第23話

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 あがった息が少し鎮まってきた。

 仰向けの由香里の裸の肩から二の腕にかけて、軽く揉むように触っていく。

 掌を押し返してくる程よい弾力が快い。そして温かかった。

 このところ気温が下がってきている。空調は不要になったが、どうかすると肌寒く感じられる 。肌の温もりが懐かしかった。

 被さってキスした。背中に由香里のたおやかな腕の感触を感じた。

 由香里とは肉体の相性がいいと譲治は思う。

 肉体の相性とは、よりよく性的に昂らせあえるという意味に止まらず、精神的に満たし合えるということをも言う。相手の体の中で安心して憩えるということだ。

 人と人とのコミュニケーションは言葉でしか成り立たないものではない 。特に男女の間ではその意味でセックスの役割は大きい。

 常のように譲治は少しまどろんだ。


 ミルが唸る音に目を覚ますと、既に服を着た由香里がコーヒーを用意していた。譲治は黙ってそれを眺めた。女性がいるだけで部屋の雰囲気はガラッと変わる。譲治一人だけの時は、部屋はぶっきらぼうで、無表情な男っぽい雰囲気を作る。女性がいると、ずっと親密で細やかな情感に満ちた空間に変貌する。

 〝家庭〟という文字が脳裏に浮かんだ。同じ雰囲気は昔結婚していた時にも感じた 。ずっと緊張を強いられる空気の中でではあったが。

 譲治はコーヒーができる前にシャワーを浴びた。

 小さなテーブルに向かい合って着き、コーヒーを飲んだ。

 由香里は、いつものようにとりとめのないお喋りをした。軽く聞き流しながら、譲治の心は穏やかだった。

 何も変わったことはない。

 〝事件〟のことには、その後由香里は一切触れない。譲治も触れなかった。そうしていると、事件など最初からなかったのではないかという気すらしてくる。

 由香里も譲治もこれ迄の関係がこれからも続く事を望んでいた。

 コーヒーを飲み終えると、譲治にお代わりを注いで、由香里は調理場に立った。来る途中スーパーに立ち寄って材料を買ってきたそうだ。牡蠣鍋だった。牡蠣も鍋も今秋初めてだ。そういう季節になったのだ。


 玄関で靴を履きながらもお喋りを止めなかった由香里が扉の向こうに消えると、途端に部屋は火が消えたようになった。

 テレビを点けた。

 冷蔵庫からビールを取りだし、缶のまま飲んだ。

 時間帯なのか、テレビはアニメとバラエティー番組ばかりだ。つまらないので消してしまった。

 しをりと別れようとふいに思った。

 由香里と切れる気はない。だがしをりはそれを赦さないだろう。

 また、自分のような初老の男が、しをりのように若く美しく前途のある女性を放さずに、ズルズルと付き合い続けるのは罪だ。

 しをりとの結婚を考えなかったわけではない。が、しをりの洋々たる将来を奪うことへの罪悪感がその度に彼を思い止まらせた。彼には金も資産もないし、この先ともに過ごせる時間もそう多くはないのだ。

 先日画廊に来た男は、治雄が目撃した男にほぼ間違いないだろう。彼はしをりに思いを寄せているのだろう。あの時の目付きはそういう目付きだった。

 いつの間に知り合ったのか知らないが――それはそれで淋しいことだが――若い者どうしが付き合うのは自然なことだ。

 治雄はあの男を軽薄と見なしたようだが、若い時なんてまだそんなものだろう。最初から成熟した男なんていない。一つずつ年をとる中で、男は成熟していくのだ。

 そして最も肝心なことは、あの男はしをりを愛していて、きっと結婚を望んでいるであろうことだ。自分の場合は、しをりを愛しているのかさえ自信がないし、もう結婚は考えていない。

 やはり身を退くべきなのだ。それもなるべく早い方がしをりのためにいい。

 別れる最良の方法は会わないことだ。電話も一切しないし、またでないこと。傷付けあった傷口を更に広げて別れる悲劇を避け、治癒を時間に委ねるのだ。それが大人の分別というものだ。

 だが、譲治はしをりにどうしても会い、一度顔を見てから別れたかった。それが叶うなら、しをりに罵倒されても、殴られてもいいとさえ思った。

 エゴかな、いい年をして――寂しく自嘲した。

 ふいに誰かにわれたような気がして、窓を開けた。

 いつの間にか雨が降りだしていた。このところ雨ばかりだ。

 濡れた路面が灯りの一つずつを丁寧に映り込ませていた。

 本降りという程ではない。雨音はしなかった。眼下を通過した車の赤いテールランプが潤みながら小さくなっていった。

 今頃しをりはどこかで濡れていないだろうか?――

 そう思った途端、堪らなくなった。

 あやふやな気持ちのまま、抗いがたい思いに突き動かされて電話を入れてみたが、しをりは出なかった。

 譲治は窓辺に戻った。

 道路の反対側でタクシーを降りた女性が小走りに、反対方向からの一方通行になっている脇道に飛び込んでいった。

 そういえば由香里は傘を持っていたのだろうかと、その時になって初めて考えた。




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 スマホが鳴動した。飛び付くように取り上げると、期待に反して譲治からだった。そして今まさにしをりは譲治のことを考えていたのだった。

 しをりはスマホを放り出し、鳴るに任せた。

 掛かってくるのは譲治からばかり。肝心の英樹からは全くない。反対にしをりからは何度も電話を入れているのだが、レスポンスはない。会えなくなった直後は電話には出てくれた。多忙を言い訳にしていた。それがこのところは出てもくれなくなった。

 どうしたのだろう?

 会えなくなると、不思議に俤がどんどん抽象化してきた。このままいくと、英樹は記号のようになってしまいそうだ。デートも会話も、声音も表情も仕種も全部体験したことなのに、なぜかその実感が希薄で、どこかドキュメンタリー映像ででも見知ったことが記憶に混入してしまったような、そんな危うさを感じた。譲治に対してはそんなことはないのに。付き合いの長さ――量の違いなのか。質の問題とは思いたくなかった。

 こんなことになるのなら、写真の一枚でも貰っておくのだったと悔やんだ。

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