第26話

「あなたと話しあわなくちゃいけないことがいっぱいあるんです。逃げても会社の中までついていきますよ⁉」

 近くにいた人達が何事かと目を向けた。英樹は怯えた目を周りに投げた。

「逃げるなんて、何言ってるんだ!」

「だって、そうとしか思えないもん。あたしのこと嫌いになったの?」

 今や、完全に二人はホール中の注目を集めていた。大分離れた総合案内カウンターの女性達までこちらを見ていた。

「待てよ! ここじゃ話しもできない。外の喫茶店で待っててくれないか。通りの反対側に……」

 英樹はしをりの肩に手をやり、入口の方へ押し遣ろうとした。しをりは身を捩ってその手を振り払った。

「嫌です。ちゃんとあなたが来る保証はないわ。今ここで話しましょう!」

「必ず行くから!」

「どうしても話してくれないなら、あなたの家に火を点けますよ⁉」

 とっさにそう言っていた。

 驚いた目が幾つも二人に注がれた。

「わかった!  とにかくここを出よう。何か誤解してるようだ。話せばわかる」

 英樹はしをりを引きたてるようにして外に出た。


「家に火を点けるとは穏やかじゃないな」

 顔を顰めて英樹がしをりを睨んだ。

 喫茶店は造りはゆったりしていたが、オフィス街の昼時なので、混んでいた。聴こうと思えば、人の話は充分聴こえる。それが英樹を苛つかせていた。

「嘘よ」

 反対にしをりは落ち着いてきた。主導権は握った。

「あなたの家なんか知りません」

 瞬間、英樹は黙った。まんまとやられたと分かったのだろう。

「そうか。そうかよ!  で、何だってこんなことすんだ?」

 乱暴に英樹が詰った。英樹にこんな風に言われるのは初めてだった。

「この間プロポーズしてくれましたね?」

「……何だよ、いきなり」

「してくれたわね?」

「ああ、したよ……」

「あれ、慎んでお受け致します」

 しをりは頭まで下げた。

 冷水を浴びせられたように、英樹は身を竦ませた。

 頭を上げて、しをりは英樹を見据えた。

 英樹は居心地悪そうに身動ぎをした。

「どうしたの?  喜んでくれないの?」

「押し掛けて来てまでして、今話すことかよ?」

「式の日取り、決めなくちゃね」

「一体どうしちゃったんだ、君は? おかしいぜ」

「両方の親にもお互い挨拶しないと……」

「この話、改めてしよう!」

「新婚旅行、どこにする?」

「聞けよ……」

「何をよ? もしかして、結婚する気がないの?」

「わかったよ……」

 急に英樹は不貞腐れた。

「改めて話そうと思ってたけど、いいや。いい機会だ。結婚、よそうぜ」

「何ですって?」

「あれからよく考えた。君が付き合ってる男さあ、悪くないんじゃないか? 冷静に考えればお似合いのカップルだ。僕は身を退こうと思う」

「どうして急にそんなことを……。本気で言ってるの?」

「ああ。残念だけど、その方が君にいい」

「彼との間に未来はないなんて言ったじゃない?」

「一時の感情でつい悪く言ってしまった。忘れてほしい」

「それであなたはいいの?」

「そう自分に納得させた」

 しをりは暗憺たる気持ちになった。覚悟していたとはいえ、実際に英樹の口から聞くのは辛かった。

「ゴルフとかテニスとか色々教えてくれる約束だったじゃない?」

 英樹は鼻を鳴らした。

「どれも皆仕事だよ。楽しいからやってるわけじゃない。君とは一緒に楽しみたいと本気で思ったこともあったけどね」

「約束違反ね?」

「今更それが何なんだよ?」

「あなたの話、今一つ説得力がないわね」

 英樹はかぶりを振った。

「どう思われてもいい。とにかくもう頭は切り替えた。そして僕は一旦決めたことは変えない主義だ」

「冷たいのね。柏田常務のお嬢さんとの結婚にもう頭は切り替えたから?」

 英樹は穴の開くほどしをりを見詰めた。

 それから身を反らせ、投げやりに言った。

「何だ、分かってんのか。なら話が早い。そうだよ。その通り! 打算的な男なんだよ、僕は」

 それから急に声を和らげた。

「正直なはなし、今でも君が好きだ。嘘じゃない。でも敢えて出世を選んだ。お袋の苦労を散々見てたし、自分もいいようのない苦労をしてきたからな。あの頃の不安と絶望の気持ちが君に分かるかい? 思い出すと、今でも血圧が上がる程だ。だから後悔はしないし、君に対しても悪いと思わない」

「そう……」

 そこまではっきり言われると、やはり落ち込む。心のどこかで変節を否定されることを望んでいた。

 だが、落ち込んでばかりはいられない。これからもう一仕事しなければならない。しをりは心の中で自分を鼓舞した。

「さあ、もう充分だろ? これ以上話したって無駄だ」

「柏田常務は知ってるの?」

「え? 常務から持ちかけて来たんだぜ?」

「違うの。あたしの存在を知ってるかよ」

「話はした」

「何て言われたの?」

「別れろってさ。もう殆ど命令さ」

「信用できないわ」

「なに?」

「柏田常務はあたしの存在を知らなかった。あなたはそれをいいことにお嬢さんとの結婚話に乗った。もし柏田常務があたしの存在を知っていたら、結婚話は持ってこなかったかもしれない」

 英樹は皮肉な薄笑いを浮かべた。

「そんな人じゃない」

「じゃ、それを今から確かめに行きましょう」

「何だと?」

 しをりはスーツの内ポケットからICレコーダーを出して、テーブルに置いた。

「全部録音させてもらったわ」

 英樹の目が見開かれて、それに釘付けになった。

 録音があるからといって、それがすぐ結婚詐欺を意味するわけではないだろう。が、しをりに騒ぎ立てられれば、彼のキャリアには大きな傷がつくだろう。

 その顔を眺めて、しをりは突然笑い出したくなる程昂揚した。

 自分の中に眠っていた別の自分に驚き、かつ痺れていた。

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