第20話


 昨夜 、たまには顔を見せなさいと電話で呼び出されたのだ。葉月はこの百貨店の中にある劇場で芝居を観ることを楽しみにしている。観劇の序に昼食を一緒に摂ろうと誘われた。

 葉月は鰻重を、しをりは寿司をとった。葉月はここの鰻重が気に入っていた。

「あなたどうしてたの、最近?」

 葉月はデニムの着物を着ていた。デニムは生地が厚いので太って見えがちだが、葉月の場合上背があるので、年相応な風格を感じさせた。赤を差した栗色に染めた髪は一見デニムに合わないが、帯と臙脂色の色石をあしらった帯止でうまく調和させていた。かつては粋筋だったのではとしばしば誤解される程、見かけが婀娜っぽい。

 その白い顔を鰻重から上げ、入念に化粧を施した眸で娘を見た。

「フランス語に通ったり、スイミング行ったり、美術館行ったり。いつも通りよ」

「きちんと生活してるの? 不摂生してないわね? たまには連絡寄越しなさいよ 。心配させないで」

「ママ、あたし大人なのよ?」

「そう? まだ子供の気分でいるんじゃないかって気がして」

「失礼ね。ママ、あたしもう結構いい年なのよ?」

「ならいつまでも遊んでないで、そろそろちゃんと人生を考えなさい」

「……」

「昔と違ってね、今は女の人も社会で活躍する時代でしょ? それならそれでいいのよ。そういう時代なんですからね。仕事か結婚かで仕事を選ぶ女性を否定はできないわね。でも、あなたの場合は働いてもいない」

「ママ、何が言いたいの?」

 確かにしをりは一度も働いたことがない。就職を考えなかったわけではない。だが、しをりの時代は就職氷河期だった。特に女子は極端に就職口がなかった。僅かな選択肢の中に将来を託すに足ると思える会社はなかった。

「働かない女性は結婚するのよ 。それがもう一つの大人の女の生き方よ」

 理屈ではそうなるのだろうか? しをりは第三の選択肢の可能性を考えてみたが、俄には思い付かなかった。

「どうなの、あなた?」

「何よ?」

「今お付き合いしている人いるの?」

 訊かれて、折角の中トロが喉に詰まってしまった。

 母親の繰り言を撃退するには、英樹のことを話すのが一番だと瞬間に思った。

 だが、英樹とはまだ付き合いが浅く、実際に結婚に至るかは自分でもまだ分からない。 だがまあ、駄目になったらなったで、母親にはそう正直に言えばいいことではある。

 ところが、脳裏に浮かぶ顔はといえば、何故か譲治の方だった。

 自分の心の不安定さを思い知らされ、英樹の名を口にするのが躊躇われた。

 それを葉月は勝手に否定と受け取ったようだ。

「あなたに縁談が二件来てるのよ」

「え~。それってお見合いってこと⁉」

「そうよ。今までも来てたけど、あなた見もしないで断ったわね? でもそれってね、失礼なのよ。先方は真剣なんだから。だいたい言い訳を考えるのはあたしなんですからね。あなた自身にとってもみすみす機会を失うことだし、今回は真面目に考えてちょうだいよ?」

「ママ。お見合いなんて、今時流行らないのよ」

「それでね、あなたがいいご縁を見つけられるのなら、あたしだってこんなに心配せずに済むわよ」

 葉月はバッグから二通釣書を取り出し、しをりの前に広げて見せた。

「あたしより先にお姉ちゃんでしょ? 順番よ」

 しをりの姉さゆりはイギリスに渡ったきりだが、まだ結婚はしていない。

「それはね、順番通りに嫁いでくれたらあたしも安心よ。でもそうも言ってられないじゃない。あなたは適齢期なんだし、だいいち二件ともあなたをと言ってきたんだから」

「やあね、適齢期なんて! 女の価値は若さだけみたいじゃないの」

「仕方ないでしょう。女は盛りがあるんだから」

「動物みたいに言わないでよ。何だかいやらしいわ」

「求められるということはね、沢山から選べるということよ 。女が有利な時期なの。特にあなたは綺麗なんだから。でもその時期はすぐ過ぎちゃう。とにかくご覧なさい」

 仕方なく、しをりは釣書に目を通した。


 一人目はしをりより五つ上だった。一流国立大学を出て、メガバンクに勤めていた。父親も大手商社の役員だ。兄が一人おり、一年前に結婚していた。この男と結婚したら、長男の嫁ではないので、気楽といえば気楽だ。

 二人目は二つ上の医者の卵だ。父親は開業医 、母親も医者だ。こちらは長男で、妹が一人いるが、既に嫁いでいる。しをりに期待されるのは医院のきりもりだろう。

「いい案件でしょう?」

 どうだという顔で葉月が言った。

「なかなか来ないわよ 、こんな縁談。それにどっちもイケメンだし」

 たしかに二人ともいい男だった。銀行マンは整った顔をしている。きっと真面目なタイプだろう。だが、堅苦しそうだ。医者はがっしりとした歌舞伎役者みたいな美男だ。だが、尊大そうだ。

 ぴんとくるものがなかった。

 大体今時時代遅れのお見合いをしようとする男達は、旧態依然とした家父長制の信奉者だったりしないか? そんなところに嫁ぐのは堪らない。

 しをりは釣書をテーブルに戻した。

「気に入ったなら、ママが結婚したら?」

「あなたの話でしょ!  真面目に考えなさい!」

「ママ、まだパパのこと思ってるの?」

「全くあなたって人は! こっちが一人でやきもきして、馬鹿みたいだわね。あなたに甲斐性がないから、探してあげてるんでしょう」

 どんどんボルテージが上がってきた。

「あたし、付き合ってる人いるもん」

 不意をつかれて、葉月は一瞬言葉を失った。

「……そお?  どんな人なの?」

 キーが低くなった。

 しをりは英樹のことを話した。

 葉月は幾つか質問をした。結果、娘の話から英樹には合格点を与えたようだった。

「あなたって人は……もうほんとに!  相手がいるのならいると、初めにそう言いなさい」

「いないなんて、初めから言ってないじゃない」

「近々あたしに紹介しなさい」

「うん」

 葉月はコーヒーを注文した。話しぶりはすっかり穏やかになっていた。安心したようだ。

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