第24話
しをりは英樹への連絡手段を考えようとした。そして英樹の正確な住所すら知らないことに気付き、愕然とした。
会社に電話してみることは既にやった。本人は外出中と言われたので、連絡を寄越すよう伝言を残したが、返信はとうとう来なかった。
英樹の交遊関係も知らない。仕事で出社はするのだから 、社内の誰かに頼るのが一番確実だろう。しかし、しをりは英樹の会社の人間など一人も知らなかった。いや、一人だけ知っていた。柏田常務だ。だが、英樹は今まさに柏田常務の指揮下、重要なプロジェクトに取り組んでいるのだ。こんなことで、名を聞きかじっただけの面識もない柏田に連絡の取り次ぎを頼んだら、英樹の足を引っ張ることになりかねない。
他につてはないだろうか?
大学の同窓?――そうだ。
大学の一、二年の時属していたバドミントン同好会の名簿が確かあった。
しをりの大学は世間で名門校と言われる私大だ。英樹の会社に入社している者もいそうだった。
名簿はすぐに見つかった。最近は個人情報保護の観点から、あまり住所録は作成されない。しかし、同好会のような身内意識の強い団体では、メンバーの同意を得て作ることがあるのだ。
しをりの同好会は創立が新しく、しをりの代で五期目だった。そのため、創立以来第六期までのメンバー全員を知ることができた。第一期と第二期のメンバーには、就職先まで記載されていた。
英樹の会社には一人だけOB――正確にはOGが入社していた。
藤原真帆。第一期つまり創立メンバーだ。一緒にキャンパスにいたことはないが、OBと現役の親睦会で見かけた記憶がある。
「……」
しをりが話し終えても、真帆はカウンターの上のハイボールのグラスに目を落として、しばし無言だった。
しをりは不安な気持ちでその横顔を眺めた。
美人ではないが、聡明で意志の強そうな顔。大学一年生にして、仲間と新しい会を創立し、軌道に乗せた行動力は今も健在だろうと思わせる雰囲気がある。結婚していないのは、仕事が面白いからだと想像させる、バリバリのキャリアのオーラがある。
おでんが名物の居酒屋。かなり広いのだが、ほとんどがカウンター席で、テーブルは三つしかない。
カウンターの角席に肩を寄せ合うようにして、二人は話していた。横の人が身じろぐ度に体がぶつかるような狭さだが、活気があり、こんな時でなければ素直に雰囲気を楽しめただろう。
「乃村さん、あなたクラブの後輩だからざっくばらんに言っちゃうけどさあ――」
しをりに向けた眼差しには知的な光があった。しかも迷いのない目。一瞬沈黙したのは、どう話そうか思案したせいだと、しをりにも分かった。
「気持ちは分かるけど、槙嶋さんのことは諦めた方がいいわよ」
思わぬ言葉だった。
「えー? どうしてですか?」
「あなたの言う通り、槙嶋さんは今大きなプロジェクトに取り組んでるわね」
「はい。時間が作れないようです。でも、それが諦める理由になるとは思えませんけど」
「槙嶋さんがあなたとお付き合いしてたことは知らなかった。でも、あなたの話であたしも色々合点がいった。彼があなたに会わなくなったのは別の理由からよ」
「何ですか?」
「常務のせいなのよ」
「……目処がつくまであたしに会うなとか?」
真帆はかぶりを振った。辛そうな顔になった。
「常務がバツイチの娘を彼に押し付けたのね。で、彼もそれを承諾してしまった」
「それって……つまり、結婚ってことですか?」
真帆は苦々しげに頷いた。
「あなたより野心を採ったわけね」
「そんな――」
しをりは言葉を失った。とても信じられることではなかった。
「証拠は……証拠はあるんですか? 藤原さん一人の印象じゃないんですか?」
失礼なことを言っていると考える余裕はしをりになかった。真帆もそれを咎めなかった。
「公然の秘密よ。社内の誰もが知ってるわ」
「そんなこと――」
真帆から出された名刺には、本社総務部総務課とあった。社会人としてはまだ若手だが、真帆は社内の色々な内情を知りうる立場にあるようだ。
「諦めなさい。辛いだろうけど……。だって、それだけの男だったのよ。ほんと、最低の奴ね」
「その女性、いくつなんですか?」
「あなたより一つか二つ上ね」
「バツイチっていいましたけど、子供はいないんでしょうか?」
「いないわ。ねえ、悪いことは言わない。そんな男はあなたの方から捨てちゃいなさい。あなたは若いし充分魅力的なんだから、またいいご縁があるわよ。同じ釜の飯を食った先輩として、心からのアドバイスよ」
「……」
「で、どうなの、最近バドミントンの方は?」
黙り込んだしをりを気遣って、真帆が話題を変えた。
「三年から全然してないですよ……。クラブもいつの間にか除籍されたと思います」
「残念ね。もうバドミントンしないの?」
「そうですね。途中から情熱がなくなっちゃって……」
受け答えしながら、しをりは上の空だった。なんとか口は動いているが、全身から力が抜けていた。
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