第21話

     19

 譲治はこのところ忙しかった。二回連続で企画が当たった。無論喜ばしいことなのだが、客に送る荷造りも沢山することになった。それと平行して、先の企画を立たり、作家と交渉したり、DMを作って顧客に出したり、何もかも一人でやるのだから大変だ。

 半年前まで一人手伝いの女性がいたが、スキー場で転倒して脚を骨折し、入院してしまった 。もう復帰していてもおかしくないのだが、連絡しても、経過がよくないという返事を聞くばかりだ。もう戻る気はないのかもしれない。

 その間、いよいよ困るとしをりに手伝ってもらっていたが、今やそんなことを頼める状況ではなくなっていた。そもそも連絡がとれないのだ。電話は何度か入れているが、本人は出ず、留守番電話に切り替わってしまう。メールには返事が来ない。しをりの方からの連絡は一切なかった。


「何だかお疲れみたいだね」

 ソファーに沈み込んだ作家が微かに笑みを浮かべて言った。

「え?」

 苦笑に見えた。

 譲治は企画打ち合わせに西東京市にある作家の自宅に来ていた。丁度仕事の話が済んだところだった。

 テーマ、点数 、サイズのバランス、媒体に載せる画像の作品選びなどを、作品を眺めながら決めた。

 新しく取り組む作家なら、この他にも価格設定や展示する作品の価格帯の配分、掲示するプロフィールの依頼、搬出入の段取りや、作家に払う画料の取り決め、支払い方法、来場スケジュール等々も更に決めなければならない。

 この作家の場合は、譲治の所ではもう五度目になるから、新たに決めるべきことなどは殆どない。なのに、事務的な話し方をしてしまったかもしれない。ならば作家の指摘のように疲労のせいだろう。それは仕事上の疲ればかりではない。

「確かにちょっと忙しかったですねえ」

 作家は黙って頷いただけだった。

 作家は皮膚科の医者でもある。二足のわらじを履いているのだ。画風はそつないが、あまり代わり映えしない。

 譲治は同じ作家を毎年取り上げるということはしない。隔年にしている。作家が問題意識をもって新しいことにチャレンジできるように、時間を開けるのだ。毎年毎年どこかしらで、しかも複数回個展を開催する作家もいるが、そういう作家は進歩がない。毎回同じなのだ。新しいフリー客を常に補充できる大手百貨店のギャラリーならいざしらず、譲治のような所でそれをやったら、すぐに客に飽きられてしまい、尻すぼみになる。かといってそれ以上間を開けると、生活のために作家は余所に行ってしまう。二年に一度がギリギリの間隔なのだ。

 この作家の場合、一年開けても全く進歩がないので、本来なら譲治の方から見限ってしまってもいいのだが、作家には独自の色彩感覚があり、捨てがたい魅力になっている。それに号単価を低く抑えてあるので、毎回手堅い売上を作るのだ。また、絵だけで食っているわけではないので、作家は二年に一度でも他に浮気をしないのだ。

 それにしても、十年以上の付き合いになる。自分も年をとったが、作家もそれだけ年をとった 。こめかみには老化による染みが浮いている。今年でたしか七十五のはずだ。

「程々にした方がいいよ。山田さんだってもう若くないんだから」

 作家は妙な目つきをした。

「何もおかしなことはしてませんよ」

「そんな意味で言ってないよ。どうしてそう考えるの?」

 作家は愉快そうに笑った。人をからかう癖があるから困る。

「まあ、貴方独身だからね……」

「とんでもない。……気力も体力もありませんよ」

「ふふふ…… 。さて!  申し訳ないけど出掛けますよ」

 作家が立ち上がった。これから町内の集まりがあると言う。律儀なことだ。親の代からこちらに住んでいるので、地域の付合いは欠かせないのだろう。

 譲治も帰ろうとすると、

「話、終わった?」

 と息子が顔を出した。

「あー、どうもどうも!」

 譲治は腰を浮かせて挨拶した。息子は父親が座っていた場所に腰を下ろした。

「治雄さんは町内の集まり行かないんですか?」

「親父は副会長でしょ? 俺じゃ役不足なんですよ」

「そろそろお前に代わってもらいたいよ」

「人望があるんだから仕方ないよ。それに、アトリエに籠ってばかりいると、健康を害するでしょ?  これでも気を使ってるんですよ 。孝行息子でしょ?」

 話の後半は譲治に向けられていた。

「昔から口だけは達者なんだから。山田さんは疲れてるから、あんまり引き留めるなよ?」

 作家は息子に釘を刺して出ていった。

 治雄も皮膚科の医者だ。父親のクリニックで働いている。こちらは絵は描かないが、代わりに絵を購入してくれる。譲治には顧客なのだ。ただし父親の作品は買わない。

 息子は譲治相手に暫く雑談した。この日は木曜なので、クリニックは休診日だ。開業医の多くが週中の木曜を休診日にしている。

「この間しをりちゃんを見ましたよ」

 ふいに治雄が言い出した。

「へえ、そうですか。どこで?」

 澱んだ倦怠感がいっきに吹き飛んだ。治雄はよく譲治の画廊に顔を出すから、しをりのことも知っている。

「あ 、いや。見間違いだろうね」

 譲治の勢いがすごかったのか、治雄は慌ててそう言った。何かまずいことを言ったかもと思ったのだろう。明らかに譲治としをりの仲に感づいているようだ。だが、疎遠になっていることまではさすがに知らないだろう。

 譲治は、先日画廊にやって来て彼のことを敵意ある目で睨み付けた若い男を思い出した。

「いえ、最近若い男と付き合ってる様子があるんですよ。若いんだから当然あっておかしくないんですがね……」

 譲治は努めて呑気な調子でそう言ったが、内心穏やかでなかった。最近のしをりの行動が気になって仕方がない。

「それがね……歌舞伎町だったんですよ」

 譲治の表情を読みながら治雄が言った。

「たしかに若い男と一緒でしたよ」

「夜ですね?」

「夜」

「もしかすると、よく日焼けした背の高いイケメン?」

「そうそう。何だ、知ってたんですか?」

 ほっとしたように治雄が言った。

 やはりと思ったが、平気そうな顔で譲治は頷いた。ここは黙って、もっと治雄に喋らせたほうがいい。

「二人で盛り上がってましたよ。こう顔を寄せ合って、楽しそうに笑ってね」

「声はかけなかったんですか?」

「いや実は、こっちも連れがいましてね……。それにあんまり楽しそうだったから、邪魔しちゃ悪いしね……」

 治雄は歯切れの悪い言い方をした。彼も女連れだったのだろう。

「へえ……じゃ、今度会ったら訊いてみよう」

 治雄は顔の前で手をヒラヒラさせた。

「俺の話は出さないで下さいよ」

 譲治はにやりと笑ってみせた。

「それから彼女達、どうしました?」

「さあ……。こっちもその後用事があったので、先に出ちゃいましたからね」

 出て、ホテルに入ったということかと想像した。歌舞伎町という土地柄充分考えられた。

 譲治のそんな考えを読んだのかもしれない。治雄がはぐらかすように、

「しかし、しをりちゃんの彼氏、あれ日焼けサロンで焼いた色だね」

 と言った。

「わかるんですか?」

「わかりますよ 。専門だから。最近の若い男は紫外線を嫌って堂々と日傘をさす人が増えましたよね。時代が変わったんですね。でも、やっぱり女性にもてたくてわざわざ肌を焼くのもいる。俺なんかの年代から見ると、そこまでするかなと思うがねえ」

 治雄は五十手前だ。その年代でもそう思うらしい。まして譲治なんかには理解不能な風俗だ。

「顔もにやけてた。女にもてるだろうけど、調子よさそうだった。しをりちゃんの相手としてどうですかねえ? まあ、こっちも酔って一度ちらっと見ただけだけど。しかも夜だったしね。けど、こう見えても人の性格を見抜くのは得意なんですよ。毎日いろんな患者を診てるから」

「折をみて確認してみましょう」

「あくまで一瞥の印象ですよ?」

「余計なおせっかいって言うかもねえ……」

「うん。でも山田さんの話なら、しをりちゃんも素直に聞くでしょう」

 何も知らぬ治雄がそう言った。

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