第9話
譲治は結局古書店には寄らず、そのままダンス教室の入口まで由香里を送っていった。
「ありがとう」
由香里は一度真正面から彼を見たが、すぐに視線を逸らせた。瞼が赤くなっていた。
「じゃ、な……」
彼は力なくそれだけ言った。
頷くと、由香里はもう彼の方は見ずに中に入っていった。
複数の女性の、挨拶と笑い合うはきはきした声が聞こえた。
譲治は自分がどうしたいのかわからず、しばらく茫然とした。
気付くと、日向の真只中に突っ立っていた。じりじりと陽が照りつけていた。反対に心の中には巨きな影が落ちていた。
ふん、水に落ちた犬より惨めな気分だな――
そう自嘲した。
ブラブラと歩きだした。「禁じられた遊び」のラストシーンの女の子の後姿が想い出された。
いつしか、来た道を戻り始めていた。電車に乗るにせよ、しをりを追うにせよ、どのみち辿る途ではある。
脳裏にしをりの眸が浮かんだ。口の中が苦くなった。
心を決められぬまま、駅につながる横道に差し掛かっていた。譲治は迷いの目をそちらにむけた。
道は完全に日陰に入っていた。人気もなく、ひっそりと曲がっていた。
横道の中程、突き当りのカーブする箇所に見えるのは、もう永いこと「貸し店舗」の貼り紙がしてある、朽ちかけた元小料理屋だ。その貼り紙もとっくに褪せて、殆ど読めなっている。
決心できぬまま、横道をやり過ごしていた。
もう選択の余地はなかった。
次の角を曲がり、比較的広い道に入った。石畳の道で、どういう訳だかあまり車両が通行しない。車を運転しない譲治にはその理由はわからない。
広場に出た。
舗石を同心円状に敷き詰めた円い広場で、隅っこにカフェがある。カフェの前にテーブルが幾つか出ていた。日陰の席は全て埋っていた。
しをりはすぐに見つかった。
かろうじて空いていた席なのかもしれない、半分日向にはみ出たテーブルの、日陰の席にしをりは座り、足を組んでいた。顔は帽子のツバの蔭になっている。
うっかりしていた――
譲治は自分の迂闊さを呪った。
偶々この町にはしをりが師事している茶道の先生が住んでいた。男性の、なんでも偉い先生らしいのだが、高齢で、しかも先年伴侶に先立たれたので、時々弟子達がご機嫌伺いを兼ねて交代で身の回りの世話をやきに行くのだと、以前しをりから聞いた。その時は、家はしをりの話からこの先辺りだなと見当がついていたのに。
近寄ると、しをりは物思いに耽っている様子だった。
黙って隣の席に座った。
プラスチックの椅子が灼けるように熱い。
しをりは譲治の気配に心持ち顔を上げ、ちらりと彼を見た。
拒絶の色は認められなかった。願望かもしれないが。だが温度の低い眼差しだとは感じた。覚悟はしていたが。
沈黙が続いた。
じりじりと直射が身を焦がした。地獄で舌を抜かれ、焼けた山を登らされたら、こんな気分なのだろうか?
こういう時は一体何を言うべきなのか?
嘘はつきたくない。言い訳する気は尚更なかった。男は言い訳するな、が彼の信条だった。すると、もう言えることがなかった。
しをりは白いレースのカーディガンに白いミニスカート。インナーに紺の横ストライプの入った白いカットソーを着けていた。ストライプはウエスト部分でパターンが切り替わり、そこより下はより細く、間隔の狭い縞になっていた。靴は白と紺の革の切り返しのサンダルだ。
テーブルの上には、酒ではなくアイスコーヒーが乗っていた。殆ど口がつけられていなかった。グラスがびっしょり汗をかいていた。
ウェイターがやって来た。
ビールをたのんだ。酒類があるのかわからなかったが、ウェイターが生かと訊いたので、 それを、とたのんだ。
運ばれてきたジョッキの中身とグラスの汗が半分に減っても、どちらも口をきかなかった。とんだ形でエドワード・ホッパーの世界の住民になってしまった。
「あたし、もう行かなくっちゃ」
とうとうしをりがそう言った。
返事のかわりに譲治は低く唸った。次いで一気に言った。
「お前が好きだ」
他に言うべきことが思い付かなかった。我ながら唐突で間抜けな発言だと思った。
しをりの瞳に初めて感情の揺らぎが見えた。哀しみとも苦しみとも取れた。目の縁が赤くなった。だが泣きはしなかった。
二人は、望むと望まざるとに拘わらず、互いに引きずられる磁石のS極とN極のように、互いの視線を絡ませた。
短くも重苦しい交錯だった。身勝手にも譲治は、しをりに彼の〝真摯さ〟は感じてほしいと願っていた。
ふいにしをりの眸の方が外れ、頼り無げに浮遊した。
桜花の一片が散ったようだった。
何か大事なものが決定的に失われたような、取り返しがつかない局面に踏み入ってしまったような、脆い印象を譲治は抱いた。
すると、チリチリと熱が背筋を這い昇ってきた。
彼が感じたものは怒りだった。それが何に由来し、どこに向かうものなのか、彼自身にもよく分からなかった。
そうした譲治をしをりは最後に一瞥した。そして傍らのバッグを掴んだ。横方向に切れ切れの長い楊枝状のパターンが型押しされた、革の口広のブルーのバッグだ。その中に化粧品や手帳や文庫本に混じって、彼を喜ばせるための女らしい下着がいつも忍ばせてあるのを譲治は知っていた。
「じゃ、行くね?」
「うん」
後姿を見送りながら、譲治はローヒールの跫が遠ざかるのを聞いていた。
一人になって喉が渇いていることに気が付いた。ビールをあおった。
それはいつになく苦かった。
景色が褪せて見えた。プリマドンナが幕の蔭に消えた後の華のない舞台を見ているようだった。
「お前が好きだ」――自分の言葉がまだ耳に残っていた。
果して本当だろうか?
譲治は心の中を探った。だが分からなかった。分からないのだから、嘘をついたわけではない――無意味にそんなことを思った。
取り敢えずしをりが口をきいたのはいい兆しだと考えることにした。
カフェのガラスにそんな譲治の姿が映っていた。生中線を境に、見事に日向と日陰に身体が等分されていた。それぞれの目に当たる光量のアンバランスにさえ、それまで気付いていなかった。
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