第25話

     23

 人出入りの多いビルだった。これなら留まっていても不審感を持たれずにすむだろう。

 この場所は、別れ際になんとか真帆から訊きだしたものだ。

 英樹の会社ぐらいのランクになれば、セキュリティーが万全で、関係者でない者が立ち入ることは普通できない。

 しかし、プロジェクトがまだ立ち上がったばかりで人数が揃わず、準備室が仮にこの本社近くの関連会社の古いビルに入っていたことが幸いした。

 古いといっても、堂々とした重厚な造りで、一階のロビーは広かった。しをりは隅にあるソファーに陣取った。今日のしをりは地味なチャコールグレーのスーツを着用している。目立たないよう配慮したのだ。

 英樹本人に直接訊かなければならない。

 真帆の言葉だけで、はいそうですかとは引き下がれない。人の話しには主観が混じるものだ。真帆が英樹に想いを寄せていて、いきなり現れたライバルを排除するために架空の話を捏造した可能性や、英樹に振られて逆怨みし、あることないことしをりに吹き込んだ可能性も一応疑ってみるべきだし、恋愛感情がなくても馬が合わず、英樹に意地悪をしてやろうと思っているケースや、単に間違った風評を真帆が信じ込んでいるケースも考えられる――その可能性にすがりたかった。


 腕時計に目を遣った。丁度午後一時になった。

 もし英樹が仕事で外出しておらず、特別な用もなくて、昼食のため正午位に外に出たとすれば、もう戻ってきていい頃合だった。

 あまり早くからいると目立つので、しをりは人出が多くなるような昼過ぎからここに腰を据えた。だから食事に出る英樹の姿は見ていない。

 建物に入る前にまわりを一周してみた。裏口はあったが、そこから一般の社員は出入りしていないようだった。

 問題は、中に社員食堂がある場合だ。そのときは、いくら待っても英樹は現れない。

 だが、すぐ杞憂と分かった。上着を脱いだワイシャツの群が三々五々連れ立って出てきては、外へ消えていった。手にコンビニ弁当の袋をぶら下げて、早々と戻ってくるOLもいる。

 じっと待ちながら、しをりは自分の大胆さと行動力に驚いていた。

 何とか英樹と連絡を取ろうと思ってから、真帆とのアポ、この日の待ち伏せと最速でここまで来た。これ迄の自分ならどうしていいか分からずに途方に暮れ、ずっと足踏みしていたはずだ。

 思えば、全ては譲治の裏切りから始まった。

 親に見捨てられた動物の仔は、生きるため自然に自分の牙と爪を使うことを憶えるのか?


 入ってくる人の数が、出ていく人の数と同じようになってきた。丁度入れ替えの時間帯なのだ。

 嬌声がして、しをりはそちらに目を遣った。

 淡いピンクの制服を着た一団が笑いながら入ってきたところだった。

 その真後ろに、頭一つ一団から抜け出た男の顔があった。

 しをりは反射的に立ち上がっていた。


 英樹は溌剌として見えた。顔立ちもいいので、周りの男達の中で一際目を引いた。久し振りに見る恋人の姿に、しをりは胸が一杯になった。

 英樹は女性の一団をかわし、足早にしをりの方に向かってきた。

 しをりはその前に歩み出た。

「槙嶋さん!」

 英樹はギョッとして立ち止まった。

「……やあ」

 端正なマスクがみるみる強ばり、歪んだ。

 その顔を見て、しをりは英樹の心変りを確信した。

 それでもしをりはにこやかに言った。

「お忙しそうですね。少しぐらいお話できないでしょうか?」

「よく……ここがわかったね」

 それには答えず、

「ちっとも会ってくださらないんですね。寂しいです」

 と言った。

 英樹は落ち着かなくなり、周囲に目を泳がせた。

 しをりはまだ笑んでいた。つられて英樹も無理な笑みを浮かべた。

「困るよ、会社に来られちゃ。悪いけど、今君と話してる時間がないんだよ。後で連絡するからさ」

「駄目!」

 しをりはわざと大きな声を出した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る