第10話
9
ハイボールのグラスを置き、煙草を銜えた。
ゆっくり煙を吐く。
煙が空調の風で顔に戻ってきた。 自分で吐いたくせに、煙くて嫌だ。目を細めて撹拌されだした紫煙を眺めた。
煙草はメンソールだ。メンソールを吸う者は煙草呑みに入らないと誰かが言っていた。真偽は知らないが、こと自分には当てはまると思う。
しをりが煙草を吸うのは、考え事をするためだ。以前付き合った男に習った癖だった。その男のことは、今では思い出すことも稀だが、煙草の癖だけは刷り込まれた。
十も歳上の男だった。密集した黒い髪を長く伸ばし、髭も濃く、下顎あたりは毛むくじゃらだったが、妙に色白だった。
男は俳優を目指していた。妻子を田舎に残して単身上京し、頑張っていたが、なかなか芽が出なかった。それで糊口を凌ぐのにピアノを弾いたりしていた。ショパンが好きだった。その男のショパンはしをりに何の感動も与えなかったが、後に機会があってちゃんとしたビアニストでショパンを聴き、感受性の著しい相違に驚いたものだった。
最後は刀折れ矢尽きて 、悄然と妻子の許に逃げ帰った。
彼女に残したのは短いメールだけだった。彼女は後を追わなかった。その内メールアドレスも変えられていた。
ずっと年上の男とばかり付き合うのは、自分がファザコンだからだと自分でも分かっている。それ程亡くなった父親の存在が大きかった。その早すぎる死で、父親への反抗という通過儀礼を経験しなかったこと、それが響いて父離れしていないのだと頭では理解している。
譲治の驚愕した顔が脳裏を去らない。一緒にいた女性は何者だろう?
なんでもない関係なのだと信じたかった。
親戚の女性だったかもしれない。仕事の関係なら、女流作家とか同業者などの線も考えられる。
そうだったなら、どれだけ楽か。恋愛に発展しなくても、男と女は擬似恋愛感情を抱きやすいものだ。それは種の本能みたいなものなのだろう。だから親しそうに見えただけかもしれない。
だが、しをりは結局辛い判断を下さざるをえなかった。
あの時見た親密さは明らかにそんなレベルを越えていた。第一、なんでもない関係だったら、譲治は自分に彼女を紹介しただろう。
そして、広場のカフェでの譲治の恐ろしい沈黙――。
譲治は、自分では多分甲羅を経たしたたかな男を自認しているだろう。だが、女の目から見れば、修行が足りない。感情がすぐ顔に出る。複雑な性格だが、気分のコントロールが出来る程練れていない。ずっと年上なのに、利かん坊小僧のように感じられることがしばしばある。
そして、利かん坊はあの時一切言い訳をしなかった。嘘が嫌いな男ではある。状況に応じて調子いいことを上手く口にする器用さは持ち合わせていない。だから何でもなかったのならそう言ったはずだ。黙っていたのは、後ろめたいことがある証拠だ。
お前が好きだ、ですって?
本心かもしれないが――しかも初めて言われた、本来なら喜ぶべき宝石のような言葉だが――浮気の疑惑への釈明には全くなっていなかった。
嘘ではないと信じたいが、あの状況で言われたのでは、苦し紛れに取って付けたみたいで、素直に喜べない。
大体あれって〝浮気〟なのか?
男の浮気は絶対駄目とはしをりは思っていない 。亡くなった父親は時々浮気をしていたようだ 。両親は、母親が朝父親にアンダーシャツを着せてやり、夜また脱がしてやる程仲睦まじかったのだが、母親は夫の素行を疑う時は、シャツをわざと裏返しに着せたと言っていた。夜シャツが表に直っていれば、どこかで脱いだ証拠になる。だが、母親はそんな父を赦していた。両親を見て育ったしをりは、男と女とはそんなものだと思っていた。
だが、浮気ではなく、本気だとしたら……。
彼らに遭遇した時は、見たものを咀嚼できず、ぼうっとしてしまった。どう解釈したらいいのか、変な話だが、譲治に絵解きを教わりたいぐらいの気持ちだった。
その時間帯が過ぎると、漸く解釈が自然な帰結に落ち、激しいショックを受けた。初めの感情の鈍麻は、あれは現実を見まいとする無意識の自己防衛だったのか。
あれから二日経っていた。
二股を――二股だとして――かけていた譲治が開き直り、自分を切り捨てるという想像がしをりを苦しめていた。
一方で、譲治が悔いて自分のもとに戻ってくるという希望も捨てきれなかった。都合のいい考えを前提に、譲治をどうしてやろうかと、あれこれ妄想した。
今度逢って、譲治が弁解を始めたら、テーブルの下で足をヒールで思いきり踏みつけてやろうか? そして仰け反ったところを、コップの水を顔面にかけてやる。雨に濡れそぼった小鳥のように目をパチクリさせる譲治をその場に残して、しをりは悠然と去る……。譲治は今まで、自分を無邪気なペットの牝猫ぐらいにしか見ていなかったろうが 、実は牙を持つ誇り高い牝ライオンなのだと思い知るがいい! すると、彼は世にも情けない顔で追いすがってきて、しをりに赦しを乞うのだ……。
ステレオが大きな音をたてた。
モーツァルトのピアノ協奏曲第二十三番――彼女の好きな曲だ――をかけていたことを忘れていた。静かな第二楽章が終わって、溌剌とした第三楽章が始まったのだ。
モーツァルトの好みをしをりに植え付けたのは譲治だ。
しをりは弾かれたように立ち上がり、プレイヤーのコードを掴み、乱暴にそれをコンセントから引っこ抜いた。
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