気分になる。
「そして、あたしにそのことを一切説明しないの。言い訳も開き直りも一切」
「彼にどうしてほしいの?」
「わからない……」
「彼は君と結婚する気だった?」
しをりは首を横に振った。そのことは以前からわからなかったのだ。
「プロポーズはなくても、そう感じたことは?」
「わからないな……」
「じゃ、君はどう? 彼と結婚する気だった?」
しをりはまた首を振った。
「よくわからない」
英樹は黙った。なんだ何もわからないんじゃないかといった顔つきだった。しをりは自分の間抜けな受け答えが恥ずかしくなった。これではまるで考えなしにただ性愛に身を任せただけの、分別のない女ではないか?
「遊ばれてるんじゃないか、年配男に?」
「年配よ、確かに。でも、そうなのかな?」
ますます自信がなくなって、語尾が弱々しくなった。
そんなしをりを呆れたように眺めながら、
「年配の男なんて、都合のいいことを考えるもんだよ。当人も自分勝手な男のようだし」
と英樹が言った。
「え?」
「悪いけど、その人のことは調べさせてもらった」
しをりは驚いて言葉を失った。英樹がそこまでするとは思わなかった。譲治との関係をどう清算するかは自分の一存に委ねられていると思い込んでいた。少し不快な気持ちになった。成績表を覗かれた学生のような気分だった。
そんな気持ちを知ってか知らずか、
「それだけ君のことを真剣に思っているということだ」
平然と英樹はそう言った。
そう言われれば、何も言い返せない。それに、自分の言動に一点の疑念も抱かない自信に溢れた顔を見ると、しをりは抗議する気が失せた。
英樹はしをりとのことを真剣に考えてくれている。非難されるべきは自分の方なのだ。
「現実問題として、あの男と君にどんな未来があると思う?」
痛い所を衝かれた。
英樹はテーブルの上で両手を広げた。男性らしい大きな手は、どこで日焼けするとそうなるのか、手の甲が、白いままの掌と強いコントラストをなし、まるで黒人のようだ。
「彼は君と結婚する気はないと確信するな。若い頃に結婚歴があるけど、すぐ離婚してる。 以来独身。もてないかというとそうでもなく、これまで何人か女出入りがあったみたいだ が、常に結婚は避けている。彼は君とも誰とも結婚する気なんかないのさ。君がこのままずるずると関係を続ける気なら、それこそ彼の思う壺だ。大体性格が気むずかしくて、とても家庭向きじゃないんだろ?」
譲治が過去に何人か女性と付き合ったことは、本人の口から聞いてはいないが、うすうす勘付いていた。だが、長く生きていれば当然あることだし、全て自分と付き合う前のことだ。今後の二人の関係は二人だけで決められるのだと漠然と信じていた。が、その幻想は既に無惨に粉砕されていた。
「よく考えるんだ。彼と付き合ってこの先どうなる? 結婚しても、君を自分のものにしてしまえば、ああいう男は絶対君を粗略に扱うぞ? 大体お母さんが賛成すると思うか? 自分より年上の婿なんて」
英樹は母親のことまで調べていた。それに少し引っかかったが、しをりはもう敗北感に捉われていて、反発する気力はなかった。
英樹の言うことには正論だ。
それでもまだ踏ん切りがつかなかった。
テーブルの下で、英樹が長い脚を組み直した。外にはみ出た白いスニーカーの先が小刻みに揺れていた。初秋の爽やかな風が意志的な顔の英樹の前髪を靡かせていった。
16
久しぶりに忙しかった。
画家を訪ねて、所属する団体の事務局長が来た。局長は翌年の日本芸術院会員の座を狙っており、会からは全面的なバックアップを受けている。画家は彼の直接の教え子ではないが、近い将来会を領導する身としては、将来性のある会員は手なずけておきたいところなのだろう。 局長は一時間ばかりいて帰った。
その後も会所属の作家達が何人か来た。
その間に、作家の作品購入実績のある顧客が二名たて続けに来た。譲治は応対におわれた。
その男が入ってきたのは、ようやく来訪者が途切れ、作家が仲間と遅い昼食を摂りに出た直後だった。
譲治は例によってソファーに腰をおろし、やっとできた時間で台帳に成約を記入していた。
扉が開く音に顔を挙げ、いらっしゃいませと声をかけたが、立ち上がらなかった。
ダークスーツに身を包み、白いワイシャツに臙脂系のストライプのネクタイを合わせた浅黒いスポーツマンタイプの三十近い男だ。記憶にはなかった 。作家の仲間の雰囲気でもなかった。
譲治は最初から客に付く気はない。一度自由に見させて、それとなく観察し、関心の程度を測ってから声をかけるようにしていた。
訪問者に注意を払いながら、作業に専念した。目の端には常に客の脚が映っている。
床はカーペットだが、下はフローリングで、人が歩くと微かに軋む。ゆっくりと歩き回る小さな跫音がしばらく画廊に響いた。
跫音が止まった。
画廊の中が静かになった。
気づくと、男が傍らに立っていた。強い視線を感じた。
顔を挙げると、目が合った。
男は作品ではなく、譲治を見ていた。作品や作家について問おうという客の眼ではなかった。
しばらく見合う形になった。普通なら「何か気になる作品でもありますか?」とでも訊くところだ。彼がそうしなかったのは、男から強い敵意を感じたからだ。
譲治は男が何かを言い出すのを待った。とっくに正体には見当がついていた。興信所を使った依頼主だ。あれは、エロ兄いが想像したように、素行調査だったのだろう。他に思い当たることはない。
男が口を利きそうな雰囲気になった。
が、その時呼び出し音が鳴った。
男は不興げにスマートホンを取りだし、画面の表示を確認してから耳にあて、「 もしもし、マキシマです」と応えた。少し低めのいい声だった。
相手の名乗りに応えたのだろう、はいと合いの手を入れながら、足早に画廊を出ていった。
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