第22話

     20

 この夜も英樹は語学学校に来なかった。

 教室を吐き出された人々が、ざわざわと傍らを通りすぎていく。

 途絶えたところで、開いたままになったドアから中を覗いて、誰もいないことを確認した。

 英樹に三日会っていなかった。何度か連絡をとったが、忙しそうだった。何でも大きなプロジェクトに取り掛かっていて、深夜まで働いているとか。休みもほとんど取れないらしい。

 働いたことがないしをりには、一流企業の男性の仕事のし方がよくわからない。彼女の知る男達は違っていた。父親は精力的だったが、仕事は自分の流儀を貫いたように思う。自分で構想し、自分の立てたスケジュールで動いて結果を出していた印象がある。役者志望だった昔の男は仕事がなくてただ困っていたし、譲治は定期的な休日はきちんと取るし、夜は大体自由だ。

 その譲治は何度か連絡してきたが、しをりは出なかった。譲治は留守電にははかばかしいメッセージを残さない。ああとかおおとか唸り声が残っているばかりだった。

 しをりは譲治を見限ろうと決心していた。母親の葉月に英樹を〝お付き合いしている人〟と話したことで、そう覚悟が決まったのだ。


 しをりは長椅子にポツンと座っていた。ロビーは静かになっていたが、まだ続いている教室があって、教師の声が切れ切れに耳に届く。

「やあ、まだいてくれたんだ。悪いな。ありがと!」

 と言いながら、今にも英樹が飛び込んで来るのではないかと淡い期待を抱いていた。

 ――何で来ないの? 前にあなた、要は時間の使いようだって言ったじゃない?

 やがて、最後の教室がはねた。また一時に人の群れが吐き出され、しをりの前を横切り、出口から消えていった。

 また一人きりになった。まもなくロビーも消灯されるだろう。

 しをりは立ち上がり、最後の生徒の背を追って校舎を出た。


 このところ夜はめっきり肌寒くなった。しをりはカーディガンの前を掻き合わせると、駅の方向へ向かった。

 途中で雨が降りだして、しをりはタクシーを拾った。

 自宅の町名を言いかけて、ふと気が変わった。譲治のアパートのある町名を口にしていた。

 ドライバーは初老の男で、無口な質らしく、はい、と答えたきり、もう話しかけてこなかった。ルームミラーを見ると、真面目そうな眸で真っ直ぐ前を見ていた。

 その方が、今の気分には有り難かった。

 譲治の家に向かったことで、自然譲治のことを考え始めた。そしてすぐ自分の愚かさに気付いた。

 今更譲治の家に行って、自分はどうしたいのだろう?

 もう見限ったはずだった。まさかまだ未練があるのか?

 車が譲治の自宅に近付いて来た。

「どの辺りですか?」

 ようやくドライバーが必要な情報を得るために話しかけてきた。

「次の信号の先です」

 譲治のアパートは、今走っている道沿いにある。

 信号を越えた。車は減速し始めた。

 その時になって、しをりは譲治が一人でいるとは限らないと気付いた。

 脳裏に譲治の腕にぶら下がる女の顔が浮かんだ。

 ドライバーはしをりが場所を特定するのを待ちながら、徐行に移った。

「ここです」

 車が停まった。

 しをりはウィンドーに顔を近付けて、真横のアパートを見上げた。譲治の部屋は二階の角部屋だ。そこに灯は入っていなかった。だが、譲治が誰かと一緒なら、部屋に灯りが点いていないことは、不在の証にはならない。

 雨筋が窓ガラスをひっ掻くように隙なく走る。しをりはぼんやり自分の暗い顔が映る車窓を寂しく眺めた。

「いないみたいです」

「えーっと、どうします?」

 ドライバーが振り向いた。降りるのかと訊いているのだ。

 しをりは首を振った。

「自宅に帰ります」

 しをりはあらためて目印として自宅近くのランドマークをドライバーに告げた。

「近くになったら教えますから」

 そう言って、しをりは目を閉じた。

 英樹のことを思おうとした。顔はすぐに思い浮かべることができた。だが何故か彼の息遣いも肌の熱も感じられなかった。まるで、いつか観たことがある昔の無声映画のスクリーンでも眺めているようだった。

 しをりはそのことに驚いた。三日会わないだけで 、一人の人間の肉体性は失われてしまうものなのか? それとも自分が薄情なのか?

 意趣返しのように、譲治の映像が割り込んできた。こちらはずっとリアルだった。

 譲治のことを思っただけなのに、なぜか視覚ばかりか五官全ての機能が立ち上がってきた。肌を重ね合わせてきた関係はかくも強いものなのか? 自分はこの呪縛から自由になれるだろうか?

 もう、自分の全てで英樹を受け入れなければいけない、としをりは思い詰めた。

 気が付くと自宅近辺を過ぎ、隣町に入ろうとしていた。



 ふいに雨が降りだした。耳を澄まさなければ聞こえない程静かな雨音で、それでいて濡れる雨だった。

 傘を持っていなかったので、譲治は仕方なく上着の襟を立てた。もう少しで自宅だった。

 その時、前方、自分のマンションの前辺りに停車するタクシーを認めた。

 瞬間、理由もなくしをりがやって来たと思った。

 が、タクシーはすぐに走り去った。降り立った人影はなかった。

 願望か――。

 雨が襟元から内に入り込んできた。

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